旅の栞 (フランス)

5月25日

アヴィニョン [Avignon] ~
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard]
ルシヨン [Roussillon]ゴルド [Gordes]
アヴィニョン [Avignon]


2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/france/newpage4.html

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アヴィニョン [Avignon]
人口9万人の町で、紀元前4世紀頃から人が住んでいた。 紀元前6世紀頃に現在のマルセイユ [Marseille]* に植民地を築いたギリシャ人がローヌ川を遡って、この地に港を築き、交易の拠点としてアヴィニョンの町を発展させた。  やがてローマ時代にも町は発展していくが、古代の遺跡は、殆ど残っていない。 この アヴィニョンに法王庁が移されたのは14~15世紀の中頃で、教皇の宗教的、政治的、経済的な権威を弱体化させるためフランス王フィリップ4世が「アヴィニョン捕囚」を行った。 1309年から1377年までキリスト教のカトリック・ローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期にはアヴィニョンの教皇は7代に亘って引き継がれた。 初代のアヴィニョン教皇は、1305年の教皇選挙にフィリップ4世が介入し、自分の息のかかったクレメン5世を選出している。 アヴィニョンに法王庁宮殿 (教皇宮殿) を建てたのは、3代目のベネディクトゥス12世と4代目のクレメンス6世。 最後の、7代目の教皇グレゴリウス11世は1377年にローマに戻り、アヴィニョン捕囚の期間は終わるが、グレゴリウス11世は翌年に逝去した。 その後ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世 (アヴィニョンを本拠とした最初の対立教皇) を選出した。 こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ (教会分裂) が起こる。 教会分裂に終止符を打つべく行われたピサ教会会議 (1409年) では、アレクサンデル5世を新教皇として選出したが、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世 (クレメンス7世の後継者) とローマ教皇グレゴリウス12世 (在位:1406年~1415年) が退位しなかったため、3人の教皇が鼎立 (ていりつ) するという異常事態を招いて失敗に終わる。 1415年、コンスタンツ公会議で3人の教皇の廃位が正式決定。 グレゴリウス12世は自主的に退位、ヨハネス23世 (アレクサンデル5世の後継者) は捕らえられて廃位された。 ベネディクトゥス13世は退位を拒否したが、1417年に正式に廃位、新たにマルティヌス5世が選出された。 アヴィニョンは、法王庁がローマに帰還した後も、法王領として存続し続け、フランス大革命中の1791年に、フランスはローマ法王庁より、この地方を買い受け、初めてフランスに併合した。 因みに、法王庁宮殿 (教皇宮殿) は、1906年まで兵舎や牢獄として使われていた。

 当時は、古代ギリシャ語の マッサリア [Μασσαλια] で呼ばれていた。

アヴェ・マリア (トランペット)
hotel mercureでの朝食 (07:45)
MAPLay. A 
hotel mercureでの朝食 (07:46)
MAPLay. A 
宿泊ホテル前の通り (08:04)
右手の建物は、宿泊ホテル メルキュール アヴィニョン サントル パレ デ パップ [Mercure Avignon Centre Palais des Papes] 。 通りの突き当たりは、教皇庁宮殿 [Palais des Papes] 。
「北東」MAPLay. A 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:05)
「北東」MAPLay. A 

hotel mercure (08:06)
左手の建物は、宿泊ホテル "hotel mercure" 。
「南西」MAPLay. A 
宿泊ホテル メルキュール アヴィニョン サントル パレ デ パップ (08:06)
右手のグレーの建物は、宿泊ホテル "Mercure Avignon Centre Palais des Papes"。 その後ろにある蔦の絡まった建物は、昨夜夕食の ミシュラン一つ星レストラン "クリスチャン・エティエンヌ" [Restaurant Christian Etienne]
「南南東」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:07)
「北西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:07)
「北西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] と 教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:07)
「北東」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (08:08)
「北東」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (08:08)
「北東」MAPLay. A 

《注意:下の文は上の写真を説明したものではありません》
城壁に囲まれた町の中心よりやや北寄りに、法王庁宮殿と呼ばれる大きな宮殿がある。 法王庁 (教皇庁) といえば、ローマ (現在のヴァティカン) であるはずだが、14世紀の約70年間は、法王庁がアヴィニョンに置かれていた時期があった。 アヴィニョン時代の最初の法王は、クレメンス5世である。 彼はフラ ンス人で、ボルドーの大司教だった。
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (08:09)
「北東」MAPLay. A 

《注意:下の文は上の写真を説明したものではありません》
当時のフランス王フィリップ4世 (ハンサムだつたので美王と呼ばれた) と、ローマ法王ボニファティウス8世の間で対立があり、フランス軍が法王を襲撃するという事件が起こった。 その後、フランス王は、ボルドーの大司教をローマ法王クレメンス5世に選出して、1309年にアヴィニヨンの近くに法王の座を移した (「アヴィニョンの捕囚」) 。 それから7代にわたるアヴィニョンの法王たちは全員フランス人であつた。
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:10)
当時のアヴィニョンは、フランス王国でなく、プロヴァンス伯のものであつた。そして、プロヴァンス伯から買い取つて、アヴィニョンを法王の都と定めた。 法王庁宮殿 (palais des Papes) は、1334年から1352年にかけて建てられた。 正面から見ると横に長く、左右2つの建物がくっついているように見える。 これは、2人の法王がそれぞれ時を異にして建てたからである。 1334年に建築が始まった古い部分は、向かって左側の建物で、アヴィニョンにおける3人目の法王べネディクトゥス12世 (在位1334年~1342年) による。 彼は、厳格なシトー 会の修道士出身であり、宮殿は大変地味で質素である。 向かって右手の建物は、4人目の法王クレメンス6世 (在位1342年~1352年) によるものである。 彼は、もともと貴族の出で、ベネディクト派の修道士会出身である。 贅沢好きな法王であっ たと言われ、宮殿内部も豪華に設えた。 しかし、この宮殿もモンサンミッシェル同様、フランス革命のときには牢獄として使われ、家具は 売られたり壊されたりして、何も残っていない。  (新宮殿と旧宮殿の関係図)
「南」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:11)
「南南西」MAPLay. A 

《注意:下の文は上の写真を説明したものではありません》
アヴィニョン7代目の法王グレゴリゥス11世 (在位1370年~1378年)は、法王の座を 1377年にローマに戻した。 ローマに戻るきっかけとなったのは、シエナ (イタリア) の力テリー ナというドメニコ会の修道女が、アヴィニョンまでやって来て、法王を説得したことによる。 力テリー ナは、8歳のときにドメニコ会の修道院に入り、神の出現を何度も体験した。 亡くなった後は、聖人として列聖され、イタリアの守護聖人とされている。 しかし、法王庁がローマに戻ったあとも、ローマとアヴィニョンの両方に法王がいることになり、1417年まで分裂が続いた。 法王庁宮殿の左隣 (北側) には、ノートルダム・デ・ドン 大聖堂 (12世紀建造) がある。 鐘楼の上には、聖母マリアの像がある。
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (08:11)
「北東」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:12)
「南南西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:12)
「南西」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (08:13)
鐘楼の上に聖母マリア像がある建物は、12世紀に創建されたアヴィニョン大聖堂。 手前のイエスキリスト像のある所は、教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] 。
「東北東」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (08:13)
教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] からの眺め。 中央に見える建物は、プティ・パレ美術館* [Musée Du Petit Palais] で、イタリアの画家ポッティチェリの「聖母像」など、宗教画が多く展示されている。
「北西」MAPLay. A 

プティ・パレは小宮殿を意味する14世紀に建てられた司教館で、現在は美術館になっている。
宮殿広場 [Place du Palais] とアヴィニョンの町並み (08:13)
教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] からの眺め。
「西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] とアヴィニョンの町並み (08:13)
教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] からの眺め。
「西南西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] とアヴィニョンの町並み (08:14)
教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] からの眺め。
「南」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] とアヴィニョンの町並み (08:14)
教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] からの眺め。
「南西」MAPLay. A 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:15)
「南」MAPLay. A 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:15)
「南南西」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:17)
左はアヴィニョン大聖堂で、鐘楼の上には聖母マリアの像がある。 階段を境にして右側は教皇庁宮殿。
「東」MAPLay. A 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (08:18)
道路の突き当たりの、右に出っ張った部分が新宮殿で、左に見える建物は旧宮殿。 (新宮殿と旧宮殿の関係図)
「南」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 (08:18)
聖母マリア像の建っている建物は、アヴィニョン大聖堂。 その前の十字架の建っているところは、教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] 。
「北北東」MAPLay. A 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] の入場口 (08:19)
「東南東」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (08:52)
鐘楼の上には、聖母マリアの像が建っている。
「北東」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (08:52)
「北東」MAPLay. A 
城壁に空けられた通路 (09:02)
中世に法王庁 (教皇庁) が置かれた旧市街地は、全体が城壁に囲まれており、宿泊ホテルの在る城壁内から城壁を通り抜け、ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] へ向かう。 フェリュス通り [Rue Ferruce] からリーニュ通り [Boulevard de la Ligne] へ向かう。
「北北西」MAPLay. A 
リーニュ通り [Boulevard de la Ligne] (09:02)
城壁の外周に沿って走るリーニュ通り。
「西」MAPLay. A 
リーニュ通り [Boulevard de la Ligne] (09:02)
城壁の外周に沿って走るリーニュ通り。
「西北西」MAPLay. A 
リーニュ通り [Boulevard de la Ligne] (09:03)
城壁の外周に沿って走るリーニュ通り。
「西北西」MAPLay. A 
城壁に空けられた通路 (09:03)
城壁外のリーニュ通り [Boulevard de la Ligne] から城壁内へ通じるフェリュス通り [Rue Ferruce] 。
「南」MAPLay. B 
城壁に空けられた通路 (09:03)
城壁外のリーニュ通り [Boulevard de la Ligne] から城壁内へ通じるフェリュス通り [Rue Ferruce] 。 自然の岩盤を利用して城壁は造られている。
「南」MAPLay. B 
旧市街地を取り囲む城壁 (09:04)
城壁外部のリーニュ通り [Boulevard de la Ligne] から見る城壁。
「南」MAPLay. B 
旧市街地を取り囲む城壁 (09:04)
城壁外部のリーニュ通り [Boulevard de la Ligne] から見る城壁。
「南」MAPLay. B 
ユーロップ橋 [Pont de l'Europe] (09:06)
下を流れる川は、ローヌ川 [Rhône] 。  (中洲の東側)
「南西」MAPLay. B 
ユーロップ橋 [Pont de l'Europe] (09:06)
下を流れる川は、ローヌ川 [Rhône] 。  (中洲の西側)
「南西」MAPLay. B 
国道N100号線沿いの景色 (09:10)
フランス新幹線TGVの専用高架。 明日は、この路線を通ってパリへ向かう。
「南西」MAPLay. B 
国道N100号線沿いの景色 (09:17)
「南南西」MAPLay. B 


国道N100号線沿いの景色 (09:21)
「南」MAPLay. B 
県道D6100号線沿いの景色 (09:23)
「南南西」MAPLay. B 



ポン・デュ・ガール [Pont du Gard]
ホン・デュ・ガール (古代ローマ水道橋) はニー厶とアヴィニョンのちょうど中間地点に位置する。 「ボン」は橋、「ガール」はガール川のことなので、「ガール川の橋」という意味になる。 また、ガール川 は ガルドン川 [Gardon] とも呼ばれている。 この橋は、古代ローマ時代の紀元前19年に完成した橋で、ニーム [Nîmes] (MAP) の北方 ユゼス [Uzès] (MAP) 近くの泉から上水を引いていた。 長さ50キロの導水路で、橋の長さは275 メートル、水面からの高さが49メートル、川底からの高さが52メートルある。  最上段のアーチは35並んでいて、上、中、下と3層の造りになっている。 1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られ、この新しい橋を渡りなが らローマ橋を見ることができる。 遠くからでは新しい橋が隣にあることは、分からないような造りになっている。 この橋を造った石の重さは、中段、下段では1つ6トンほどあるという。 ローマ時代の遺跡というと、とかくイタリアをイメージしがちであるが、ローマ帝国の領土はヨーロッ パ中に広がっており、いろんな国でローマ遺跡を見ることが出来る。 例えば、スペインのタナゴラのローマ劇場や セゴビアの水道橋、クロアチアのプーラにも円形闘技場が残っている。 しかし、水道橋、円形闘技場、劇場 と三つの遺跡が保存状態のよい姿で残っている点では、このプロヴァンス地方に軍配が上がる。

河は呼んでいる
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:40)
水道橋は、ユゼス [Uzès] (MAP) の北東の "デュールの泉" [Fontaine d'Eure] (MAP) を起点に、大きく東に旋回し、ニーム [Nîmes] (MAP) まで引かれた延長50kmに及ぶ水道の一部で () 、古代ローマのアウグストゥス帝の時代、紀元前19年頃に架けられたが、メンテナンスが大変で3世紀の初め頃には使われなくなっていた。
「南」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:41)
ここから見る水道橋は、2層に見えるが実際には3層あり、最上部に水が流れていた。 水は右 (北西) から左 (南東) へ向かって流れていた。
「南」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:42)
5ユーロ札の裏に描かれている橋は、この橋がモデルになっている。
「南西」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:42)
「南西」MAPLay. B 
水道橋に並行して造られた新しい橋 (09:44)
水道橋は3層になっているが、1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られ、この新しい橋を渡りなが らローマ橋を見ることができる。 遠くからでは新しい橋が隣にあることは、分からないような造りになっている。
「南東」MAPLay. B 
ガルドン [Gardon] 川 / ガール [Gard] 川 (09:46)
水道橋の下を流れる川は、ガルドン [Gardon] 又は ガール [ Gard] 川と呼ばれている。
「南西」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:46)
水道橋は 上、中、下と3層の造りになっているが、1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られている。
「北東」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:49)
水道橋は 上、中、下と3層の造りになっているが、1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られている。
「北東」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:50)
水道橋の下を流れる川は、ガルドン [Gardon] 又は ガール [ Gard] 川と呼ばれている。
「北東」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:52)
この橋は、地盤の強度を考え、石灰岩のある場所を選んで建設されている。 そのため上水路は迂回しており、最短距離で造られていない。 橋脚は石灰岩の上に据えられているのがよく分かる。
「東南東」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (09:53)
「南東」MAPLay. B 
ガルドン [Gardon] 川 / ガール [Gard] 川 (09:56)
水道橋の下を流れる川は、ガルドン [Gardon] 又は ガール [ Gard] 川と呼ばれている。 この川では、カヌーやカヤック、水泳などの川遊びが楽しめる。
「北東」MAPLay. B 
水道橋に並行して造られた新しい橋 (09:57)
水道橋は3層になっているが、1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られ、この新しい橋を渡りなが らローマ橋を見ることができる。 遠くからでは新しい橋が隣にあることは、分からないような造りになっている。
「北西」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (10:00)
水道橋は 上、中、下と3層の造りになっているが、1層目 (一番下) の上のところにぴったりと並行して18世紀に現在の橋が造られている。
「南」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (10:02)
「南」MAPLay. B 
県道D981号線 (10:06)
出入口とポン・デュ・ガールを結ぶ道。
「北西」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (10:11)
出入口付近には、売店、カフェ、お手洗い、小さな博物館などがある。
「北」MAPLay. B 
ポン・デュ・ガール [Pont du Gard] (10:11)
出入口付近には、売店、カフェ、お手洗い、小さな博物館などがある。
「北西」MAPLay. B 
ローヌ川 [Rhône] (10:45)
一旦、アヴィニョンに戻り、ルシヨン [Roussillon] へ向かう。
「北東」MAPLay. B 
アヴィニョンの城壁 (10:47)
一旦、アヴィニョンに戻り、ルシヨン [Roussillon] へ向かう。
「北東」MAPLay. B 



レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋)
牧歌的な風景の中に佇む小さなレストランでの昼食。

涙のトッカータ [Toccata]
エグリーズ通り [Rue de l'Église] からの景色 (11:38)
「北西」MAPLay. B 
エグリーズ通り [Rue de l'Église] からの景色 (11:38)
「東北東」MAPLay. B 
エグリーズ通り [Rue de l'Église] からの景色 (11:39)
「北東」MAPLay. B 
エグリーズ通り [Rue de l'Église] (11:39)
「北北西」MAPLay. B 
エグリーズ通り [Rue de l'Église] (11:39)
「北北西」MAPLay. C 
昼食のレストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (11:40)
「西北西」MAPLay. C 
エグリーズ通り [Rue de l'Église] (11:40)
レストラン前からの景色。
「南東」MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (11:40)
「東北東」MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (11:41)
MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (11:41)
「東北東」MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (11:52)
MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (12:04)
MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー (12:10)
MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー (12:30)
MAPLay. C 
レストラン・ラ・ベルジェリー [La Bergerie] (羊小屋) (12:40)
「南西」MAPLay. C 
エグリーズ通り (12:43)
「南西」MAPLay. C 
エグリーズ通り (12:43)
「北東」MAPLay. C 



ルシヨン [Roussillon]
ヨーロッパの中で最も重要なオークル [Ocre] (黄土) の鉱脈の中心部にあり、他では見られないその地質で有名な村で、特に燃え上がるような色彩を放つ鉱物の珍しさは特筆に値する。 オークル [Ocre] は絵の具、化粧品、人工着色料などに使用されており、ルシヨン村の家の壁にもオークル [Ocre] が使われているので赤みを帯びた色彩の村になっている。 薄い黄色から鮮やかな赤まで様々な色があり、ルシヨンはまるで絵に描いたような村になっている。 城砦の展望台からは、ヴァントゥ山 [Mont Ventoux] 、妖精の谷 [Val des Fées] 、リュベロン山脈 [Massif du Luberon] 、アルプスなど素晴らしい眺めが得られる。

愛の歓び
顔料の村ルシヨン (13:24)
18世紀の終わり、1790年ごろ、フランス中に革命の嵐が吹き荒れる直前に一人の村人がこの黄土 (オークル) を精製して赤や黄色 (オークルというのはフランス語では黄土色にあたる) の絵の具の原料、顔料にすることを思いついた。 それが切っ掛けで、あちこちで真似をするものが現れ、ルシヨンはすっかり顔料の村となり、朝から晩まで岩を粉砕するミルの音が響き渡っていた。 もちろん村の家々の壁にもこの絵の具が塗りこめられ、めずらしい赤い崖の上の赤い村が出来上がった。
「東」MAPLay. C 
黄土が露わになった岩肌 (13:24)
酸化鉄が主体の成分は本来赤茶色だが、これに様々な成分が混ざる事によって色彩は微妙に変化している。 何百万年も前から風雨に晒されているため耐久性は完璧で、油彩、水彩、フレスコ画にも使える万能絵の具の材料となっている。 フレスコ画の手法と同様に、漆喰と混ぜて壁に塗れば何時までも色褪せしない強力な壁材としても使える。
「北東」MAPLay. C 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:26)
現在は、絵の具を製造をしている工房は無くなっているが、鉱山跡の前にあるパスキエール広場付近に数軒の絵の具を売る店が残っている。 オークル [Ocre] の丘は、今は観光資源として村に貢献している。
「北西」MAPLay. C 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:26)
「北西」MAPLay. C 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:27)
「西北西」MAPLay. C 
黄土が露わになった岩肌 (13:29)
酸化鉄が主体の成分は本来赤茶色だが、これに様々な成分が混ざる事によって色彩は微妙に変化している。 何百万年も前から風雨に晒されているため耐久性は完璧で、油彩、水彩、フレスコ画にも使える万能絵の具の材料となっている。 フレスコ画の手法と同様に、漆喰と混ぜて壁に塗れば何時までも色褪せしない強力な壁材としても使える。
「東南東」MAPLay. C 
城砦の展望台 (13:35)
城砦の展望台からは、ヴァントゥ山 [Mont Ventoux] 、妖精の谷 [Val des Fées] 、リュベロン山脈 [Massif du Luberon] 、アルプスなど素晴らしい眺めが得られる。
「東北東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:35)
「西」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:35)
「北西」MAPLay. C 
城砦の展望台 (13:35)
城砦の展望台からは、ヴァントゥ山 [Mont Ventoux] 、妖精の谷 [Val des Fées] 、リュベロン山脈 [Massif du Luberon] 、アルプスなど素晴らしい眺めが得られる。
「北」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:36)
「南東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:36)
「西」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:36)
「北東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:36)
「北北東」MAPLay. C 
城砦の展望台 (13:37)
「南東」MAPLay. C 
カミーユ・マチュー広場 (13:37)
右下の広場は、カミーユ・マチュー広場 [Place Camille Mathieu] 。
「南東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:37)
「東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:37)
「北北東」MAPLay. C 
城砦の展望台からの眺望 (13:37)
「南東」MAPLay. C 
聖ミカエル教会 [L'église Saint-Michel] (13:39)
「南東」MAPLay. C 
フォルジュ広場 [Place de la Forge] (13:39)
右手の黄色い壁は、聖ミカエル教会。
「東北東」MAPLay. D 
聖ミカエル教会 [L'église Saint-Michel] (13:39)
「北」MAPLay. D 
聖ミカエル教会 [L'église Saint-Michel] (13:39)
「北」MAPLay. D 
聖ミカエル教会前の通り (13:40)
「北北西」MAPLay. D 
鐘楼 [Beffroi] (13:41)
ルシヨン村の家の壁にもオークル [Ocre] が使われているので赤みを帯びた色彩の村になっている。
「東」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:42)
「北」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:42)
下の広場は、カミーユ・マチュー広場 [Place Camille Mathieu] 。
「北東」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:42)
「東」MAPLay. D 
鐘楼 [Beffroi] の下部 (13:43)
嘗て、城砦の門があった所。
「西」MAPLay. D 
鐘楼 [Beffroi] (13:43)
「西」MAPLay. D 
鐘楼 [Beffroi] の下部 (13:43)
「西」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:44)
ルシヨン村の家の壁にもオークル [Ocre] が使われているので赤みを帯びた色彩の村になっている。
「北東」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:44)
中央の高い塔は、鐘楼。
「北西」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:45)
「北北東」MAPLay. D 
「ピンクの村」シヨン [Roussillon] (13:45)
ルシヨン村の家の壁にもオークル [Ocre] が使われているので赤みを帯びた色彩の村になっている。
「西北西」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:50)
「北西」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:50)
「北西」MAPLay. D 
「ピンクの村」ルシヨン [Roussillon] (13:51)
「北西」MAPLay. D 



ゴルド [Gordes]
ピーター・メイル著 "南仏プロヴァンスの12か月*" で一躍、 有名になったアヴィニョン郊外のリユベロン地方。 ゴルド は特に人気の観光地で、丘の上にある16世紀の城を取り囲むように、石造りの家が階段状に連なる風景が素晴らしい。 町の中はみやげ物を売る店や、画家や陶芸家のアトリエ、レストランやカフェなどか 軒を並べる。 この町は、町の中よりもむしろ外からの眺めがよい。 特にD15沿いには、ゴルドを上から下まで_眺められる展望台 (MAP) がある。

聞かせてよ愛の言葉を     A Year In Provence
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] からの眺め (14:32)
カヴァイヨン道路 [Route de Cavaillon] 沿いにある ビュー・ポイント からの眺め。 左端に見える鉄製の鐘楼が建っている建物は、聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] 。 その左後方に見える建物は、16世紀の建物で、現在は市庁舎。 嘗ては、城であった。
「東」MAPLay. D 
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] からの眺め (14:33)
カヴァイヨン道路 [Route de Cavaillon] 沿いにある ビュー・ポイント からの眺め。 左端に見える鉄製の鐘楼が建っている建物は、聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] 。 その左後方に見える建物は、16世紀の建物で、現在は市庁舎。 嘗ては、城であった。
「東北東」MAPLay. D 
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] からの眺め (14:33)
「東」MAPLay. D 
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] からの眺め (14:33)
「北東」MAPLay. D 
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] からの眺め (14:33)
「東北東」MAPLay. D 
タウン・ビュー・ポイント・ゴルド [Town View Point Gordes] (14:34)
「南東」MAPLay. D 
Town View Point Gordes (14:35)
「北東」MAPLay. D 
Town View Point Gordes (14:35)
「北東」MAPLay. D 
16世紀の領主の館 (城) (14:44)
ルネッサンス様式の建物で、現在は市庁舎及び美術館として使用されている。
「北北西」MAPLay. D 
18世紀に建てられた 聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] (14:44)
右手の建物が教会。 下方の石積は12世紀頃の石積で、途中で造り替えられている。
「南」MAPLay. D 
聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] (14:45)
右手の壁面は、雨水の浸潤によってフレスコ画が剥がれ落ちている。
MAPLay. D 
聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] (14:45)
聖フィルマン教会の教会名は、地元アヴィニョン近くの大司教だった "フィルマン" から由来している。
MAPLay. D 
聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] (14:46)
MAPLay. D 
聖フィルマン教会 [Église Saint Firmin] (14:47)
MAPLay. D 
聖フィルマン教会のジャンヌ・ダルク像 (14:48)
ジャンヌ・ダルクは、フランスの国民的ヒロインであり、且つ、カトリック教会における聖人でもある。
MAPLay. D 
ゴルド [Gordes] の中心地 (15:10)
「北西」MAPLay. D 
カヴァイヨン道路 [Route de Cavaillon] からの眺め (15:18)
「南東」MAPLay. D 



アヴィニョン [Avignon]
中世はキリスト教世界の首都。 ローマ時代に重要都市だったアヴィニョン。 12世紀建造のサン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (アヴィニョンの橋) はロ一ヌ川の最下流に位置し、 地中海沿岸と北方の街をつなぐ通商の要としてさらに発展した。 13世紀に十字軍との戦いで街は破壊され、 イタリア教会派司教の保護区になった。 14世紀初頭、フランス国王とローマ教皇の確執が起こり、フランス国王フィリップ4世の要請で1309年に時の教皇クレメンス5世がローマから居を移し法王庁が築かれた。 アヴィニョンに法王庁が置かれた約70年の間、キリス卜教世界の首都として、宗教・外交・芸術・商業活動の中心地になり、「L'Altera Roma」(もう一つのローマ) とよばれるほど賑わいを見せた。 教皇庁宮殿は今も当時の威厳で見学者を圧倒する。 毎年7~8月に開始される演劇祭りをはじめ、芸術と文化に関するイベントも盛んに行われている。

別れの曲
アヴィニョン大学 [Université d'Avignon] (16:04)
大学は城壁の内側にあり、古い建物と近代的建物で構成されている。
「北西」MAPLay. D 
アヴィニョン大学 [Université d'Avignon] (16:04)
小さな地方大学で、分校を持っていない。
「西北西」MAPLay. D 

サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (16:12)
フランス、アヴィニョンのローヌ川に架かっていた石造アーチ橋で、一般にはアヴィニョンの橋として知られている。 (バスはここで降り、徒歩でホテルに向かう)
「北東」MAPLay. D 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (16:13)
バスを降りたところで、しばし撮影タイム。
「北東」MAPLay. D 
サン・ニコラ礼拝堂 と サン・ベネゼ礼拝堂 (16:14)
古いシヤンソンに歌われる「 アヴィニョンの橋」はこの町に実在する。 12世紀のこと、羊飼いベネゼは「ローヌ川に橋を架けよ」という神のお告げを聞き、建設資金を調達すべく東奔西走した。 神がかりの変人呼ばわりをされながらも、協力者を得て最初の橋ができたのが1188年のことであった。 その後何回か川の増水で橋は流され、その都度再建されたが、17世紀に崩壊した後はそのまま放置されている。 最後の橋には22のアーチがあったが、現在は橋脚が4つ残るのみである。 橋の上には、17世紀に造られた小さなサン・ニコラ礼拝堂が、その下には旧橋にあった、小さなサン・ベネゼ礼拝堂が残されている。 これは橋の修復で、橋床が嵩上げされたために、サン・ベネゼ礼拝堂の上にサン・ニコラ礼拝堂が造られたためである。 因みに、この礼拝堂を守るために、橋は現在まで残されたと言われている。
「北東」MAPLay. D 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (16:14)
この橋の建設には、羊飼いの少年のベネゼが神のお告げによって架けたとの伝説が残っている。 少年べネゼは、奇跡的な怪力をもってやすやすと大きな礎石をローヌ川に据え付けたと伝えられている。 橋の建設は1177年に始められ1185年に完成した。 全長900メー卜ル、22連の石造アーチは、堂々たる規模の橋梁であった
「北北東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (16:15)
サン・ベネゼ橋は、アヴィニョン橋はともいい、1177年から1185年にかけて建設された石造アーチ橋で、当初はローヌ川対岸のヴィルヌーヴ=レサヴィニョン [Villeneuve-lès-Avignon] (MAP) まで架かっていた。 長さ920m、幅4mで、22のアーチがあったが、現在は4つのアーチしか残っていない。 この橋の古代ローマのアーチとの最大の違いは、アーチ形状が半円アーチではない点である。 アーチはより低い立ち上がりをもつなだらかなカーブに見える半円より少ない部分円となっており、スパンを伸ばすことのできる、より低いアー チ形状への移行で、古代ローマのアーチを凌駕している。 サン・ベネゼ橋は、この最初の事例であった。
「北北東」MAPLay. E 
法王庁宮殿と向かい合って建つ旧造幣局 (16:42)
1619年、枢機卿シピオーネ·ボルゲーゼ [Scipione Caffarelli-Borghese] の公使団を迎える為に建設され、ここに造幣局が置かれた。 現在は市立音楽学校となっている。 建物の正面の壁面には、ボルゲーゼ家の紋章である有翼のドラゴンと鷲の彫刻が施されている。 因みに、地元の人たちからモネー館 [Hôtel des Monnaies]* と呼ばれている。
「北西」MAPLay. E 

Hôtel は館、Monnaies はコインを意味する。
法王庁宮殿 (教皇宮殿) [Palais des Papes] (16:43)
階段を上り、法王庁宮殿内部の見学へ向かう。 写真の左奥に見える建物は、司教が住んでいた旧司教館で、現在はプティ・パレ*美術館 [Musée Du Petit Palais] になっている。 建物は、法王庁宮殿と同じ14世紀に建てられている。
「北北東」MAPLay. E 

プティ・パレは小宮殿を意味する。
衛兵詰所 [Corps de garde] <Plan⑭> (16:45)
衛兵詰所の天井フレスコ画は、16世紀のもので、法王庁時代のものではない。
MAPLay. E 
法王庁新宮殿の大中庭 [Grande Cour] (16:46)
7月に国際演劇祭があり、ここがメイン会場になっている。 そのための準備が行われている。 昼間は観光客がいるため作業は行えず、毎日閉館後に2時間ほど作業をしている。
「南東」MAPLay. E 
新法王庁新宮殿の大中庭 [Grande Cour] (16:47)
国際演劇祭は、毎年3週間行われ、1週間 (1日休みで6日間) ずつ3つの演し物がここで行われる。 歴史は古く、1946年から行われており、今年 (2013年) で67回目になる。 初回から、ずっと、この会場で行われており、フランスの舞台出身俳優の殆どが、この舞台に上がった経験を持っており、登龍門的フェスティバルになっている。 今は一般人も参加できるため、街の至る所で同好会を立ち上げ、パフォーマンスを繰り広げている。
「北東」MAPLay. E 
旧法王庁旧宮殿の回廊の中庭 [Cour du Cloître] (16:50)
「北西」MAPLay. E 
旧宮殿の東翼1階にある教皇枢密会議ホール [Salle du Consistoire ] <Plan③> (16:53)
北隣のノートルダム・デ・ドン大聖堂の入口にあるフレスコ画のコピー。 シモーネ・マルティーニ [Simone Martini] が描いたと言われる、救い主の祝福 (上の三角) と 謙遜の聖母 (下の半円形) 。 左列は、原画のコピー、右列は原画のコピーを下絵 (Sinopia*) として、彩色復元を試みたもの。 ノートルダム・デ・ドン大聖堂の内装は、シモーネ・マルティーニが指導監督をしている。 一方、法王庁宮殿の内装は、マッテーオ・ジョヴァネッティ [Matteo Giovanetti] が指導監督をしている。
「北東」MAPLay. E 

赤褐色の顔料。 小アジアのシノペで古くから赤土を産したためこの名がある。特にフレスコ画制作のとき,下がきとして用いられた。 またそのフレスコの下がきそのものをさす。 現在では修復技術の進歩により,ルネサンス期のフレスコのシノピア (Sinopia) をみることができる。
旧宮殿の東翼1階にある教皇枢密会議ホール [Salle du Consistoire ] <Plan③> (16:53)
「南西」MAPLay. E 
旧宮殿の東翼1階にある教皇枢密会議ホール [Salle du Consistoire ] <Plan③> (16:57)
「南南西」MAPLay. E 
旧宮殿の回廊の中庭 [Cour du Cloître] (16:59)
「西」MAPLay. E 
グラン・ティネル [Le Grand Tinel Hall] (祝宴大広間)<Plan㉒> (17:00)
特別な日に祝宴が行われていた広間。 クリスマスや復活祭、昇天祭などの日に隣でミサを行って、その後、この広間で食事をした。 この天井は1970年に復元されたもので、長さ48m、幅10.25mある。
「北東」MAPLay. E 
グラン・ティネル [Le Grand Tinel Hall] (祝宴大広間)<Plan㉒> (17:00)
特別な日に祝宴が行われていた広間。 クリスマスや復活祭、昇天祭などの日に隣でミサを行って、その後、この広間で食事をした。 この天井は1970年に復元されたもので、長さ48m、幅10.25mある。
「南西」MAPLay. E 
控えの間 [Chambre de parement] <Plan㉓> (17:04)
法王庁宮殿は法王が居なくなった後、およそ350年にわたり、周辺のアヴィニョン市やヴナスク伯領とともに教皇庁の管理下にあった。 その間、1516年の修復などもあったものの、徐々に劣化していった。 フランス革命が起こった1789年には、この宮殿は既に酷い状態になっており、革命派の破壊や略奪が拍車をかけた。 そのため、当時を偲ばせる物は殆ど残っていない。
「南西」MAPLay. E 
控えの間 [Chambre de parement] <Plan㉓> (17:05)
法王庁時代に使われていた手作りのタイルが展示されている。
「南西」MAPLay. E 
北の聖具室 [Sacristie Nord] <Plan㊲> (17:13)
アヴィニョンの教皇と関係していた偉大な人物の彫像や墓の一部が展示されている。
「西」MAPLay. E 
北の聖具室 [Sacristie Nord] <Plan㊲> (17:14)
偉大な人物の彫像や墓の一部が展示されている。 中央に二人が寝ている像は、オーヴェルニュのアンヌとルイ2世・ド・ブルボンの肖像 [Gisants d’Anne d’Auvergne et de Louis II de Bourbon] 。 本来、この下に棺が埋葬されるが、ここでは 石像 (石碑) のみを展示している。
「西」MAPLay. E 
北の聖具室 [Sacristie Nord] <Plan㊲> (17:14)
十字架を担う祭壇画 [Retable du portement de la Croix] 。 アヴィニョンのセレスティン修道院教会から移したものと思われる。 右の通路は、クレメンタイン礼拝堂 [Chapelle Clémentine] への通路。
「南南西」MAPLay. E 
北の聖具室 [Sacristie Nord] <Plan㊲> (17:14)
左壁面の彫像は、枢機卿アルボルノスの墓 [Tombeau du Cardinal ALBORNOZ] 。
「西」MAPLay. E 
クレメンタイン礼拝堂 [Chapelle Clémentine] <Plan㉞> (17:15)
大礼拝堂はクレメンス6世のチャペルであったため、「クレメンタイン礼拝堂」と呼ばれ、使徒聖ペテロと聖パウロに捧げられている。 長さ52メートル、幅15メートル、高さ20メートルの大きな礼拝堂だが、現在イベントの準備中のため狭く感じられる。
「西」MAPLay. E 
大階段 [Escalier d'honneur] <Plan⑪> (17:17)
「西」MAPLay. E 
宮殿の出口にある売店 (17:20)
宮殿の出口にある売店 (17:20)
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:19)
ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋は、羊飼いのベネゼが神の啓示を受けたことから、12世紀に建造されたと言い伝えられる。フランス民謡「アヴィニョン橋の上で」は、この橋の完成を祝って人々が歌い踊る情景を描いたもの。建設当時は22のアーチから成る全長900m、幅4mの石造橋であったが、1226年、ルイ8世の侵攻により、橋の7割程度が破壊された。その後も自然災害などによる倒壊と修復を繰り返し、現在は4本の橋脚とサン・ベネゼの聖遺物などが祀られていたサン・二コラ礼拝堂のみが残っている(聖遺物などは、既にセレスティン修道院に移管されている)。 一般にはアヴィニョンの橋として知られている。 サン・ベネゼ橋へは、後付けされた歩道橋から、正面に見える ゲートハウス [Gatehouse] (守衛詰所) を通り抜けて行く。
「北西」MAPLay. E 
ゲートハウス [Gatehouse] (守衛詰所) 内 (18:20)
ゲートハウス内には、橋の歌の歴史 [La chanson du pont L'histoire] についてのパネルが展示されている。 英文の個所を要約すると、『15世紀にはアヴィニョンの橋についての曲がすでにありましたが、ノルマンディーの結婚式で歌われたものを除いて、これらの歌の痕跡はすべて消えました。 これらの結婚式の歌は、新婚者が寝室に入ったときに伝統的に歌われたので、「枕の歌」と呼ばれていました。 橋の曲の一つはフランスの移民によってカナダに伝わり、そこではまだ聴く事が出来る、よく知られた子供の歌です。 今日よく知られている、 アヴィニョンの橋の上で [Sur* le Pont d'Avignon] は、もともとアドルフ・アダン [Adolphe Adam] によって作曲され、1853年2月2日にパリのオペラ・コミック [Opéra Comique] で、アヴィニョン [Avignon] に設立された "The Deaf Man" や "The Full Inn" という演劇で歌われました。 その後、人気曲を特集した "アヴィニョンの橋の上で" [Sur le Pont d'Avignon] と題したオペレッタが大成功を収め、 それ以来、この曲は世界中で有名になり、これまで行ってきた広告キャンペーンよりもアヴィニョンの名声と評判を高めるために貢献しました!』 と、書かれている。  (一部省略と補足あり)
尚、セルトン [Certon] のパロディ・ミサ曲には、当時のフランス民謡を定旋律とする (ミサ曲) "アヴィニョンの橋の上で" Messe [Sus* le pont d’Avignon] を作曲したが、原曲は今日よく知られている同名の民謡の旋律とは異なっている。
「東北東」MAPLay. E 

Sur は、"表面に接して" の上を、Sus は、"空間位置" の上を意味するフランス語。
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:20)
向こうに見える茂みは、中洲の バルトゥラス島 [Île de la Barthelasse] 。
「北西」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:21)
橋の南東端に位置するゲートハウス [Gatehouse] と、その後方にはアヴィニョンの街が広がっている。
「南東」MAPLay. E 
日の光を浴びて輝く大聖堂の聖母像 (18:22)
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] 。
「南東」MAPLay. E 
サン・ニコラ礼拝堂 [Chapelle Saint Nicolas] (18:24)
左の石像は、航海の無事を祈る、船乗りの守護神、18世紀の石造りの聖母 [Notre-Dame de Bon Voyage,patronne des Portefaix,pierre XVIII siècle] 。 この礼拝堂の直下には、12世紀に建てられたサン・ベネゼの礼拝堂がある。 これは、橋の修復によって橋は嵩上げされたため、以前、橋の上にあったサン・ベネゼ礼拝堂は橋床下に位置するようになった。 そこで、サン・ベネゼの礼拝堂の上部に新しくサン・ニコラ礼拝堂を建てる事によって、橋床上に新しく礼拝堂を設け、同時に橋床下に古い礼拝堂を残している。 サン・ニコラ礼拝堂は14世紀に建てられている。
「北東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:26)
左端の小高い岩壁は、ドン岩壁 [Rocher des Doms] 。 ローヌ川を見下ろす岸壁で、公園として整備されている。 この展望台からは足元にサン・ベネゼ橋、ローヌ川の対岸の町ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンにあるフィリップ美貌王の塔 (MAP) 、 サンタンドレ要塞 (MAP) 、さらに近隣の山脈まで眺望が開けている。
「南東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:26)
左端の小高い岩壁は、ドン岩壁 [Rocher des Doms] 。 ローヌ川を見下ろす岸壁で、公園として整備されている。 この展望台からは足元にサン・ベネゼ橋、ローヌ川の対岸の町ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンにあるフィリップ美貌王の塔、 サンタンドレ要塞、さらに近隣の山脈まで眺望が開けている。
「南東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:27)
「南東」MAPLay. E 
ローヌ川 [Le Rhône] (18:27)
サン・ベネゼ橋から東方向 (上流側) を望む。 右手の川に迫り出した岩壁は、ドン岩壁 [Rocher des Doms] 。
「東」MAPLay. E 
ローヌ川 [Le Rhône] (18:27)
サン・ベネゼ橋から南西方向 (下流側) を望む。 左岸はアヴィニョンの街、右岸は中洲。
「南西」MAPLay. E 
ローヌ川 [Le Rhône] (18:27)
サン・ベネゼ橋から アヴィニョンの街を望む。
「南南西」MAPLay. E 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (18:28)
「南東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ礼拝堂 [Chapelle Saint Bénezet] (18:33)
この礼拝堂は、神の声を聞いて橋を造ったとされる、サン・ベネゼに捧げられた礼拝堂。 この上には、航海の安全に捧げられたサン・ニコラ礼拝堂 [Chapelle Saint Nicolas] がある。
「北東」MAPLay. E 
橋脚の基址部 (18:34)
この左手には、古い橋にあった、サン・ベネゼ礼拝堂が残されている。
「南東」MAPLay. E 
橋脚の基址部 (18:34)
この右手には、古い橋にあった、サン・ベネゼ礼拝堂が残されている。
「北北東」MAPLay. E 
橋上とサン・ベネゼ礼拝堂を結ぶ階段 (18:35)
撮影位置の直ぐ右手に、サン・ベネゼ礼拝堂がある。
「南東」MAPLay. E 
リーニュ通り [Boulevard de la Ligne] (18:36)
サン・ベネゼ橋の下を通るリーニュ通り。 右手には城壁に連なって ドン岩壁 [Rocher des Doms] が見える。
「東北東」MAPLay. E 
サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] (18:36)
橋の南東端に位置するゲートハウス [Gatehouse] と、その後方にはアヴィニョンの街が広がっている。
「南東」MAPLay. E 
ゲートハウス [Gatehouse] (守衛詰所) (18:37)
橋の南東端にある ゲートハウス [Gatehouse] 。 ゲートハウスには、城門を閉じるために、跳ね橋 [英:Drawbridge] 、落とし格子 [英:Portcullis] 及び門扉が備えられている。
「南東」MAPLay. E 
城壁上の通路 (18:38)
ゲートハウス [Gatehouse] から繫がっている通路。
「西南西」MAPLay. E 
城壁上の通路からサン・ベネゼ橋を望む (18:38)
「北西」MAPLay. E 
城壁上の通路とゲートハウスを繋ぐ階段 (18:41)
階段を降りて右に曲がると、サン・ベネゼ橋。
「西南西」MAPLay. E 
アヴィニョン大聖堂 [Avignon Cathedral] と教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (18:55)
「北東」MAPLay. E 
教皇庁宮殿 [Palais des Papes] (18:56)
「北東」MAPLay. E 
宿泊ホテル hotel mercure (19:16)
時計台広場 [Place de l'Horloge] を背にして、hotel mercure を撮影。 車の駐まっている所が、ホテルの玄関。
「北東」MAPLay. E 


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