旅の栞 (フランス)

5月26日

アヴィニョン [Avignon] ~
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] ~
パリ [Paris]ヴェルサイユ [Versailles]


2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/france/newpage5.html

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アヴィニョン [Avignon]
人口9万人の町で、紀元前4世紀頃から人が住んでいた。 紀元前6世紀頃に現在のマルセイユ [Marseille] * に植民地を築いたギリシャ人がローヌ川を遡って、この地に港を築き、交易の拠点としてアヴィニョンの町を発展させた。  やがてローマ時代にも町は発展していくが、古代の遺跡は、殆ど残っていない。 この アヴィニョンに法王庁が移されたのは14~15世紀の中頃で、教皇の宗教的、政治的、経済的な権威を弱体化させるためフランス王フィリップ4世が「アヴィニョン捕囚」を行った。 1309年から1377年までキリスト教のカトリック・ローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期にはアヴィニョンの教皇は7代に亘って引き継がれた。 初代のアヴィニョン教皇は、1305年の教皇選挙にフィリップ4世が介入し、自分の息のかかったクレメンス5世を選出している。 アヴィニョンに法王庁宮殿 (教皇宮殿) を建てたのは、3代目のベネディクトゥス12世と4代目のクレメンス6世。 最後の、7代目の教皇グレゴリウス11世は1377年にローマに戻り、アヴィニョン捕囚の期間は終わるが、グレゴリウス11世は翌年に逝去した。 その後ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世 (アヴィニョンを本拠とした最初の対立教皇) を選出した。 こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ (教会分裂) が起こる。 教会分裂に終止符を打つべく行われたピサ教会会議 (1409年) では、アレクサンデル5世を新教皇として選出したが、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世 (クレメンス7世の後継者) とローマ教皇グレゴリウス12世 (在位:1406年~1415年) が退位しなかったため、3人の教皇が鼎立 (ていりつ) するという異常事態を招いて失敗に終わる。 1415年、コンスタンツ公会議で3人の教皇の廃位が正式決定。 グレゴリウス12世は自主的に退位、ヨハネス23世 (アレクサンデル5世の後継者) は捕らえられて廃位された。 ベネディクトゥス13世は退位を拒否したが、1417年に正式に廃位、新たにマルティヌス5世が選出された。 アヴィニョンは、法王庁がローマに帰還した後も、法王領として存続し続け、フランス大革命中の1791年に、フランスはローマ法王庁より、この地方を買い受け、初めてフランスに併合した。 因みに、法王庁宮殿 (教皇宮殿) は、1906年まで兵舎や牢獄として使われていた。

 当時は、古代ギリシャ語の マッサリア [Μασσαλια] で呼ばれていた。

アラベスク
Hotel Mercure Cite' Des Papes (07:04)
「西北西」MAPLay. A 
市役所 [Hôtel de Ville] の時計塔 [Tour de l'Horloge] (07:11)
15世紀に完成した時計塔。 からくり人形を用いたカリヨンが時を知らせる。
「南西」MAPLay. A 

アラベスク
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (07:39)
「北東」MAPLay. A 
宮殿広場から見る時計塔 [Tour de l'Horloge] (07:40)
「南西」MAPLay. A 
宮殿広場から見る時計塔 [Tour de l'Horloge] (07:40)
「南西」MAPLay. A 
アヴィニョン大聖堂 と 教皇庁宮殿 (07:40)
「北東」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン・アヴィニョン大聖堂 [Avignon Cathedral Notre Dame des Doms d'Avignon] (07:41)
鐘楼の上には、聖母マリアの像が建っている。
「北東」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (07:43)
「南西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (07:44)
「南西」MAPLay. A 
宮殿広場 [Place du Palais] (07:44)
「南南西」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (07:45)
鐘楼の上に聖母マリア像がある建物は、12世紀に創建されたアヴィニョン大聖堂。 手前のイエスキリスト像のある所は、教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] 。
「東北東」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (07:45)
鐘楼の上に聖母マリア像がある建物は、12世紀に創建されたアヴィニョン大聖堂。 手前のイエスキリスト像のある所は、教皇庁宮殿の下広場 [Place dessous le Palais des Papes] 。
「東」MAPLay. A 
教皇庁宮殿下広場のイエスキリスト像 (07:45)
「南東」MAPLay. A 
モンテ・デ・ムーラン [Montée des Moulins] (07:48)
ムーランの上り坂から見るアヴィニョン大聖堂の鐘楼。
「南」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
ドン岩壁は、ローヌ川を見下ろす岩壁で、公園として整備されている。 この展望台からは、足元にサン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] 、ローヌ川の対岸の街 ヴィルヌーヴ=レザヴィニョン [Villeneuve-lès-Avignon] にあるフィリップ美貌王の塔 [Tour Philippe le Bel] (MAP) 、サンタンドレ要塞 [Fort Saint-André] (MAP) 、さらに近隣の山脈まで眺望が開けている。
「北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
「南西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
左前方に見える橋は、エドワール・ダラディエ橋 [Pont Édouard Daladier] 。 右手前に見える橋は、サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] 。
「西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
サン・ベネゼ橋の延長線上に見える塔は、ローヌ川の対岸の街 ヴィルヌーヴ=レザヴィニョン [Villeneuve-lès-Avignon] にあるフィリップ美貌王 (端麗王) の塔 [Tour Philippe le Bel] (MAP) 。
「北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
左端にフィリップ美貌王の塔 [Tour Philippe le Bel] (MAP) 。 右端には、 サンタンドレ要塞 [Fort Saint-André] (MAP) が見えている。
「北北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:50)
ローヌ川 [Le Rhône] と サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] 。
「西北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:51)
アヴィニョンの町並み。 左手に見える尖塔は、市役所にある時計塔。
「南」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:52)
二本の川が流れているように見えるが、どちらも ローヌ川 [Le Rhône] 。 眼前の陸地は、中州のバルトゥラス島 [ [Île de la Barthelasse] で、川は中州を挟み左右に分岐して流れている。
「北北東」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:52)
ローヌ川 [Le Rhône] 。 川に沿って走る道路は、リーニュ通り [Boulevard de la Ligne] 。
「東」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:53)
ローヌ川 [Le Rhône] と サン・ベネゼ橋 [Pont Saint-Bénézet] 。
「西北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:54)
下に見える駐車場 (MAP) にバスが駐まっているが、バスはこれ以上城壁内部には入れない。
「南西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:54)
アヴィニョン大聖堂の鐘楼上に立つ聖母像。
「南」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (07:56)
ヴィルヌーヴ=レザヴィニョン [Villeneuve-lès-Avignon] にある、サンタンドレ要塞 [Fort Saint-André] (MAP) 。
「北北西」MAPLay. A 
アカネの栽培に貢献した 農学者 Jean Althen の像 (07:56)
「南」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「南西」MAPLay. A +
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「南西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「北北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:09)
「西北西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:10)
「西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:10)
「南」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:10)
「西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:11)
「北東」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:12)
「東北東」MAPLay. A 
ドン岩壁公園 (08:13)
「南南西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] からの眺め (08:14)
アヴィニョンの町並み。
「南東」MAPLay. A 
ドン岩壁公園 (08:14)
「西」MAPLay. A 
モンテ・デ・ムーラン [Montée des Moulins] からの眺め (08:16)
「北北西」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (08:17)
「南西」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂の後方に位置する、アヴィニョンの町並み (08:18)
「南」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (08:18)
「南西」MAPLay. A 
ノートルダム・デ・ドン大聖堂 [Cathedral Notre Dame des Doms] (08:19)
「西南西」MAPLay. A 
ドン岩壁 [Rocher des Doms] へのプロムナード (08:19)
「北西」MAPLay. A 



アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV]
フランスの都市アヴィニョンにあるLGV地中海線専用の鉄道駅である。市の中心部から2,3km程南に位置する。2001年開業。 駅の西方にパリ方面へとニーム方面へのデルタ線状の分岐点 (MAP) がある。
アヴィニョンTGV駅の建物は、長さ350メートル、高さ14.50メートルである。 船体の形状を採用した吹き抜け構造の2階建てで1階には券売機、売店等があり、2階部分がプラットホームおよび待合スペースとなっている。  なお船体形状の駅舎の南側 (ローヌ川側) 外観は主にコンクリートで構成されている。 ホームよりの北側はガラスで構成されている。 なお北側アヴィニョン市街地側駅舎は、外観はスクエア構造のガラスで構成されて2階構造である。  駅配線は2面4線 (うち通過線が内側2線) である。
(出典:Wikipedia)

アビニョンの橋の上
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:10)
TGVの発着のためだけに造られた駅。
「南東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:12)
「北西」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:13)
TGV 6112 10:14発 (2号車1等2階席) 。 この時点では、ホームが決まっていないため、左列表示のように "□" 内にホーム・ナンバーは表示されていない。
「北東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:13)
最近出来たばかりの近代的な駅。 ホームは2つだけで、パリ行きは4番線。
「東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:20)
中央に見える階段を上ると、2階に通路があり、2階通路からガラス張りの壁面に設けられたゲートを抜けるとホームがある。
「北西」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:22)
「北西」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] 裏手 (09:24)
「南南東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] 裏手 (09:24)
「南西」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:24)
「西」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (09:29)
駅舎の端から見ると、建物の形状が合掌造りになっているのが分かる。
「西北西」MAPLay. B 
フランス新幹線TGV (09:31)
「東」MAPLay. B 
フランス新幹線TGV (09:31)
「東南東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (10:04)
大きな荷物は、別の車輌に乗せられ、パリ到着後受け取る。
「東南東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (10:20)
因みに、TGVとは、高速列車を意味するフランス語 [Train à Grande Vitesse] で、train は列車、grande は大きい、vitesse は速度を意味する。
「東南東」MAPLay. B 
アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] (10:22)
TGV 6112 (2号車1等2階席) 。
「北北東」MAPLay. B 
フランス新幹線TGVに乗車 (10:22)
二階建て車輌になっているため、天井高は低く抑えられている。 出発に際しては日本と違い、アナウンスやベルなどの合図は一切無く、到着後2分でドアが閉まる。
「北北東」MAPLay. B 
フランス新幹線 (TGV 6112) 2号車1等2階席 (10:24)
出発10:14 アヴィニョンを後に、パリへ向かう。 因みに、日本のように座席の向きを変えることが出来ない。
「西北西」MAPLay. B 



アヴィニョンTGV駅 [Gare d'Avignon TGV] から パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] までの路線図



パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon]
パリ市中心部から南東に寄ったセーヌ川右岸の12区にあるフランス国鉄 [SNCF] ・パリ交通公団 [RATP] の駅。
パリ市内やその近郊では単に「リヨン駅」と呼ばれている。 「リヨン駅」という駅名はパリからリヨン方面へ向かう鉄道の起点、あるいは旧パリ・リヨン鉄道の駅という意味で、全国版の路線図や時刻表、長距離列車の案内などではパリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] と呼ばれている。 なお、リヨン市には「リヨン駅」という名の駅はなく、リヨン・ペラーシュ駅 [Gare de Lyon-Perrache] (MAP) がある。

パリの空の下 [Sous le ciel de Paris]
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (12:57)
アヴィニョン [Avignon] からパリに 12:53 に到着。
「北西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:02)
長距離列車駅には、改札は設けられておらず、切符確認は車内検札で対応している。 地下鉄などでは自動改札機が設置されている。
「北西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:04)
「東南東」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:04)
リヨン駅は治安が悪く、長居は禁物。
 「西南西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:04)
「北西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:05)
「北」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:05)
「南東」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:07)
「南東」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:07)
「北西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:08)
「西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:19)
「西北西」MAPLay. B 
パリ・リヨン駅 [Paris Gare de Lyon] (13:23)
「南」MAPLay. B 
パリ12区の中央警察署 [Commissariat central de police de Paris 12e arrondissement] (13:24)
「北」MAPLay. B 
アウスターリッツ橋 [Pont d'Austerlitz] (13:31)
パリ12区 (セーヌ右岸) の "ルドリュ・ロラン通り" と5区、13区 (セーヌ左岸) の "パリ植物園" (MAP) を結ぶ長さ173.8m、幅30mの石造アーチ橋。 右岸のサン・アントワーヌと左岸の植物園を結ぶために作られた。 19世紀の初めに最初の橋が架けられたが、すぐに割れ目が生じたので1854年に現在の橋に架け直された。 その後橋の幅が狭いと判断され1885年にほぼ倍に拡幅された。  (出典:Wikipedia)
「南西」MAPLay. B 
アウスターリッツ橋 [Pont d'Austerlitz] (13:31)
"ルドリュ・ロラン通り" から、"アウスターリッツ橋" の手前を右折して、"ラペ通り" に入る。
「南西」MAPLay. B 
ルイ・フィリップ橋 [Pont Louis-Philippe] (13:36)
「南西」MAPLay. B 
ノートルダム・ド・パリ [Cathédrale Notre-Dame de Paris] (13:37)
"オテル・ド・ヴィル通り" から "セーヌ川" 越しに見る "パリ・ノートルダム大聖堂" 。 ノートルダムとは、フランス語で「我らが貴婦人」の意味で、聖母マリアを指す。 従って、ノートルダムの名を冠した教会堂は、世界各地にある。
「南西」MAPLay. B 
アルコル橋 [Pont d'Arcole] (13:38)
「南西」MAPLay. B 
ヴィクトリア通りからノートル・ダム橋方向を望む (13:40)
「南南西」MAPLay. B 
ルーヴル宮殿 [Palais du Louvre] (13:44)
「南西」MAPLay. B 
ルーヴル宮殿 [Palais du Louvre] (13:44)
「南西」MAPLay. B 
ルーヴル美術館 [Musée du Louvre] (13:44)
「南南西」MAPLay. B 
ルーヴル美術館 [Musée du Louvre] (13:44)
「南南西」MAPLay. B 
カルーゼル広場 [Place du Carrousel] (13:44)
通路奥に見える広場は、カルーゼル広場。
「南南西」MAPLay. B 
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (13:46)
1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。 その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。 フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへの処刑が行われた刑場でもある。 1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始める(公式名になったのは1830年)。  (出典:Wikipedia)
「南西」MAPLay. B 
f
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (13:46)
「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。 しかしフランス側の強い希望により、フランス語式の「concorde」表記が、英語・フランス語の両言語における共通の正式スペリングとなった。 ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。
「南西」MAPLay. B 
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (13:46)
中央に立つオベリスクは、エジプトのルクソール神殿 (MAP) から運ばれてきたオベリスクで、ルクソールのオベリスク [Obélisque de Louxor] 、又は "クレオパトラの針" と呼ばれている。
「南」MAPLay. B 
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (13:46)
フランスには、流しのタクシーはなく、タクシー・スタンドで乗車する。
「南東」MAPLay. B 
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (13:47)
「南」MAPLay. B 
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (13:47)
フランス・パリの市内北西部にある大通りで、パリ市内で最も美しい通りとされている。 特にフランスでは、世界で最も美しい通り [la plus belle avenue du monde] と言う表現が使われている。 『オー・シャンゼリゼ』* という流行歌で日本でも広く知られるようになった。 因みに、街路樹はマロニエマロンの木) や プラタナス (スズカケの木) 。
「北西」MAPLay. B 

日本では、1970年にフランス人歌手ダニエル・ヴィダルのヴァージョンで大ヒットした曲で、いかにもパリらしい軽快なフレンチポップスであるが、オリジナル曲はイギリスのサイケデリック・バンドの4枚目のシングル曲で、ロンドンの "ウォータールー通り" を歌った 『 ウォータールー・ロード [Waterloo Road] 』 である。

オー・シャンゼリゼ
エッフェル塔 [La tour Eiffel] (13:52)
ナシオン・ユニ通り [Avenue des Nastions Unies] から見る、エッフェル塔。
「南東」MAPLay. B 
ノボテル パリ サントル トゥール エッフェル [Novotel Paris Centre Tour Eiffel] (13:55)
グルネル橋 [Pont de Grenelle] から見る、ノボテル ホテル。 中央やや右の、茶色の建物がノボテル ホテルで、ここで昼食。 因みに、このホテルは嘗ての日航ホテル。
「東」MAPLay. B 
ノボテル ホテル・和食レストラン弁慶 (14:07)
MAPLay. B 
お品書き (14:13)
MAPLay. B 
純粋な和食 (14:29)
MAPLay. B 
デザート (14:51)
MAPLay. B 
デザート (14:51)
MAPLay. B 
ノボテル ホテル・和食レストラン弁慶 (14:57)
MAPLay. B 
昼食を終え、ヴェルサイユ宮殿へ向かう (15:05)
「南南東」MAPLay. B 




ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles]
ルイ13世がこの地に狩猟の館を建造して以来、その息子のルイ14世が改装と増築を施し、 北に王の、南に王妃の快適な新居室を建造するため、彼の建築家ルイ・ル・ヴォー [Louis Le Vau] に、城の拡張計画に着手するよう命じた。 なぜなら、ルイ14世はもともとパリのルーブル宮殿に住んでいたが、1648年のフロンドの乱でパリを脱出した苦い経験から、新しい宮殿を安全なパリ郊外に建てることに決めていた。 主な部分の設計はアルドゥアン=マンサール [Hardouin-Mansart] とシャルル・ルブラン [Charles Le Brun] によって、庭園はアンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre] によって造営がなされた。 水もない不毛の荒野だったが、10km離れたセーヌ河岸に「マルリーのポンプ*と呼ばれる巨大な汲み上げ装置を造らせ、水道橋によって水を引いた。 1682年に政府と宮廷をヴェルサイユに移し、フランス革命の勃発まで、この宮殿は代々のフランス国王によって美しく改装されてきた。 宮殿は、2つの翼棟をもつシンメトリーな建物で、バロック建築を代表する建物になっている。 因みに、ランスでのユネスコ世界遺産登録、第1号となるほど文化遺産として高く評価されている。 (1979年に登録、2007年に登録内容が変更)

王宮のコンセール [Concerts Royaux]

マルリーポンプの図説 :  (出典: 中島智明 著  "ヴェルサイユ宮殿")
アルム広場 [Place D'Armes] * (15:38)
アルム広場 (MAP) は、ベルサイユ宮殿の正門前の広大な広場。 広場の東の端に、ルイ14世の騎馬像 (MAP) がある。 その向こうに2つの厩舎があり、パリ通り [Avenue de Paris] を挟み左側は大厩舎 (MAP) 、右側は小厩舎 (MAP) 。 現在、大厩舎は馬車博物館 [Musée des Carrosses] (書籍) 、小厩舎は、ヴェルサイユ国立高等建築学校 [École nationale supérieure d'architecture de Versailles] が使用している。 パリ通りの名の由来は、ルイ14世がこの道を通ってパリへ赴いていたためで、騎馬像もまたパリ通り [Avenue de Paris] (MAP) へ向けられている。
「南東」MAPLay. C 

アルム広場は、フランス語で「軍隊広場」を意味する。 かつて屯所 (とんしょ) があったことに由来する。 (絵図)
ヴェルサイユ宮殿の正門 [Grille d'honneur] (15:39)
ルイ14世時代 (在位:1643年5月14日~1715年9月1日) からある本物の正門 (MAP) 。 東京にある迎賓館赤坂離宮の門 (MAP) は、この正門をモデルにしたと言われている。
「西北西」MAPLay. C 
宮殿の前庭 [Cour d'Honneur] (15:42)
毎日6000人の入場者があると言われ、多くの入場者が列をつくっている。  この前庭 (MAP) の石畳は国王ルイ・フィリップ1世 (在位:1773年10月6日~1850年8月26日) によって造られ、1848年以降から存在している。 従って、ルイ14世、15世、16世時代には石畳は無かった。
「西」MAPLay. C 
宮殿の前庭 [Cour d'Honneur] (15:45)
この前庭 (MAP) の石畳は国王ルイ・フィリップ1世 (在位:1773年10月6日~1850年8月26日) によって造られ、1848年以降から存在している。 従って、ルイ14世、15世、16世時代には石畳は無かった。
「南東」MAPLay. C 
宮殿の前庭 [Cour d'Honneur] (15:45)
宮殿の前庭 (MAP) からは、パリ通り [Avenue de Paris] を挟み2つの厩舎が見えている。 左側は大厩舎 (MAP) 、右側は小厩舎 (MAP) 。 現在、大厩舎は馬車博物館 [Musée des Carrosses] 、小厩舎は、ヴェルサイユ国立高等建築学校 [École nationale supérieure d'architecture de Versailles] が使用している。 パリ通りの名の由来は、ルイ14世がこの道を通ってパリへ赴いていたためで、騎馬像もまたパリ通り [Avenue de Paris] (MAP) へ向けられている。
「南東」MAPLay. C 
ガブリエル翼 [Aile Gabriel] (15:46)
アンジュ=ジャック・ガブリエル [Ange-Jacques Gabriel] が設計し、1771〜72年に工事が進められた。 現在のガブリエル翼 (MAP) の中には大階段が設けられる予定だったが、当時は建設されず、1985年になってようやく彼の案にもとづいて完成した。  [A TOUTES LES GLOIRES DE LA FRANCE.] の碑文は、"フランスの全ての栄光に" を意味し、Pavillon Dufour と Aile Gabriel に配置されている。 ヴェルサイユ宮殿に設置されたフランス歴史美術館の名誉のため、ルイ・フィリップによって設計された。
「西北西」MAPLay. C 
平和の像 (王の格子門北側) (15:47)
「南西」MAPLay. C 
宮廷礼拝堂 [Chapelle royale] (15:48)
右の建物は、ジュール・アルドゥアン=マンサール [Jules Hardouin-Mansart] による作品 (宮廷礼拝堂) で、1708年にマンサ-ルが死亡した後、ロバート・デ・コット [Robert de Cotte] は、1710年に完成させた。 この礼拝堂 (MAP) は、ベルサイユ宮殿の建物の中で最も高く造られている。 それはルイ14世の唯一の譲歩で、神の力だけが彼の宮殿より高い建物を持つことができた。
「北西」MAPLay. C 
ディフール棟 [Pavillon Dufour] (15:49)
フランスすべての栄光に [A TOUTES LES GLOIRES DE LA FRANCE.] の文字が書かれた建物は、 デュフール棟 (MAP) で、ルイ・フイリップ1世時代、ガブリエル翼にあわせて、アレクサンドル・デュフール [Alexandre Dufour] * により同じデザインで建造された。 これによりヴェルサイユ宮殿正面のシンメトリーが回復された。
「南西」MAPLay. C 

Alexandre Dufour は、1760年生まれで1835年に亡くなった、フランスの建築家。  ルイ18世の建築家で、1810年から1832年まで "ヴェルサイユ宮殿のディフール棟 [Pavillon Dufour] " の建築に携わった。
王の格子門 [Grille royale du château de Versailles] (15:49)
フランス革命の騒乱の間に、この門は取り壊され、ルイ・フィリップはそこに ルイ14世 の騎馬像を置いていた。 この騎馬像は王政復古時に カルトリエ によって作られ、完成されることのなかった ルイ15世 の像のためのブロンズの馬に、 プティトー がデザインし、クロザティエ が建てた騎士の姿を乗せていた。 しかし時間と共に王の格子門の復旧案が生まれ、2000年に決定、一旦 ルイ14世 の騎馬像は修復を兼ねて取り除かれ、工事が始まった。 2年間の工事を経た2008年7月8日、18金の金箔で装飾された新しい格子門 (MAP) が完成・落成された。 その数か月後、修復された ルイ14世 の騎馬像が戻ってきたが、以前の王の中庭 () ではなく アルム広場 [Place D'Armes] の東端に、パリ通りに向けて設置された。 (MAP)
「南西」MAPLay. C 
王の中庭 [Cour Royale] (15:52)
王の格子門 [Grille royale du château de Versailles] (MAP) からの眺め。
「西」MAPLay. C 
ガブリエル翼 [Aile Gabriel] (左) と宮廷礼拝堂 [Chapelle royale] (右) (15:54)
団体入場は、ガブリエル翼にある "B" ゲート (MAP) から入る。
「北西」MAPLay. C 
ヴェルサイユ宮殿2階見取図   (出典:ヴェルサイユ見学ガイド)
見取図内の は以下に示す、"<Plan>" に対応しており、撮影場所を表している。 
ガブリエル翼 [Aile Gabriel] 内の大階段<Plan> (16:02)
アンジュ=ジャック・ガブリエル [Ange-Jacques Gabriel] が設計し、1771〜72年に工事が進められた。 現在のガブリエル翼 (MAP) の中には大階段が設けられる予定だったが、当時は建設されず、1985年になってようやく彼の案にもとづいて完成した。
「東南東」MAPLay. C 
ガブリエル翼 [Aile Gabriel] 内の大階段<Plan> (16:02)
「西北西」MAPLay. C 
ガブリエル翼 [Aile Gabriel] 内の大階段<Plan> (16:03)
「南東」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:03)
この広間は、1664年にヴェネチア共和国からルイ14世に贈られた ヴェロネ一ゼ作『パリサイ人シモン家の宴』 を飾るため に、ルイ14世のヴェルサイユ統治時代の1682年~1710年まで第四礼拝堂があった場所に作られた。 この作品は1570年にヴェネチアのセルヴィテス修道院の食堂にあったもので、 1664年、 対トルコ支援を要請するため、ヴェネチアの総督がルイ14世に贈ったもの。 改装作業は1712年に開始され、フランソワ・ルモワンヌによる天井画「ヘラクレスの神格化」が完成した1736年に終了した。
「北」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:04)
"ヘラクレスの間" の工事は1712年にロベール・ドゥ・コットに依頼されたが、1715年にルイ14世が死去したことにより1725年まで工事は中断されていた。 その後、画家フランソワ・ルモワンヌ [François Lemoine] (1688-1737)によって、1733年から1736年の間に、巨大な天井のヴォールトに、父ジュピターにより神の地位にあげられたヘラクレスをテーマにした「ヘラクレスの神格化」 (写真) を描いた。 因みに、この作品は漆喰の上に直接描かれたフレスコ画ではなく、キ ャンバスの上に描かれた油絵である。 ルモワンヌはその作品により、王の第一画家に命じられたが、その作品の完成に力尽き、その後しばらくして自ら命を断ってしまった。
「西」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:04)
壁面は全て大理石で造られ、白い大理石はイタリア、赤い大理石はベルギー、その他の大理石はピレネー山脈から運んできたと言われている。 右壁面の向こうは、"礼拝堂の間"。
「北」MAPLay. C 
階上の礼拝堂の間 [Chateau de Versailles Vestibule Haut] <Plan> (16:04)
「北北東」MAPLay. C 
階上の礼拝堂の間 [Chateau de Versailles Vestibule Haut] <Plan> (16:05)
国王は、王の階上席と正殿をつなぐこの部屋を通ってミサに出席した。 その装飾はやや世俗的ではあるが、礼拝堂の装飾と類似している。 扉や窓の上のアーケードの装飾物のほかに、2つの壁龕 (ニッチ) には、ルイ15世が作らせたヴァセ作「国王は、王の階上席と正殿をつなぐこの部屋を通ってミサに出席した。 その装飾はやや世俗的ではあるが、礼拝堂の装飾と類似している。 扉や窓の上のアーケードの装飾物のほかに、2つの壁龕 (ニッチ) には、ルイ15世が作らせたヴァセ作「ルイ15世の楕円浮彫像を支える栄光」とブッソー作「寛大の像」が置かれている。 写真中央の壁龕に置かれているのは、ジャックス・ブッソー作「寛大の像」 [Magnanimité, statue de Jacques Bousseau] 。
「南」MAPLay. C 
階上の礼拝堂の間 [Chateau de Versailles Vestibule Haut] <Plan> (16:05)
写真中央の壁龕に置かれているのは、ルイ15世が作らせたアントワーヌ・ヴァセ作「ルイ15世の楕円浮彫像を支える栄光」 [Gloire tenant le portrait de Louis XV, Antoine Vassé ] 。
「南南西」MAPLay. C 
王室礼拝堂 [Chateau de Versailles la Chapelle Royale] <Plan> (16:06)
宮殿付属の礼拝堂の伝統を踏襲してこの礼拝堂も二層になっている。 階上席は国王や王族、宮廷要人の席で、1階はそれ以外の信者を受け入れた。 先祖のルイ9世は、死後、カトリック教会より、1710年に列聖され、聖王ルイ (サン・ルイ) と呼ばれるようになった。 この王家の先祖であり、守護聖人でもある サ ン・.ルイ [Saint-Louis] に捧げられたのが、この礼拝堂で、ルイ14世時代にヴェルサイユで建立された最後の建造物となっている。 建設はルイ14世の命で、10年の歳月 (1699~1710) をかけて完成させた。 設計は、マンサールが行っている。 1770年5月16日、14歳だったマリーアントワネットと15歳のルイ16世の挙式が執り行われた場所としても知られている。
「東南東」MAPLay. C 
王室礼拝堂の天井画
天井画は旧約聖書と新約聖書からテーマを得て、三位一体の神秘を表現している。 中央にアントワーヌ・コワペル [Antoine Coypel] 作『救世主の到来を世界に告げる永遠の父』、右の祭壇の上方にチャールズ・デ・ラ・フォス [Charles de La Fosse] 作『キリス卜の復活』、左の王室階上席の上方にジャン・ジュヴネ  [Jean Jouvene] 作『聖母と使徒たちの上に降りる聖霊』が描かれている。 因みに、作品は全て油絵で制作されている。  (出典:不明)
階上の礼拝堂の間 [Chateau de Versailles Vestibule Haut] <Plan> (16:06)
「南西」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:07)
ヘラクレスの間の、巨大なヴォールトを飾った油絵 "ヘラクレスの神格化" [ l’Apothéose d’Hercule] は、画家フランソワ・ルモワンヌ [François Lemoyne] (1688-1373) による作品。 この天井画は、建築家ロバート・デ・コットに1712年の部屋の改装工事に併せて依頼されていたが、1715年にルイ14世が死去したため、1725年まで部屋の改装工事は中断されていた。 その後、改装工事は再開され、天井画は、1733年から1736年の間に作製されている。 ルモワンヌはその作品により、王の第一画家に命じられたが、その作品の完成に力尽き、その後しばらくして自ら命を断ってしまった。
「南」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:07)
画家フランソワ・ルモワンヌ [François Lemoyne] (1688-1373) による天井画。  "ヘラクレスの神格化" [ l’Apothéose d’Hercule] 。
「東南東」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:08)
天井は、"ヘラクレスの神格化" [ l’Apothéose d’Hercule] 、壁面は、1664年にヴェネチア共和国からルイ14世に贈られた ヴェロネ一ゼ作『パリサイ人シモン家の宴』で飾られている。
「南」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:08)
画家フランソワ・ルモワーヌ [François Lemoyne] (1688-1373) による天井画。  "ヘラクレスの神格化" [ l’Apothéose d’Hercule] 。 ゼウスが娘ヘーベーの手を取って、右中央の棍棒を持ったヘラクレスに渡そうとしている。 (拡大図)
「東南東」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:09)
1664年にヴェネチア共和国からルイ14世に贈られた ヴェロネ一ゼ作『パリサイ人シモン家の宴』 [Le Repas chez Simon le Pharisien] 。 この作品は1570年にヴェネチアのセルヴィテス修道院の食堂にあったもので、 1664年、 対トルコ支援を要請するため、ヴェネチアの総督がルイ14世に贈ったもの。 中央には、涙でぬらした自分の髪の毛で、イエスの足をぬぐう罪深い女と、イエスの後ろには、柱の陰からのぞくユダが描かれている。 この罪深い女は、マグダラのマリアと同じ女性として考えられている。 (拡大図)
「南」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:09)
暖炉の上にある絵は、ヴェロネ一ゼ作 "エリエゼルとレベッカ" [Éliézer et Rebecca] 。 創世記より『アブラハムは下僕エリエゼルにイサクの妻を探すように命じた。 エリエゼルは旅の途中の井戸端で祈った。「私とらくだに水を飲ませてくれる女性をイサクの嫁とさせてください」。 井戸に水を汲みに来た多くの女性の中で、美しい娘レベッカ [Rebecca] がエリエゼルとらくだに水を与えてくれた。 レベッカはイサクの妻となり、エサウとヤコブの双子の息子を産んだ。』
「東北東」MAPLay. C 
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] <Plan> (16:10)
王の大居室の最初の部屋であるヘラクレス (エルキュール) の間は、ルイ14世の治世の一番最後に作られた部屋。 1682年以来、宮殿の礼拝堂がその場所の1階と2階部分を占めていたが、1710年に現在の礼拝堂に取って代わられた。 壁面にはヴェネチアの総督がルイ14世に贈った巨大なヴェロネーゼの「シモン家の宴」がかけられている。 これは1570年にヴェネチアのセルヴィテス修道院の食堂にあったもので、 1664年、 対トルコ支援を要請するため、総督がルイ14世に贈ったものである。
「北東」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:11)
ヴィーナスの間の天井には、愛の女神が描かれているが、これは、古代ギリシャにおいては、愛の女神(ヴィーナス)と金星(ヴィーナス)が関連付けられていたためである。 ヴォールトの下部(アーチ形)を装飾する絵画 (写真) は、古代の英雄の行動を描き、それは同時にその部屋の惑星と、ルイ14世の偉業にも関連している。 したがってサーカス競技を主宰するオーギュストの描かれたアーチ部分は、王妃のために催された1662年の有名な騎馬パレードを暗示し、ロクサーヌと結婚するアレクサンドルの絵は、ルイ14世の結婚を示唆している。
「西」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間の天井画中央<Plan> (16:11)
白鳥のひく凱旋車に乗り、三美神に戴冠されているヴィーナス。 恋の虜となった、マルス、ヴュルカン(ウルカヌス)、バッキュス (バックス)、ネプテューヌ (ネプトゥヌス)、そしてジュピテール (ユビテル)が彼女たちの下にみえる。
「西」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:12)
ルイ14世の石像のある壁面方向に、嘗て、「大使の階段」(1752年に破壊)があって、ディアーヌの間と同じく、大居室へ通ずる主な経路をなしていた。 居室の夕べでは、食卓の準備をして、花かご、オレンジやレモンといった新鮮で珍しい果物をピラミッド形に並べ、砂糖漬けの果物、マジパンなども取り揃えていた。
「西」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:12)
中央に立つ石像はジヤン.ヴァラン作『ローマ皇帝姿のルイ14世全身像』。 石像の左手に持つ楯はアテーナーのアイギスで、魔物メドゥーサの首がはめ込まれている。 この部屋は、月曜日と水曜日は一般人に解放され、テーブルの上には沢山の食べ物が供されてた。 一般人はルイ14世と会話することができ、また、ルイ14世は世間から貴重な情報を得ることができた。
「南南西」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:12)
ヴェニュス [Vénus] は金星を意味する。 嘗て、ヴェルサイユ宮殿には惑星の名を冠した七つの間があったが、1670年代末に、木星と土星が廃止され、現在は金星 [Vénus] 、月 [Diane] 、火星 [Mars] 、水星 [Mercure] 、太陽 [Apollon] の五つの間が残っている。 これは、古代神話の神々に因んだ名前を付けることによて、神々の有する美徳を授かることが出来ると考えたためで、このヴィーナスの間には、金星(ヴィーナス)と関連付けられた愛の女神(ヴィーナス)が描かれている。
「北西」MAPLay. C 
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:13)
だまし絵による透視画装飾と、同じくだまし絵手法を用いたメレアルゴスとアタランテの全身像。 左のドアの中央部には太陽を模った、太陽王 (ルイ14世) の紋章が嵌め込まれている。
「西北西」MAPLay. C 
「昇る太陽」を演ずる少年王ルイ14世

フロンドの乱が額圧されて間もない1653年3月に上演された「夜のバレ」で、14歳の少年王ルイ14世は「昇る太陽」を演じた。 これは フロンドにくみした貴族たちをまわりに従えての演技であり、現実の世界における国王と貴族たちの関係をあきらかにするものでもあった。 当時のバレ (バレエ) は、後世のチャイコフスキーのバレのように 、音楽にあわせて踊るだけのものではなく、合唱や独唱もあり、詩の朗唱もあるといった、もっと複合的な演劇ジャンルだった。

出典:ヴェルサイユ宮殿 (中島智章 氏 )
バレエと太陽王
フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエ (バレ) が持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。 ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。 ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。 本人も1651年に15歳で舞台デビューし、1661年に王立舞踏アカデミーを創立した。 バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。 「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽 (太陽神) に扮したことから生まれた。 ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。 美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている (その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。 アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、それが描写されている場面がある) 。 ルイ14世は1670年に舞台を引退した。 (出典:Wikipedia)
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] <Plan> (16:14)
正殿の夜会では「ヴィーナスの間」が軽食をとる場所として使われた。メルキュール・ガラン紙によれば、「テーブルの上には菓子や果物、砂糖づけの果物などを入れた銀製の大皿が所狭しと並べられていた」という。この部屋には、だまし絵による透視画装飾と、同じくだまし絵手法を用いたメレアルゴスとアタランテの全身像があり、また統治者を称えるジヤン.ヴァラン作『ローマ皇帝姿のルイ14世全身像』も置かれている。天井の楕円部には、この広間の名前の由来となつたルネ・アントワーヌ・ウアス作『神々と強大国を従わせるヴィーナス』が描かれている。
「西南西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:15)
ヴィーナスの間と同様に、ディアナ (ディアーヌ) の間は、大居室のホール、そしてルイ14世の頃には、夜は居室、ビリヤードの間として利用されていた。 拍手を送る夫人たちのために2つの壇が作られていて、上手だった王が素晴らしいプレイをするたびに拍手をしたので、「拍手の寝室」とも呼ばれていた。 ディアーナ(ラテン語:Diāna)はローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神で、ギリシア神話ではアルテミスに相当する。 ユーピテルとラートーナの娘で、アポローンの妹とする説がある。 新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。 ヴォールトの下のアーチ部分の装飾には、古代の英雄たちが狩をする姿が描かれている。 これはルイ14世が立派な狩人だったという事実を示している。
「西」MAPLay. C 
天井の中央部分の絵は、ガブリエル・ブランシャード [Gabriel Blanchard] の作品で、航海と狩をするディアナ (ディアーヌ) の絵 (1680年) 。  ラ・フォス作「ジャゾンとアルゴー船の冒険者たち」  ラ・フォス作「ライオンを狩るアレクサンダー」  オードラン作「イノシシを狩るサイラス」  オードラン作「カルタゴへローマ人植民団を送り出すユリウス・カエサル」
ディアナ (ディアーヌ) の間の天井画<Plan>
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:16)
「エンディミオーンの眠りを見守るディアナ」が描かれたガブリエル・ブランシャードの作品。
「南東」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:16)
古代の胸像は、マザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物。
「南西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:16)
古代の胸像は、マザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物。 中央は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(通称ル・ベルナン) の作品で、 ルイ14世の胸像。
「南西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:16)
古代の胸像は、マザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物。
「西南西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:16)
暖炉の上には、「イフィゲニアの生贄」 [Sacrifice d'Iphigénie] を描いたシャルル・ド・ラ・フォスの作品がある。
「西北西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:17)
天井の中央部分の絵は、ガブリエル・ブランシャード [Gabriel Blanchard] の作品で、航海と狩をするディアナ (ディアーヌ) の絵 (1680年) 。 満月をバックに鹿のひく凱旋車に乗った女神がディアーヌ。 弓を手にして額に小さな三日月を戴いている。  ここでは狩と航海を司る女神として広間に君臨している。 周囲は、ラ・フォス作「ジャゾンとアルゴー船の冒険者たち」と「獅子を狩るアレクサンドロス」、オードラン作「猪を狩るキュロス」と「カルタゴへローマ人植民団を送り出すユリウス・カエサル」の4作品で装飾されている。
「北北東」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:17)
ラ・フォス作「獅子を狩るアレクサンドロス」。
「北北東」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:17)
ラ・フォス作「ジャゾンとアルゴー船の冒険者たち」。
「西北西」MAPLay. C 
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] <Plan> (16:17)
ラ・フォス作「ジャゾンとアルゴー船の冒険者たち」と「獅子を狩るアレクサンドロス」。
「北西」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:19)
マルス (マース) は惑星のひとつ(火星)を意味し、同時に戦争の神でもある。 もともとこの大広間は、1682年まで衛兵の間だったことからマルスの間として選ばれた。 軍事的な装飾が多いのはそのためで、とくにコーニス (蛇腹) には兜と飾り武器が交互に置かれている。 この広間はその後、「正殿の夜会」の際に音楽会を開く場所となり、1684年~1750年にかけて暖炉の両側に楽士たちの演奏壇が設けられていた。 夜は居室、音楽及び舞踊などに使用されたため、「舞踏の間」とも呼ばれるようになった。  天井の中央には、クロード・オードラン [Claude II Audran] (1639–1684) により、狼たちが引く戦車に乗ったマルス (1673) が描かれている。 その西側 (右側) にウーアス [Houasse] の作品で「地上の支配者たちに襲いかかる恐怖、怒り、そして不安」が描かれている。 マルスの絵の東側 (左側) には、ジューヴネ [Jouvenet ] の作品で「ヘラクレス、アボンダンス(豊穣)そしてフェリシテ(至福)たちに支えられているラ・ヴィクトワール(勝利)」が描かれている。 (東側の絵は、この写真には写っていないが、前回訪れたときの写真にリンク)
「西」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:19)
暖炉の上には、ルイ14世の騎馬肖像があるが、 嘗ては、ここに、ドメニキーノ [Dominiquin] 作の「竪琴を奏でるダヴィデ」が掛けてあった。 天井の周囲には、6枚の金色のカメオ画が配されている。
「南西」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:19)
4つの扉の上にはシモン・ヴーエ [Simon Vouet] の絵画 (サン=ジェルマン=アン=レー城にあったもの) 、「節制」、「慎重」、「正義」、そして「力」がある。 北東の扉 (写真では左の扉) の上には「慎重」、南東の扉 (写真では右の扉) の上には「正義が配されている。 中央の絵は、チャールズ・アンドレ・バン・ルー [Charles-André van Loo] 作 フランス王ルイ15世の妃、ポーランド王女のマリー・レクザンスカ [Marie Leszczyńska] 。
「南東」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:19)
天井には、ウーアス [Houasse] の作品で「地上の支配者たちに襲いかかる恐怖、怒り、そして不安」が描かれている。  4つの扉の上にはシモン・ヴーエ [Simon Vouet] の絵画 (サン=ジェルマン=アン=レー城にあったもの) 、「節制」、「慎重」、「正義」、そして「力」がある。 南西の扉 (写真では左の扉) の上には節制」、北西の扉 (写真では右の扉) の上には」が配されている。 天井の四隅には戦利品装飾 (トロフェ) が見られ、南西の隅には、スペイン王国とオランダ共和国に対する勝利を象徴する装飾が、南東の隅には、海上における勝利を象徴する装飾が、北西の隅の、双頭の鷲を表した軍旗は、ハプスブルク朝神聖ローマ帝国に対する勝利を象徴している。
「西」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:20)
暖炉の左側には、シャルル・ル・ブランの作品「アレクサンドル大王の足元のダリウスの家族」が配され。
「南南東」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:20)
暖炉の右側には ヴェロネーゼの作品である「エマオの巡礼者」が展示されている。 (昔はオリジナル作品が展示されていたが、ルーヴル美術館へ移された。)
「西」MAPLay. C 
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] <Plan> (16:22)
中央の絵は、チャールズ・アンドレ・バン・ルー [Charles-André van Loo] 作 フランス王ルイ15世。
「北西」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:24)
メリクリウスは惑星のひとつ(水星)を意味し*、ローマ神話のディー・コンセンテス [Dii Consentes] の一人で、商人や旅人の守護神である。 英語では、水星を意味するマーキュリー  [Mercury] とも表記され、ギリシア神話の神々の伝令使ヘルメース [Hermēs] と同化し、雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者とされた。 ジャン=バティスト・シャンペーニュの天井画には、二羽の雄鶏が引く戦車の上のメルクリウスが描かれ、シンボルとされる翼の生えたヘルメットやサンダル、カドゥケウス [Caduceus] と呼ばれる蛇の絡まった杖を携えている。 ヴォールトには4枚の絵画が飾られている。 写真の (南) には、学者達に囲まれたアレクサンドロス大王とプトレマイオス2世フィラデルフォス、 (東) には、インド人達の使節団を迎えるアウグストゥス、 (西) には、インド人達の使節団を迎えるアレクサンドロス大王、 (北) には、全世界から動物たちを運ばせるアレクサンドロス大王と、それらを記述するアリストテレスの絵画が飾られている。 また、天井四隅には、ルイ14世の美徳と関連し、身体の敏捷さ、諸芸術への通暁、国王の正義、国王の権威、等を表した絵画が飾られている。
「南西」MAPLay. C 

水星はギリシアではヘルメースの星といわれ、ヘルメースは、ローマ神話におけるメルクリウス(マーキュリー)に相当するため、現代ヨーロッパ諸語でメルクリウスに相当する語を水星に当てはめるようになった。
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:24)
「メルクリウスの間」と「アポロンの間」は、ヴェルサイユ宮殿の中で最も豪華な部屋であり、特に1689年までここに置かれていた銀製の調度品は有名である。 1682年、ヴェルサイユが正式に宮廷と政府の所在地と定められた当時、「メルクリウスの間」は豪華な寝室であった。 この本来の機能を取り戻すため、ヴェルサイユを美術館に改造する際に ルイ・フイリップ が注文した ルイ14世 の寝室用の寝台がこの部屋に置かれた。
「西北西」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:24)
1706年、時計製造業者 アントワーヌ・モラン は ルイ14世 にからくり仕掛けの振り子時計を献上した。 この時計は、1時間ごとに ルイ14世 の像と雲から降りる ファーマ [Fama] (噂の女神) が現れる仕組みになっている。 この時計がここに置かれたのはおそら18世紀のことだと思われるが、それによりこの部屋は「置き時計の間」とも呼ばれるようになった。 (写真の左手)
「南西」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:25)
中央の絵は、ジーン・ルイス・トクケ [Jean Louis Tocqué] 作 フランス王ルイ15世の妃、ポーランド王女のマリー・レクザンスカ [Marie Leszczyńska] 。
「南東」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:25)
ヒアシント・リゴー [Hyacinthe Rigaud] によるルイ15世の肖像画。
「南西」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:25)
ドメニキーノ [Dominiquin] 作、「竪琴を奏でるダヴィデ」。
「南西」MAPLay. C 
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] <Plan> (16:25)
このメルクリウスの間はもともと大居室の装飾的な寝室 (盛儀寝台) *で、それが起源となって「寝台の寝室」とも呼ばれていたが、その後、冬場は寝台が取り払われ、その代わりに遊戯の机が置かれるようになった。 このメリクリウスの間が再び寝室として利用されたのは、ルイ14世の孫、アンジュー公のスペイン国王即位の宣言の折で、アンジュー公はこの部屋を3週間寝室として使用したのみで、彼の新しい国、スペインへ旅立った。 また、1715年9月2日から10日までルイ14世の遺体が安置されたのもこの部屋だった。
1682年、ヴェルサイユが正式に宮廷と政府の所在地と定められた当時、「メルクリウスの間」は豪華な寝室であった。 この本来の機能を取り戻すため、ヴェルサイユを美術館に改造する際に ルイ・フイリップ が注文した ルイ14世 の寝室用の寝台がこの部屋に置かれた。
「南西」MAPLay. C 

盛儀寝台は、国王の公的かつ正式なベッドで、儀式を盛大にするために用いられた。 プライベートな寝室は、"国王の寝室" として別にある。
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] <Plan> (16:26)
ルイ14世 (太陽王) が自ら同一視する太陽、芸術そして平和の神に捧げられたアポロンの間は、最も豪華な部屋で、今日でも天井の装飾や全ての絵画に見て取ることができる。 中央の構図とヴォールト及び隅柱などは色彩豊かで、そこでは全ての彫刻が丸く、全体が金箔で塗られている。  壁布は、王室の館が全てそうであるように、季節によって模様替えされ、冬は深紅色のビロードと18の帯状の金と銀の刺繍、夏は絹の地に金と銀の刺繍が使用されている。 天井画はアポロンを中心に描き、四隅には四大陸の寓意像が描かれ、世界をあまねく照らす太陽神のイメージが表現されている。 また、ヴォールトには4枚の絵画が飾られており、北側にはブランシャール作「アレクサンドロスの前に引き出されるポロス」、東側には「ローマの攻囲陣を解くコリオラヌス」、南側には「コロッセウムを建設させるウェスパシアフス」、西側にはラ・フォス作「ミュケナイの港を築港するアウグストゥス」の絵画が飾られている。 嘗て、この部屋には盛儀寝台が置かれていたが、1678年に開始された "鏡の間" の造営に伴って、メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] へ移された。
「南西」MAPLay. C 
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] <Plan> (16:26)
「南西」MAPLay. C 
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] <Plan> (16:26)
天井にはシャルル・ド・ラフォス作『太陽の戦車』が描かれている。 太陽神アポロンが描かれた天井画を中心として、四隅には四大陸の寓意像が描かれ、全地をあまねく照らす太陽神のイメージが表現されている。
「南南西」MAPLay. C 
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] <Plan> (16:27)
「南東」MAPLay. C 
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] <Plan> (16:27)
ヒアシント・リゴー [Hyacinthe Rigaud] によるルイ14世の肖像画。
「西南西」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:30)
天井の中央はクーポラ仕上げになっており、そこにはル・ブランによって描かれた、勝利の女神たちに囲まれ、武装して雲の上に座っているフランスが表現されいる。 フランス*の手には、ルイ14世の肖像が描かれた楯を持っている。 この天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、跪いたドイツは鷹と共に、威嚇的なスペインは吼え声を上げる獅子と共に、そしてオランダは獅子の上に倒れるように描かれている。 四つ目の天井画は、戦争の女神であるベローナが反逆と不和の間で激怒している姿を表している。 また、四隅には太陽神の紋章があしらわれている。
「南西」MAPLay. C 

「フランス」を擬人化した女性。
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:30)
「戦争の間」は、オランダ戦争でのルイ 14世の勝利と終戦時 (1678年) の「ナイメ ーヘンの和約」をテーマとしている。 ル・ブランがデザインした暖炉はアントワーヌ・コワズヴォックス [Antoine Coysevox] の浅浮彫りで 飾られている。 大きなメダイヨン(円形薄浮彫り肖像)には、オランダ戦争中の1672年6月12日にフランス軍がライン川 を渡った際の、ローマ皇帝に扮装をした 馬上のルイ14世が描かれている。 また、その下には、暖 炉をふさぐ形で、国王の歴史を記述する女神クリオ浅浮彫りで描かれている。  (下図参照)
「南東」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan>
(出典:ヴェルサイユ見学ガイド)
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:30)
天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、そのうち、跪いたドイツは鷹と共に左のヴォールトに、オランダは獅子の上に倒れるように右のヴォールトに描かれている。 天井の四隅に、紺地に金箔で装飾された花は、フランス中世国章 フルール・ド・リス [fleur-de-lis] (ユリの花) で、フランス語の直訳はユリの花を指すが、デザインとしてはユリ目アヤメ科のアヤメの花のを用いている。 中世フランスの時代からフランス王家の紋章として頻繁に使用されていた。 (拡大図)
「南東」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:31)
天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、そのうちの一つ、オランダは獅子の上に倒れるように左のヴォールト描かれている。 右の天井画は、戦争の女神であるベローナが反逆と不和の間で激怒している姿を表している。
「南西」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:31)
天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、そのうちの一つ、オランダは獅子の上に倒れるように正面のヴォールト描かれている。
「南」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:31)
天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、そのうちの一つ、威嚇的なスペインは吼え声を上げる獅子と共に、写真の中央に描かれている。
「北東」MAPLay. C 
戦争の間 [Salon de la Guerre] <Plan> (16:31)
"戦争の間" と "平和の間" は、当初から在ったわけではなく、1678年に始まった "鏡の間" の造営によって、テラスと "国王のアパルトマン" と "王妃のアパルトマン" のそれぞれ小広間 (サテュルヌの間) が取り壊され、"ヴェニュスの間"は "ディアーヌの間" の東側の現在の位置に移された。 それに伴って、角部屋に当たるそれぞれの ジュピテール (ジュピター) の間が "戦争の間" と "平和の間" に改装された。 この事により、ジュピテールの間とサテュルヌの間が無くなり、現在の五惑星の間 (ヴィーナス の間、ディアナ の間、マルス の間、メリクリウスの間、アポロンの間) になった。 つまり、月、火星、水星、太陽、木星、土星、金星の順で並んでいた "七間"が、金星、月、火星、水星、太陽の順の "五間" になった事になる。  ("国王のアパルトマン" と "王妃のアパルトマン" はシンメトリーに造られている。)
「東南東」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:32)
「戦争の間」「鏡の回廊」「平和の間」は 一体をなし、その装飾はルイ14世の戦勝と政治的偉業を称えるものとなっている。 この一体化は建築家ル・ヴォー による最初の大工事の際に実現したものではない。 1668年にルイ13世の小さな城館を石の外郭で囲む計画が発表された際、「鏡の回廊」の場所は庭園に面した西側ファサードのテラスとなっていた。 1678年 (ナイメーヘンの和約が調印された年) の9月26日にジュール・アルドゥアン・マンサールが国王に提案した現在の「鏡の回廊」の建築計画は、1679年春になると、案はシャルル・ル・ブラン [Charles Le Brun] のもとへ送られ、以後、画家と建築家のあいだで案のやりとりがあり、細かい所の装飾は画家によって詰められていった。 そして、1684年にはル・ブランの天井画や内装も含めて殆ど完成、庭園に面する側の17の窓に向き合って、17の鏡張りの回廊が設けられ、その内装に鏡が大量に用いられたことから "鏡の間" の名で広く知られるようになった。 1686 年に完成したアンシャン・レジーム下では「鏡の回廊」は王の正殿に通じていた。 毎朝、礼拝堂に赴く国王を一目見ようと、宮廷人がここに集まった。 この機会を利用して請願しようという者もいた。 1686年のシャム使節団など特別な使節を迎える場合、ルイ14世は「アポロンの間」にある玉座をここに移動させた。 また、ここでは王家の結婚式の際に催される盛装舞踏会や仮面舞踏会など大きな祭典も行われた。
「南南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:32)
この鏡の間の造営は、宮廷儀礼のための場所で、きわめて公的な性格を帯びていた。 それは同じ時期、すなわち1682年5月6日に政府がパリからヴェルサイユへ移されたことと密接な関係があり、その造営の前後の様々な大工事も、それに伴う宮廷人や召使いの増加に対応するものだった。 また、宮廷の前に広がる都市計画も着々と進められていった。
「南南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:33)
天井画の主題は当初、太陽神アポロンを中心としたものが計画されたが、この案はほどなく、エルキュール (ヘラクレス) 神話を中心としたものに取って代わられ、さらに案は変転し、主題として神話ではなく、国王自身の戦功が取り上げられる事になった。  (参考資料)
「南南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:33)
「南南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:34)
天井にはシャルル・ルブラン [Charles Le Brun] によって、オランダ戦争 (1672年~1678年) とフランドル戦争 (1667年~1668年) に焦点を当てたルイ14世の治世の歴史が描かれている。 これは「国王自らが統治する」というテーマに沿った構成になっており、ヨーロッパの強大な勢力と対峙したルイ14世が、快楽や賭けごとに背を向けながら、名誉の女神から授かり、軍神マルスに認められた不滅の王権について熟慮する姿が見られる。 大燭台は、1770年、当時の王太子、のちのルイ16世とオーストリア皇女マリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・オトリッシュの成婚時に新調された。 回廊の両脇に設けられた金色に輝く大燭台は、「アポロンの間」に保存されていた6つのオリジナル・モデルをもとに鋳造復元されたものである。 24本のシャンデリアも、かつては祝祭の夕べにだけ吊り下げられた。
「南南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:34)
「南」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:35)
1672年に敵の存在下で、ライン川を横断 [Passage du Rhin en présence des ennemis, 1672] 。
この上にある絵を説明した文で、遙か昔のユリウス・カエサルによるライン渡河の栄光の故事を意識して表現されている。
「東」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:36)
「南西」MAPLay. C 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:36)
「南西」MAPLay. C 
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:38)
「第2の控えの間」は天井と扉の間の湾曲部に作られた窓の形から「牛眼の間」とも呼ばれているが、現在の広さになったのは1701年のことである。 この部屋は国王の起床と就寝の儀式の際の待合室として使用された。 当初あったバッサーノの絵画はルイ14世時代に王家の人々の肖像画と取り替えられた。 なかでも特に有名なのは暖炉の上にあるジャン・ノクレ [Jean Nocret] が神話風に描いた大作 "ルイ14世と王族" [Louis XIV et la famille royale] である。 その左のドアの上にある絵は、フランソワ・ド・トロイ [Francois de Troy] 作、エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール [Elisabeth Charlotte de Baviere] の肖像画。 (拡大写真) (参照サイト)
「西」MAPLay. C 
ルイ14世と王族 [Louis XIV et la famille royale] (1670) <Plan>
 アンヌ・ドートリッシュ [Anne d'Autriche] は、フランス王ルイ13世の王妃で、ルイ14世とフィリップ・オルレアン [Philippe d’Orléans] の母。 地球と自然の女神、 Cybèle (大地母神) として描かれている。 Cybèleは小アジアにおいて、多くの場合、Jupiterの母レア [Rhéa] 、というギリシャ神話の "大地の女神" と関連づけられている。 彼女が手にしているのは地球儀。  ルイ14世は太陽王として描かれ、上半身は裸で、古風なドレープ [drapé] を着ている。 頭には月桂冠、足下にはlyre (竪琴) 、左手には王家の紋章である先端に太陽像のある笏 (しゃく) を持っている。 偉大な君主の画像で、"アポロ、太陽神、芸術との調和は、すべて満たしている。  マリー・テレーズ・ドートリッシュ [Marie Thérèse d'Autriche] 。 フランス王ルイ14世の王妃。 王の前に座って3人の子供に囲まれ、女神ジュノ [Junon] の形で表現されている。 ローマ神話で、ジュノ [Junon] は、ユピテル [Jupiter] の妻で、女性の結婚生活を守護する女神。 聖鳥である孔雀がその横に描かれている。  フィリップ・ド・フランス [Philippe de France] またはフィリップ・ドルレアンは、フランス・ブルボン朝の王族。 フランス王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュの次男で、ルイ14世の弟。 彼は右手に大きな角を持ち、その先端には夜明け前の光る星が描かれている。  イングランドのヘンリエッタアン [Henriette-Anne d’Angleterre] と呼ばれる女性、ルイ14世の最初のいとこで、ルイ14世の弟フィリップ・オルレアン [Philippe d'Orléans] (1640-1701) の妻。 フローラ (ローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神) で表現され、花と花輪を持っている。  マリー・ルイーズ・ドルレアン [Marie-Louise d'Orléans] は、オルレアン公フィリップ1世とヘンリエッタ・アン・ステュアートの長女で、ルイXIVの姪。 1679年にスペインのカルロス2世 (スペイン王) と結婚し女王となったが、子供に恵まれなかった。 彼女は、西風の人格化であるゼフィール [Zéphyr] で表現され、春の再来を意味する花輪の王冠と蝶の羽が描かれている。   ルイ・ド・フランス [Louis de France] は、フランス王ルイ14世と王妃マリー・テレーズの長男で、成人した唯一の子供。 グラン・ドーファン(仏: le Grand Dauphin、大王太子)として知られる。 フォンテーヌブロー宮殿で生まれ、誕生後ただちにフランス王太子となったが、即位することなく父に先立って49歳で死去した。 彼は、Hymenaeus (結婚の神) ] として、、アポロの息子と結婚の神として表現され、彼は母親の手を取り、象徴として、愛のトーチ、翼、矢筒と弓、月桂樹の冠が描かれている。  生まれてすくに亡くなった、アンヌ・エリザベート(姉)(1662.11.18~1662.12.30)とフランスのマリー・アンヌ(妹)(1664.11.16~1664.12.26)。 ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュ [Marie Thérèse d'Autriche] の第2子と3子で、Jean Nocretは伝統に従い、死後の肖像画を枠組みの中で描いている。  マリア・テレジア・ド・フランス [Marie-Thérèse de France] (1667.1.2~1672.3.1) 。 ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュ [Marie Thérèse d'Autriche] の第4子、オーストリアは花輪で表現されている。 「リトル・レディ」と呼ばれ、この絵が描かれた2年後に亡くなっている。  第5子フィリップ・シャルル・ド・フランス [Philippe-Charles de France] (1668.8.5~1671.7.10) はキューピッドで表現されている。  オルレアンのアン・マリー・ルイーズ、モンパンシエ公爵夫人は、ラ・グランド・マドモワゼル [La Grande Madomiselle] の呼び名で知られる。 Mademoiselleは、 狩猟、貞節と月の女神、ディアナとして表現され、ディアナのシンボルである槍を右手に持ち、頭には三日月を戴いている。 ガストン・ドルレアン [Gaston d'Orléans] と最初の妃マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ [Marie de Bourbon-Montpensier] の間にできた娘で、ルイ14世の従姉に当たる。  フランスのヘンリエッタ・マリア [Henriette Marie de France] は、左手にトライデント ( 三叉の矛) を、右手にサンゴを持ち、アンフィトリテ (ギリシャ神話の海の女神) として表現されている。 ルイ14世の叔母で、弟 (オルレイン) の妻 (イングランドのアンリエットアン) の母親でもある。  マルグリット・ルイーズ・ドルレアン [Marguerite-Louise d’Orléans] (1645-1721)、エリザベート・マルグリット・ドルレアン [Élisabeth Marguerite d'Orléans] (1646-1696)、フランソワーズ・マドレーヌ・ドルレアン [Françoise-Madeleine d’Orléans] (1648-1664)、3人とも ルイ13世の弟ガストン・ドルレアン [Gaston d'Orléans] の娘で、ルイ14世の従妹に当たり、三美神として描かれている。   竪琴を持つフィリップ・シャルル・ドルレアン [Philippe-Charles d’Orléans] (1664-1666) と妹アンヌ・マリーオルレアン [Anne-Marie d’Orléans] (1669-1728) は、ルイ14世の弟フィリップ・オルレアン [Philippe d'Orléans] (1640-1701) とイングランドのヘンリエッタアン [Henriette-Anne d’Angleterre] の子供で、彼らはキューピットで表現されている。
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:38)
1701年にバサン(バッサーノ)の間と呼ばれた第2の控えの間と寝室を統合してひとつの広間に改装したものである。 天井周辺の湾曲部に子供たちが遊んでいる姿が金色の浮彫で表現されていて、晩年のルイ14世の嗜好を垣間見ることができる。 当初あったバッサーノの絵画はルイ14世時代に王家の人々の肖像画と取り替えられた。 左端に見える胸像は、ルイ14世の胸像 [Buste de Louis XIV] 。
「南西」MAPLay. C 
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:40)
牛眼の左下にある絵は、ピエール・ミニャール [Pierre Mignard] 作、フィリップ・ド・フランス [Philippe de France] の絵に、彼の好きな長女、Marie Louise(スペインの未来女王)の肖像画が、一緒に描かれている。 牛眼の右下にある絵は、ジーン・ノクレ作、マリー・テレーズ・ドートリッシュ [Marie Therese d'Autriche] の肖像画。 右の壁ぎわに見える胸像は、ルイ15世の胸像 [Buste de Louis XV] 。
「南」MAPLay. C 
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:40)
ルイ16世の胸像 [Buste de Louis XVI] 。
「南西」MAPLay. C 
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:41)
ルイ14世が使用していた、とされている机。
「西」MAPLay. C 
牛眼の間 [Salon de l'Oeil de boeuf] <Plan> (16:42)
フィリップ2世 (オルレアン公) [Philippe II, Duc d'Orlèans] の騎馬像 (1693, Pierre Mignard) 。 その右手の壁には、同じく、ピエール・ミニャール [Pierre Mignard] 作、フィリップ・ド・フランス [Philippe de France] の絵に、彼の好きな長女、Marie Louise(スペインの未来女王)の肖像画が、一緒に描かれている。
「北西」MAPLay. C 
王の寝室 [La chambre du Roi] <Plan> (16:42)
1701年 (1701年以降の平面図) にはバサンの間 (第二の控えの間) と寝室の間の仕切り壁が撤去されて一つの大きな広間となり、これが第二の控えの間、別名 "牛眼の間" となった。 そして、寝室は大理石の前庭に面した中央の広間に移され、ようやく、ルイ14世は自らの寝室を宮殿の中心に移すことが出来た。  (1701年以前の平面図)
新しい寝室は、 鏡の回廊に通じた奥の3つのフランス窓をふさいでアルコーブが作られた。 アルコーブ*の部分と寝室の、それ以外の場所を隔てる欄干 (柵) には、金メッキを施した木製の彫刻が施されている。
「北」MAPLay. D 

アルコーブとは、部屋や廊下など、壁面の一部を後退させてつくったくぼみ状の部分。
王の寝室 [La chambre du Roi] <Plan> (16:42)
王のベッドの上の張り出し部分には、眠りを見守るかのようにフランスの寓意レリーフがニコラ・クストゥ [Nicolas Coustou] によって、化粧漆喰に施されている。 国王が一人になるのはこの寝台の中だけであり、寝室は単なるベッドルームではなく、宮廷の中枢だった。 そこではフランス王国の家長としてのルイの姿が象徴的に示され、とりわけ起床の儀と就寝の儀は重要で、六種類の入室特権に応じて、寝室に入室する順番が定められた。
「北」MAPLay. D 
王の寝室 [La chambre du Roi] <Plan> (16:43)
72年に渡る治世の後、1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのもこの寝室で、深紅を基調とした寝室には金と銀を使った豪華な錦織の装飾が飾られ、ルイ14世自らが選んだ絵画の数々がそれに色を添えていいる。 彼の後継者となったルイ15世は、ルイ14世と同じくここで起床と就寝の儀式を行った。 また1789年10月6日、ヴェルサイユからパリに連行される前に、ルイ16世と王妃マリー・アントワネット、そして王太子がこの部屋のバルコニーから群集の前に姿を現した。
「北西」MAPLay. D 
王の寝室 [La chambre du Roi] <Plan> (16:44)
木彫細工にはめ込まれその後も取り替えられることのなかった絵画のうち、とくにヴァン・ ダイク作『ヴァン・ダイクの肖像』とヴァランタン・ド・ブーローニュ作『カエサルの献金』の2つの作品がルイ14世の嗜好をはっきり示している。
「南西」MAPLay. D 
閣議 [Le cabinet du Conseil] <Plan> (16:44)
かつてルイ14世の大広間であった部屋と「かつらの間」を1755年に統合して現在の「閣議の間」が作られた。 アンジュ=ジャック・ガブリエル [Ange-Jacques Gabriel] がデザインを担当しジュール・アントワーヌ・ルソー [Jules Antoine Rousseau] が様々な新しい装飾モチーフ(武器飾や、軍隊、海軍、正義を象徴するものなど) を用いた華麗な木工細工がこの部屋を飾っている。 また、ロカイユ様式の振り子時計(1754年)、斑岩でできたアレクサンドル大王の胸像、マルス神と女神ミネルヴァの描かれたセーブル焼きの2つの花瓶、ピエール=フィリップ・トミール [Pierre-Philippe Thomire] 作の彫刻装飾のブロンズ(1787年)など、ルイ15世とルイ16世が作らせた豪華な工芸品の数々が全体を引き立てている。 この部屋で毎週日曜と水曜、時に月曜に閣議が行われ、財務会議は毎週火曜 と土曜に行われた。 また月に1度ないし2度、緊急閣議といった臨時の閣議も開かれた。 王は肘掛け椅子に座り、各大臣は折畳み椅子を使用した。 また、ルイ14世の治世以降は、たとえば王子たちの結婚に際して必要な登録簿への署名などいくつかの儀式の際にも王がこの部屋に一族を召集した。 ルイ14世が彼の孫であるアンジュー公にスペイン王室を継承させることを認めたのもこの部屋であった。
「北」MAPLay. D 
閣議 [Le cabinet du Conseil] <Plan> (16:45)
「北北西」MAPLay. D 
閣議 [Le cabinet du Conseil] <Plan> (16:45)
「南西」MAPLay. D 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:45)
「南西」MAPLay. D 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:46)
当初、ルイ14世は「鏡の回廊」にシャルル・ル・ブランがデザインした純銀製の調度品を置いたが、戦費調達の目的で1689年に熔解された。 この調度品には、大燭台、小型円卓、燭台支え、オレンジ用の大花瓶などが含まれていた。
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鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:46)
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鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:47)
中央の絵の下半分。 シャルル・ルブラン [Charles Le Brun] 作、"6日間でゲント (ヘント) の町と城塞を奪取,1678" [Prise de la ville et de la citadelle de Gand en six jours, 1678] 。 中央の絵の上半分。 "ゲントが奪取され、打ち負かされたスペイン人たちの行く末,1678" [Mesures des Espagnols rompues par la prise de Gand, 1678] 。
MAPLay. D 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:47)
「北東」MAPLay. D 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:47)
「北東」MAPLay. D 
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] <Plan> (16:48)
「北東」MAPLay. D 
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] <Plan> (16:50)
平和の間 [ Salon de la Paix] からの眺め。
「西北西」MAPLay. D 
平和の間 [ Salon de la Paix] <Plan> (16:51)
その名が示すように、この広間は、「戦争の間」や「鏡の回廊」のテーマとなっている戦争の後に訪れる平和、そしてヨーロッパでのフランスの優位さを正当化するためにフランス歴代の国王が築きあげてきた平和を表現している。 暖炉の上には、フランソワ・ルモワーヌ [François Lemoyne] の1729年の作『ヨーロッパに平和をもたらすルイ15世』が飾られている。 かなり早い時期にこの部屋は王妃の居殿の一部となり「娯楽の間」として使用された。 そのため、取りはずし可能な仕切りを置き、連絡通路を閉じて回廊との間の通り抜けができないようにした。 ルイ15世時代に、王妃マリー・レクザンスカは日曜日ごとにここで宗教音楽や当時流行した音楽の演奏会を催し、ヴェルサイユの音楽活動面で大きな役割を果たした。
「東南東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] <Plan> (16:51)
平和の間 [ Salon de la Paix] からの眺め。
「南南西」MAPLay. D 
平和の間 [ Salon de la Paix] <Plan> (16:52)
「北」MAPLay. D 
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La Chambre de la reine] <Plan> (16:53)
左端に見える胸像は、マリーアントワネットの胸像。 その右にある箪笥は、宝石箱として、マリーアントワネットが使っていた箪笥。 その右にある、開いているドアは、マリーアントワネットが脱出に使ったドア。 (拡大写真)
「北東」MAPLay. D 

1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始した、国王はパンの配給を表明したことで、一旦、民衆の興奮は治まったが、翌朝 (6日6時頃) 、一部の市民が宮殿に乱入したことが引き金になり、多くの市民が暴徒化した。 このとき、王妃は、急を知らせる廷臣の叫び声を聞くと下着にスカートだけの姿で靴下を穿いて、ショールを纏うと寝室隅にある『隠し扉』から脱出して、『控えの間』に連なる廊下を抜けた先にある国王の部屋に向かった。 このときに使われたドアがこの開けられているドアで、この出来事は、ヴェルサイユ行進 (別名:十月事件、十月行進) と言われている。
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La Chambre de la reine] <Plan> (16:53)
寝室は居室の中心をなす部屋で、王妃はその部屋で大半の時間を過ごし、ここで眠り、たびたび王が訪れた。 朝は、身づくろいの間とその後、人々の訪問を受けましたが、この身づくろいは王の起床と同じくらい礼儀作法に縛られたものだった。 またこの部屋で、いわば公開の出産が行われ、19人の「フランスの子」が生まれた。 左端の絵は、La Jeunesse et la Vertu présentent les deux princesses à la France: Mme Adélaïde & Mme Louise-Marie (1735, Charles Joseph Natoire) 。 その右下の絵は、Kaiser Joseph II. (1773, Michel-Henri Cozette) 。 (拡大写真)
「北」MAPLay. D 

この部屋の天井からぶら下がっているシャンデリアは、パリ三越が贈呈したものだが、残念ながら今はパリに三越はない。 しかし、新たに三越伊勢丹が、“本物の日本” を海外へ伝えるべく、コンセプトストア「The Japan Store ISETAN MITSUKOSHI Paris」を2016年10月1日にフランス・パリにオープン (MAP) した。 コンセプトは「ART DE VIVRE AU JAPON(日本の芸術的生活)」。
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La Chambre de la reine] <Plan> (16:54)
ドアの上にある絵は、ジャン・フランソワ・ド・トロイ [Jean-Francois de Troy] 作、“La Gloire des princes s’empare des enfants de France” (Allegory on the Dauphin and his sisters Elisabeth and Henriette) 。 (拡大写真) (参照サイト)
「東」MAPLay. D 
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La Chambre de la reine] <Plan> (16:54)
装飾はこの部屋で寝起きした3人の王妃の面影を残している。 天井の仕切りはマリー・テレーズ・ドートリッシュ (ルイ14世の王妃) の時代に実現され、フランソワ・ブーシェ [François Boucher] によるグリザイユ [Grisaille] ( モノクロームで描かれた絵画) の絵木工細工はマリー・レクザンスカ (ルイ15世の王妃) のために実現されたもので、マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) の時代にはこれらの全ての装飾が保存され、新たに持ち込まれたのは家具と暖炉だけだった。 右壁面に飾られている肖像画は、1769, Joseph Ducreux作、マリー・アントワネットの母、マリア・テレジア [Marie-Thérèse] の肖像画。 (拡大写真)
「東」MAPLay. D 
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La Chambre de la reine] <Plan> (16:54)
フランス革命でヴェルサイユ宮殿は略奪はされなかったが、家具類はほぼ1年間におよぶ競売にかけられ散逸した。 一部のものは寝台の左側にあるシュベールトフェーガーの宝石箱のように、あるいは暖炉の衝立のように、後年になって見つかったものもあれば、同様のもので置き換えられたものもある。
「北」MAPLay. D 
貴人の間 (王妃のメルキュールの間) [Le salon des Nobles] <Plan> (16:55)
この広間では、フランス王妃による公式な接見や、新たに宮廷に迎えられた婦人たちの紹介が行われた。 メルクリウスの寓話が描かれている天井やいくつかの装飾から、当初は「王妃の居殿」と「王の正殿」が左右対称になっていたことがわかる。 調度品はマリー・ア ントワネットのために1785年に作られたものである。
「東」MAPLay. D 
貴人の間 (王妃のメルキュールの間) [Le salon des Nobles] <Plan> (16:56)
王妃マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) は天井の絵画を除いて全ての装飾を作り変えさせ、壁には幅広い金色の飾り紐で縁取った青りんご色のダマスク織りを張り巡らせた。 新しく持ち込まれた家具は、大変近代的で繊細なものだった。 王妃お気に入りの高級家具職人 ジャン=アンリ・リーズネル [Jean-Henri Riesener] は、この部屋用の壮麗なたんすと角の戸棚について、 最新のイギリス様式を採用し、従来の花模様の寄木細工の代わりに模様なしのマホガニーを使用した。  また、この豪華な家具の一部をなす金張りのブロンズと濃青色の大理石のプレートは、やはり新調された暖炉と調和するよう考えられていた。
「北」MAPLay. D 
公式晩餐の控えの間 (大会食の間) [L’antichambre du Grand Couvert] <Plan> (16:58)
「大会食の間」に飾られている絵画の中で最も有名なのはヴィジェ・ルブラン夫人が1787年のサロンで発表したこの大作である。 この絵にはマリー・アントワネッ卜と3人の子供たち、すなわちフランス革命時代を生き抜いたマダム・ロワイヤル(マリー・テレーズ) 、1795年タンプルの牢獄で死亡したノルマンディー公 (後のルイ17世) 、そして1789年に死亡した王太子が描かれている。 王太子が指差している無人の揺りかごはこの絵の完成前に幼くして亡くなったソフィー王女を示しているものと思われる。 (拡大写真)
「東」MAPLay. D 
公式晩餐の控えの間 (大会食の間) [L’antichambre du Grand Couvert] <Plan> (16:58)
公式晩餐 (グラン・クヴェール) は王妃の控えの間で行われ、その豪華な儀式は多くの人を集めた。 王家の家族のみがテーブルに着くことを許され、その前に公爵夫人、王女、国の要職者がスツールに座る恩恵にあずかった。 その他の婦人たちや人々は、身分に応じて、あるいは守衛の許可により入室を許されたが、座ることはできなかった。 ルイ14世は、毎晩このような儀式に余儀なく従ったが、ルイ15世は、内輪の夕食を好み、ルイ16世とマリー=アントワネットに関しては、以下のような話が伝えられている。 「王妃が王の左側に座り、二人は暖炉を背にしていた。  王は食欲旺盛だったが、王妃は手袋を脱ぐことはなく、ナプキンを広げることもなかった。」このような退屈をしのぐために、マリー=アントワネットはグラン・クヴェールの夕食に音楽を要求し、そのために部屋の中に演奏者用の舞台が設置された。
「北」MAPLay. D 
公式晩餐の控えの間 (大会食の間) [L’antichambre du Grand Couvert] <Plan> (16:58)
王妃マリー・テレーズの時代に、この広間は「王妃の衛兵の間」 (王妃のマルスの間) だった。 戦争をテーマにした装飾で飾られた天井画がそれを証明している。 王妃への謁見がかなった招待客はここで辛抱強く待った後、「貴人の間」か「寝室」に通された。 この広間はまた、コンサートや芝居にも利用された。 大会食という名前は、皆の前で君主が食事をとる儀式に由来している。 1764年1月1日にルイ15世とマリー・レクザンスカが幼少のモーツアルトと共にした食事は最も有名である。
「北西」MAPLay. D 
王妃の衛兵の間 [La Salle des Gardes de la Reine] <Plan> (17:00)
常に王妃の衛兵が待機していたこの部屋には、折り畳みベッドを隠す屏風やテーブル、武器を置く棚などが所狭しと置かれていた。 1789年10月6日の朝 (十月事件、十月行進) 、多くの衛兵が王妃を国王のもとへ逃がすためにここで戦い、命を失った。 天井画は、画家 ノエル・コワペル [Noël Coypel] が描いたもので、四隅に広間を覗き込むように観察している宮廷人が描かれている。 (拡大写真)
「東」MAPLay. D 
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:01)
当初、この場所には宮殿の第3の礼拝堂があった。 1682年に宮廷と政府が正式にこの地に移されると、ここは「王と王妃の衛兵の大広間」となった。 常に宮廷夫人たちの輿や腰掛け屏風や銃架であふれ、彩色された広い布が張りつめられていたため、宮廷人たちはこの広間を「倉庫」と呼んでいた。 復活祭前の聖木曜日に国王が貧しい13人の子供たちの足を洗う儀式が行われたのもこの部屋である。 現在の部屋の様相はルイ・フイリップ時代のもので、「戴冠の間」というこの広間の名称も、彼がここに ダヴィッド作『1804年12月2日、ナポレオン1世の戴冠』の絵を置いたことに由来する。
「南東」MAPLay. D 
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:01)
天井画は、アントワーヌ・フランソワ・カレ [Antoine-François Callet] 作、ブリュメール18日 (フランス救済) の寓話 [Allégorie du dix-huit brumaire ou la France sauvée] 。
この絵は、ナポレオン・ボナパルトが率いて統領政府を設立した18 Brumaire(1799年11月9日)の、ブリュメールのクーデターの寓話を描いている。 ブリュメールのクーデターは、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール(霧月)18日)、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデターのことで、その後、彼は統領政府を樹立し、自ら第一統領となった。 ブリュメール18日のクーデターとも言われている。
絵の上部は、勝利したフランス(マレンゴの戦いの後)は、月桂樹を冠り、手にオリーブの枝を持った女性として表現されている。 彼女は共和国の軍隊によって支えられた盾の上に立ち、ボナパルトの軍隊を象徴するエジプト人の姿は「フランス*」の隣に描かれている。 その下には、秩序と平和の敵を潰した政府を代表するネメアーのライオンの皮を身につけたヘラクレスが描かれている。 (参照サイト)
「南東」MAPLay. D 

「フランス」は擬人化された女性の姿で描かれている。
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:01)
ジャック=ルイ・ダヴィッド [Jacques-Louis David] 作、ナポレオンの戴冠式 [Le Sacre de Napoleon] 。 (参照サイト)
「北東」MAPLay. D 

注: ここに展示されている絵は、ダヴィッドが2番目に描いた絵 (1808~1822) で、最初の絵 (1805~1807) はルーヴル美術館に展示されている。 (二つの絵の比較)
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:02)
ジャック=ルイ・ダヴィッド [Jacques-Louis David] 作、鷲の軍旗の授与 [La Distribution des Aigles] 。 (参照サイト)
「南」MAPLay. D 
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:02)
アントワーヌ=ジャン・グロ [Antoine-Jean Gros] 、アブキールの戦い [Bataille d'Aboukir] 。 (参照サイト)
「東」MAPLay. D 
戴冠の間 [La salle du Sacre] <Plan> (17:02)
ジャック=ルイ・ダヴィッド [Jacques-Louis David] 作、 ナポレオンの戴冠式 [Le Sacre de Napoleon] 。 (参照サイト)
「東北東」MAPLay. D 
王妃の大理石の階段 [Marbre ou escalier de la Reine] <Plan> (17:06)
当初この階段は王妃マリー・テレーズの居殿にしか通じていなかったため「王妃の階段」とも呼ばれる。 もともと質素な階段だったが1681年に現在の形に作り直され、1683年に王妃が亡くなると、新たに完成したルイ14世の「王の居殿」に通じるようになった。 この「王妃の階段」は、1752年に取り壊された「大使の階段」と対をなす形になっている。 (見取図)
「東」MAPLay. D 
王妃の大理石の階段 [Marbre ou escalier de la Reine] <Plan> (17:07)
ドアの上部や窓枠 (実は鏡) の上部に飾られた、金めっきされた鉛彫刻は、ベノワ・マッスー [Benoît Massou] によって作成された作品で、ルイ14世とオーストリアのマリア・テレジアの結婚を象徴している。 (拡大写真 )
「南東」MAPLay. D 
王妃の大理石の階段 [Marbre ou escalier de la Reine] <Plan> (17:07)
階段の側壁に、宮殿の概観を描いた大きな絵画、"列柱のギャラリー"『Galerie à colonnade』 (17世紀第4四半期) が飾られている。 この絵画の建築物はフィリップ・ムニエ [Meusnier Philippe] 、人物はチャールズ・フランソワ・ポアーソン [Poerson Charles-françois] 、そして花はブラン・ド・フォントネー [Blain De Fontenay] によって描かれている。 (拡大写真)
「東南東」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] <Plan> (17:09)
建物中央のバルコニーのある2階の部屋は、王の寝室。 1789年10月6日、ヴェルサイユからパリに連行される前に、ルイ16世と王妃マリー・アントワネット、そして王太子がこの部屋のバルコニーから群集の前に姿を現した。 バルコニーの下に位置する広場は、大理石の中庭 [Cour de Marbre] と呼ばれている。 (参照サイト)
「北西」MAPLay. D 
ヴェルサイユ全体図
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] (17:43)
アンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre] は建物のすぐそばに、階上からも眺められる「水の前庭」をつくり、これによって宮殿の建物を引き立たせようとした。 厳格なまでに水平で、水面にファサードの雄姿を映している「水の前庭」の2つの泉水の完成は遅れたが、1685年頃、当初の構想どおりに仕上った。
「南東」MAPLay. D 
西側の庭園 [Le côté ouest du jardin] (17:44)
宮殿の先には大小の庭園が西に向かって広がっている。 これらは、宮殿と直角に東西に走る主軸と、ファサードと平行に南北に走る副軸の2つの軸のまわりに整然と配置されている。
「北西」MAPLay. D 
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] (17:47)
神話や寓話からとられた人物や動物の石像、大理石像、鉛の彫像、ブロンズ像が庭園のあちこちに置かれている。 ル・ノー トルはこうした彫像が庭園の雰囲気を盛り上げ、庭園の軸線を妨げることのないよう配慮した。 こうして、横たわった形の力感あふれる像が「水の前庭」の周りを飾ることになった。 これらのブロンズ像の傑作は王国の象徴であるフランスの河川を表現している。
「東南東」MAPLay. D 
水の前庭 (左) と 南花壇 (右) (17:50)
「東南東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:51)
「東南東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:53)
花で飾られた刺繍状の植込みが「王妃の居殿」の窓の下にアラベスク模様を描き出している。
「東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:53)
「東北東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:53)
「北東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:54)
「東北東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (17:55)
「北東」MAPLay. D 
オランジェリー [Orangerie] (17:57)
南側は下り斜面はなく3層の平坦部で構成されている。 宮殿の高さに「南花壇」があり、その切り立った端の下に「オランジュリー」の花壇が続いている。 その先の最も低い場所には、景観を保つために異常に長く作られた「スイス人の池」がある。
「南」MAPLay. D 

「スイス人の池」の呼称は、沼地の干拓作業と泉水の掘削作業を手伝うために呼び寄せられたスイス人傭兵隊が献身的に働いたことから、この名で呼ばれるようになった。 当時、ヴェルサイユの作業現場では1万5,000人が働いていた。
オランジェリー [Orangerie] (17:59)
「オランジュリー」は宮殿より低い、 地盤の安定した場所にあり、側面に百段の階段が設けられている。 南向きであることや二重窓のおかげで冬でも気温は5°C~8°Cと安定している。 ここには、箱植えのポルトガル産、 イタリア産のオレンジ、レモン、200 年以上の樹齢をもつザクロ、ヤシ (今世紀初めに植樹) など1,080本の樹木が植えられている。 これらの樹木は装飾目的で球状に剪定されるため果実はほとんど実らない。 5月半ばに庭園管理人がこれらの樹木を外に運び出し、10月半ばになると再び屋内に運び込む。
「南南西」MAPLay. D 

「オランジュリー」は、オレンジやレモンなどの柑橘類を冬の寒さから守るために建築された装飾的な建物。 17世紀のヨーロッパで発達し,現在でもヴェルサイユ宮苑をはじめとする宮廷庭園などの一角に多く見られる。
南花壇 [Parterre du Midi] (18:01)
花で飾られた刺繍状の植込みが「王妃の居殿」の窓の下にアラベスク模様を描き出している。
「東北東」MAPLay. D 
南花壇 [Parterre du Midi] (18:04)
「東北東」MAPLay. D 
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] (18:10)
神話や寓話からとられた人物や動物の石像、大理石像、鉛の彫像、ブロンズ像が庭園のあちこちに置かれている。 ル・ノー トルはこうした彫像が庭園の雰囲気を盛り上げ、庭園の軸線を妨げることのないよう配慮した。 こうして、横たわった形の力感あふれる像が「水の前庭」の周りを飾ることになった。 これらのブロンズ像の傑作は王国の象徴であるフランスの河川を表現している。
「北東」MAPLay. D 
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] (18:12)
水花壇は、花や芝生か配置される通常の花壇(Parterre) ではなく、全面が水鏡であるかのように池となっているものを水花壇 [Parterre d'eau] という。 ヴェルサイユの水花壇は北と南の二面からなっており、 1683年の終わり頃には姿をあらわした。
「南東」MAPLay. D 
水の前庭 (花壇) [Parterre d'eau] (18:13)
水花壇は、北と南の二面からなっており、 1683年の終わり頃には姿をあらわした。 水花壇の周囲にはフランスの四大河(セーヌ川、ロワール川、 ローヌ川、ガロンヌ川)を河神の姿で、 その支流 (マルヌ川、ロワレ川、ソーヌ川、ドルドーニュ川)を女性の姿で表現した擬人像が配置されている。 これらはパリの造兵廠を宰領していたケレール兄弟が1685年から1694年にかけて鋳造したもので、写真には北の水花壇の北西隅に配されたセーヌ河神が写っている。
「南東」MAPLay. D 
庭園側から見たヴェルサイユ宮殿 (18:15)
この建物の2階部分が、鏡の回廊 [La galerie des Glaces] 。
「南南東」MAPLay. D 
庭園側から見たヴェルサイユ宮殿 (18:16)
"戦争の間" の前には、アントワーヌ・コワズヴォ [Antoine Coysevox] 作、戦争の壺 (大理石製) が置かれている。 (左手前)
"平和の間" の前には、同様に平和の壺が置かれているが、ここでいう平和とは、戦争の終結を意味しており、戦争の勝利を祝って武具を携えた女性や子供たちが凱旋行進している場面を描いている。 (右前方)
「南南東」MAPLay. D 
宿泊ホテ:トレアノン・パレス・ヴェルサイユ [Trianon Palace Versailles] 本館 (18:51)
ヴェルサイユ宮殿から徒歩圏内にあるホテル。
「北」MAPLay. D 
宿泊ホテ:トレアノン・パレス・ヴェルサイユ [Trianon Palace Versailles] 本館 (18:51)
ヴェルサイユ宮殿から徒歩圏内にあるホテル。
「北西」MAPLay. D 
宿泊ホテ:トレアノン・パレス・ヴェルサイユ [Trianon Palace Versailles] (19:08)
ヴェルサイユ宮殿から徒歩圏内にあるホテル。
MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (22:39)
「北西」MAPLay. D 
パリ通り [Avenue de Paris] (22:44)
ルイ14世の騎馬像は、パリ通りに向かって立っている。
「東南東」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (22:46)
「北北西」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (22:47)
「北西」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (22:51)
右手の像は、ルイ14世の騎馬像。 かつて、この騎馬像は、王の格子門に置かれていたが、時間と共に王の格子門の復旧案が生まれ、2000年に決定、一旦 ルイ14世 の騎馬像は修復を兼ねて取り除かれ、工事が始まった。 2年間の工事を経た2008年7月8日、18金の金箔で装飾された新しい格子門 (MAP) が完成・落成された。 その数か月後、修復された ルイ14世 の騎馬像が戻ってきたが、以前の王の中庭 () ではなく アルム広場 [Place D'Armes] の東端に、パリ通りに向けて設置された。 (MAP)
「北西」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (22:54)
左手の像は、ルイ14世の騎馬像。
「北西」MAPLay. D 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (23:02)
「北西」MAPLay. D 


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