旅の栞 (フランス)

5月27日

トレアノン・パレス・ヴェルサイユ [Trianon Palace Versailles] ~
シャンボール城 [Château de Chambord]
ワール河と洞窟レストラン [Loire et Cave Restaurant] ~

アンボワーズ城 [Château d'Amboise]
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel]

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/france/newpage6.html

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トレアノン・パレス・ヴェルサイユ [Trianon Palace Versailles]
ヴェルサイユ宮殿から徒歩圏内にあるホテル。

愛のオルゴール
トレアノン・パレス・ヴェルサイユ (07:37)
ホテルでの朝食風景。
「東北東」MAPLay. A 
トレアノン・パレス・ヴェルサイユ (08:02)
ホテルでの朝食風景。
「北東」MAPLay. A 
トレアノン・パレス・ヴェルサイユ別館 (08:04)
別館にて宿泊。
「東」MAPLay. A 
トレアノン・パレス・ヴェルサイユ別館 (08:04)
本館と別館の間にある中庭。
「東」MAPLay. A 
ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles] (08:38)
ヴェルサイユ宮殿を後に、ロワール地方へ向かう。
「西」MAPLay. A 



ロワール地方 [Loire]
ロワール川の流域には、「フランスの庭」と称されるほど風光明媚な土地が広がり、中世期の要塞、王家の城、ルネッサンス期の邸宅、古い田園屋敷、壮大な聖堂など、現在も無数の歴史的建造物が残っている。 フランソワ1世やシャルル7世といった王家の人々や、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家がロワールの景観に魅了され、この地で暮らした。 ロワール河畔の立派な城館は、フランス史そのものであり、大小問わず様々な歴史の舞台となってきた。 ロワール河流域の800㎞に渡る一地帯は、今に生きる文化的景観として、2000年よりユネスコ世界遺産に登録されている



シャンボール城 [Château de Chambord]

1519年、弱冠24歳のフランソワ1世がシヤンボール城の膨大な建設工事を着工します。
当時、日本では足利将軍による室町幕府の時代で、天皇と戦国大名との争いが絶えず続いていました。 千以上に上る軍事要塞としての城が造られたのもこの頃です。
1515年の即位を機にフランソワ1世はイタリアのミラノに遠征し、先代のルイ12世が守れなかつた支配を獲得します。 マリニャーノの戦いで勝利を飾り、イタリアでルネッサンス様式の建築に触れた若き王は、フランスに帰国後、大きな野心と愛する狩猟のためにシヤンボール城の建設に着手します。 シャンボールの設計に際して、中世の要塞としての外観(中央の主塔を囲む四隅の大きな塔、2つの翼棟、そしてすべてを囲む城郭)を残しながら、従来のフランス様式にイタリアルネツサンスの革新的な建築様式(ロッジア、テラス、垂直のつけ柱、正面壁にリズムを与える水平の刳形など)を取り入れた斬新な姿にまとまっています。
もともと狩猟用の離宮として考えられていたシヤンボールですが、幅156m、高さ56m、77の階段、282の暖炉、426の部屋など城館としてはどれも桁外れの規模です。 大きさだけが取柄かといえば、まったくそんなことはありません。 バランスが整った優美な姿には現在も多くの人々が魅了されています。 城の建設に石灰質の岩から切り出された石を使用しているのも見学者の目を引く点です。 この石材は、ロワール渓谷の大多数の城の建設に見られますが、かくも絶妙な技巧で柔らかく脆い石灰岩*を用いているのは、おそらくシャンボールだけでしよう。
フランソワ1世が、32年間の統治生活でシャンボールで過ごした日数はわずか72日。 彼は城の完成を見ることなくこの世を去りました。 1547年に死去するまでに出来上がっていたのは、主塔と王室の塔のみで、シャンボールを現在の姿に整えたのは、狩をこよなく愛した息子のアンリ2世とルイ14世の二人です。

出典:見学ガイド パンフレット

白鳥 [Le Cygne]

チューフォー [Tuffeau] とよばれる、柔らかい石灰岩石。
サン・ルイ広場 [Plase Saint-Louis] (11:11)
正面に見えるのは、シャンボール城 [Château de Chambord] 。
「東」MAPLay. A 
サン・ルイ広場 [Plase Saint-Louis] (11:12)
正面に見えるのは、シャンボール城 [Château de Chambord] 。
「東」MAPLay. A 
サン・ルイ広場 [Plase Saint-Louis] (11:13)
「東北東」MAPLay. A 
サン・ルイ広場 [Plase Saint-Louis] (11:15)
「東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:15)
「東北東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:16)
「東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:18)
「東北東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:20)
「北北西」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:20)
フランス国旗の立っているところが、城郭の王の門 (入口) 。 この門をくぐると中庭を隔てて本城がある。
「北北東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:21)
フランス国旗の立っているところが、城郭の王の門 (入口) 。 この門をくぐると中庭を隔てて本城がある。
「北北西」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:21)
「北」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (11:25)
本城の入り口。
「北北西」MAPLay. A 
主塔と階段 (一階) (11:28)
「北」MAPLay. A 

主塔の中心部分に、城館の3つの階をつなぐ有名な二重螺旋階段があります。 これは中心の空間部の周りに取り付けられた二重構造の螺旋階段です。 階段部分の上方には、ユリの花を戴いた頂塔があります。 一方の階段からは、他方の階段を通る人の姿を中心の空間部から垣間見ることができますが、決してすれ違うことはありません。 その彫刻装飾は、フランス・ルネツサンスの傑作の一つとして数えられています。 各階では、この階段を中心に十字型の放射状に4部屋が広がり、4つの均等な居住区域を形成しています。この原案自体、当時のフランスでは非常に革新的であることと、 中央階段の傑出した技巧などを見ても、おそらくこの設計にはフランソワ1世が1516年以降にフランスに招いたレオナルド・ダ・ヴィンチが関わっているのではないかといわれています。

出典:見学ガイド パンフレット
狩りの期間中、客人に提供された部屋 (一階) (11:34)
「北西」MAPLay. A 
客人達の寝室 (一階) (11:35)
「北西」MAPLay. A 
1863年から1867年に描かれた城の絵 (一階) (11:36)
MAPLay. A 


フランソワ1世の肖像画 (一階) (11:37)
19世紀の作品で、周りにいるのは女性ばかりで、優雅な暮らしを皮肉を込めて描いている。
MAPLay. A 
狩りの獲物で作られた剥製 (一階) (11:38)
MAPLay. A 
狩りの獲物で作られた剥製 (一階) (11:38)
MAPLay. A 
二重螺旋階段 (一階) (11:39)
上りと下りの階段は別々になっており、一方の階段からは、他方の階段を通る人の姿を中心の空間部から垣間見ることができるが、決してすれ違うことのない構造になっている。 おそらくこの設計には、フランソワ1世が1516年以降にフランスに招いた、レオナルド・ダ・ヴィンチが関与したものと考えられる。
「東」MAPLay. A 
二重螺旋階段の中心にある空間部 (11:41)
二重螺旋階段は、上りと下りが別々になっており、一方の階段からは、他方の階段を通る人の姿を中心の空間部から垣間見ることができるが、決してすれ違うことはない。 (構造図)
MAPLay. A 
天井の彫刻装飾 (三階) (11:42)
「北東」MAPLay. A 

3階大広間の格天井は、シャンボール城で見逃せないものの一つです。 その彫刻にはフランソワ1世の王室文字である「F」と、火に棲むという伝説の生き物「サラマンダー」が見えます。  シャンボールの随所に見られる サラマンダーは、《nutriscoet extinguo》(「聖なる炎を養い、悪の炎を駆逐する」)という王室の格言を象徴するものです。

出典:見学ガイド パンフレット
天井に描かれた "F "の文字と火を噴くトカゲのレリーフ (三階) (11:43)
"F" はフランソワ1世の頭文字、火を噴くトカゲはサラマンダー [Salamandra] と呼ばれ、フランソワ1世の紋章。
MAPLay. A 
天井に描かれた "F "の文字と火を噴くトカゲのレリーフ (三階) (11:43)
"F" はフランソワ1世の頭文字、火を噴くトカゲはサラマンダー [Salamandra] と呼ばれ、フランソワ1世の紋章。
MAPLay. A 
天井に描かれた "F "の文字と火を噴くトカゲのレリーフ (三階) (11:44)
"F" はフランソワ1世の頭文字、火を噴くトカゲはサラマンダー [Salamandra] と呼ばれ、フランソワ1世の紋章。
MAPLay. A 
二重螺旋階段の最上部 (終了部) の上方 (テラス階の上部) (11:46)
二重螺旋階段の最上部から上は、王専用の一重螺旋階段があり、塔の上部へ通じている。 この塔は、ランタンに似ていることから "ランタン塔" とも呼ばれている。
MAPLay. A 
王専用階段の入り口 (テラス階の上部) (11:47)
二重螺旋階段の最上部 (終了部) には、王専用の一重螺階段に通じるドアがある。 この階段は、塔の上部に通じている。
MAPLay. A 
(シャンボール城) 二重螺旋階段とその上部にある王専用の一重螺階段の構造図。
主塔「フランソワ1世の塔」 (テラス) (11:48)
中央の塔は主塔で、主塔の中心部に二重螺旋階段がある。 主塔はランタン塔とも呼ばれ、最上部にはフランスの国章であるユリの花*を戴いている。
「北西」MAPLay. A 

フランス中世国章 フルール・ド・リス [fleur-de-lis] (ユリの花) で、フランス語の直訳はユリの花を指すが、デザインとしてはユリ目アヤメ科のアヤメの花のを用いている。 中世フランスの時代からフランス王家の紋章として頻繁に使用されていた。
シャンボール城のテラス (11:48)
フランス職人によるフランボアイヤン*・ゴシックとイタリアルネッサンスの奇妙な融合が織りなす屋根のスペクタクル。 この塔の中には、暖炉の煙突を兼ねた塔もあり、屋根のスペクタクルに一役買っている。
「西」MAPLay. A 

フランスの後期ゴシック建築に特有の様式。 フラボアイヤン [flamboyant] は〈炎のような〉の意。 窓の上部の狭間飾の装飾が火炎を思わせる華麗な曲線を示すところから名づけられた。
シャンボール城のテラスからの眺め (11:48)
「南東」MAPLay. A 

6力所の出入り口のある全長32kmの壁に囲まれた総面積5440ヘクタールの敷地はパリ 市の大きさに匹敵し、今日、ヨーロッパ最大の森林公園となっています。 国の狩猟鳥獣保護区となっているシヤンボールには、あらゆる野生動物が自由に棲息しています。 標識により一般の立ち入りが許されている800ヘクタールに及ぶ自然遊歩道では、時折イノシシや鹿の姿を見ることができます。

出典:見学ガイド パンフレット
シャンボール城のテラスからの眺め (11:48)
「東」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:49)
「南」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:49)
「南西」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:52)
「東北東」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:53)
「北東」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:55)
「北東」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:58)
前方を横切る川は、ロワール河の支流コソン川 [Le Cosson] 。
「北西」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:58)
下に見える水面は、ロワール河の支流コソン川 [Le Cosson] から引き込んだ水堀。
「北西」MAPLay. A 
シャンボール城のテラスからの眺め (11:58)
「北東」MAPLay. A 
中庭から見上げるシャンボール城 (12:02)
「西」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (12:08)
「北西」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (12:11)
「北西」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (12:13)
「北北東」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (12:14)
「北」MAPLay. A 
Église Saint-Louis de Chambord と Secrétariat de la Mairie (12:15)
シャンボールのセント・ルイス教会 (左) と町役場の事務局 (右) 。
「南」MAPLay. A 
シャンボール城 [Château de Chambord] (12:19)
「東」MAPLay. A 



ロワール河と洞窟レストラン [Loire et Cave Restaurant]
ロワール河 [Loire] は、フランスの中央部を流れる川で、長さは1,012km、流域面積は117,000km2でフランスの面積の5分の1を占める。 中央高地に源を発し、大西洋に注ぐ。 ロワール渓谷の中部は、2000年にユネスコの世界遺産に登録された。 ロワール地方は、その風景美と恵まれた自然のために「フランスの庭」ジャルダン・ド・ ラ・フランス [Jardin de la France] と呼ばれ、 古くから多くの人びとに愛されてきた。 ロワール河流域の河岸段丘は、チューフォー [Tuffeau] とよばれる、柔らかい石灰岩石でできていて、 ここから採石された石材は、古くはローマ時代から城や教会などの建築に使用されてきた。 そのため、採掘された後には、たくさんの洞窟が残っており、現在では、 レストラン、ホテル、住居、茸栽培などに使用されている。

魅惑のワルツ [Fascination]
ブロワ大聖堂 [Blois Cathedral] (12:52)
アメデ・コンタン通り [Quai Amédée Contant] から、ロアール川越しに見るブロワ大聖堂。 ブロワの人口は約52万5千人で、対岸の町はブロワの旧市街。 因みに、ロワール川の北側は、ボーズ地方と呼ばれ、南側はソローニュ地方と呼ばれている。 北側のボーズ地方には、ボーズ平野という大きな穀倉地帯があり、そこにあるシャルトルの町には、1979年にユネスコの世界遺産に登録された有名なシャルトル大聖堂 [Cathédrale Notre-Dame de Chartres] (MAP) がある。
「北西」MAPLay. B 
ブロワ大聖堂 [Blois Cathedral] (12:52)
アメデ・コンタン通り [Quai Amédée Contant] から、ロアール川越しに見るブロワ大聖堂。 左に見える橋は、ジャック・ガブリエル橋 [Pont Jacques Gabriel] 。 嘗て、橋を架けることは技術的にも資金的にも大変なことで、橋は限られた場所にしか、架けることが出来なかった。 そのため、必然的に、人や物が橋の近くに集まり、交通や商業の中心となっていった。 領主にとっては、橋は軍事的にも重要な場所であり、また通行料として税金を徴収するのにも好都合であったため、橋を制圧できる場所に多くの城が建てられている。
「北西」MAPLay. B 
ブロワ城 [Château Royal de Blois] (12:53)
中央やや右よりの、横に長い建物は、ブロワ城。 手前の橋は、ジャック・ガブリエル橋 [Pont Jacques Gabriel] 。
14世紀の末に、ブロワはシャルル6世の弟、ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公) のものになる。 その息子シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公) は、100年戦争の中頃1415年に多数の貴族と共に捕虜となり、イングランド各地、主にウィンザー、ポンテフラクト、ウィングフィールドで幽閉された。 25年間捕虜として過ごした後、1440年に釈放され ブロワに戻ることが出来た。 49歳で老境に差し掛かっていたが、14歳の善良公の姪マリー・ド・クレーヴと3度目の結婚をして、1465年、67歳の時にブロワ城で男の子を儲ける。 この子はルイと名付けられ、ルイが2歳の時に父シャルルは死去したため、ルイは幼くしてオルレアン公位を継ぐことになる。 その後、国王シャルル8世アンボワーズ城 [Chateau d'Amboise] で誤って石の鴨居に頭をぶつけ、1498年に男系後継者なく急死すると、ルイに王位が転がり込んでくる。 ルイは1948年に即位し、ルイ12世となる。 ルイ12世も男の子が出来なかったので、 従兄の子を自分の娘と結婚させ、世継ぎにしたのがシャンボール城を造ったフランソワ1世である。 現在のブロワ城の姿は、主にルイ12世とフランソワ1世によってつくられた。
「北西」MAPLay. B 
ロワール河 [Loire] (12:53)
ジャック・ガブリエル橋 [Pont Jacques Gabriel] からの眺め。 ロワール河はローマ時代から生活に欠かせない、塩やワインの交易路、または王族の交通路として大切な役割を果たしていた。 ロワール河沿いの町も文化や商工業、またワインの産地として栄えていた。 フランスで交易路として栄えたのは、セーヌ河とロワール河だけで、フランスの歴史と文化の中心として常に重要な役割を果たしていた。
「北東」MAPLay. B 
ジャック・ガブリエル橋 [Pont Jacques Gabriel] からの眺め (12:54)
右の川縁に見える、三つの尖塔は、ブロワ・聖ニコラ教会 [Blois Église Saint-Nicolas] 。
「南西」MAPLay. B 
ショーモン・シュル・ロワール城 [Château de Chaumont-sur-Loire] (13:10)
写真中央、ロワール川左岸にそびえる、いかにも「城らしい」外観を持つ壮麗な城館。 11世紀に始まり、ブロワ伯爵のユーデス2世によって建てられた。 以来5世紀に渡ってアンボワーズ家が所有してきた。 1465年の「公益同盟*」の際、アンボワーズ家の一員がルイ11世に反逆したとして城が破壊され、1510年に円塔、角塔、跳ね橋を持つ現在の姿に建て替えられた。 だが、とりわけこの城は、アンリ2世の正妻カトリーヌ・ド・メディシスと愛人ディアーヌ・ド・ポワチエの「女の確執」の舞台として名高い。 アンリ2世没後の1560年、カトリーヌ・ド・メディシスがこの城を購入する。 そして、ディアーヌへの復讐のため、彼女とアンリ2世の思い出が残るシュノンソー城 (MAP) とこの城を強引に交換させた。 その後、城主は幾度も変わったが、1938年から国家の所有物となっている。
「南西」MAPLay. B 

フランス公益同盟とは、フランスの主要な大貴族が、百年戦争終結後に中央集権化を進めるフランス王ルイ11世に反抗して結集した同盟。
昼食は洞窟レストランで (13:27)
「東北東」MAPLay. B 
洞窟レストランへ向かう (13:27)
「北東」MAPLay. B 
洞窟レストランへ向かう (13:28)
「南南西」MAPLay. B 
洞窟レストランへ向かう (13:29)
「南」MAPLay. B 
洞窟レストラン "La Cave aux Fouées" (13:29)
「南」MAPLay. B 
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (13:29)
ロワール地方の名物、フエ [Fouée] を店名に用いた洞窟レストラン。 フエ [Fouée] は、フワス [Fouace] とも呼ばれ、フランス・ロワール渓谷の伝統料理。 ロワール渓谷のソミュール [Saumur] 、 アンジュー [Anjou] 、トゥーレーヌ [Touraine] 地方 (MAP) では 中世の時代 (MAP) に、一週間に一度、オーブンの調子をみるため、不要になったパン生地を試し焼きしていた。 その焼き上がったパン生地をフエと呼び、これを労働者達が安く買ってきて朝ご飯などとして食べ始めたのが始まりで、フエにイエット*、ベーコン、白インゲン豆、バターなどを詰めて食する食文化が生まれ、ロワール渓谷の伝統料理となった。
「東南東」MAPLay. B 

アンドゥイエットとは豚の小腸に豚の胃腸や肉を詰めたソーセージのこと。
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (13:33)
ロワール地方の名物料理、フエ [Fouée] を店名に用いた洞窟レストラン。
MAPLay. B 
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (13:34)
ロワール河流域の河岸段丘は、チューフォー [Tuffeau] とよばれる、柔らかい石灰岩石でできていて、 ここから採石された石材は、古くはローマ時代から城や教会などの建築に使用されてきた。 そのため、採掘された後には、たくさんの洞窟が残っており、当初、温度が一定であることからワイン貯蔵庫として利用されてきたが、現在では、 レストラン、ホテル、住居、茸栽培などとして利用されている。
MAPLay. B 
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (13:55)
ロワール地方の名物料理、フエ [Fouée] を店名に用いた洞窟レストラン。
MAPLay. B 
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (14:07)
ロワール地方の名物料理、フエ [Fouée] を店名に用いた洞窟レストラン。
MAPLay. B 
ラ・カーヴ・ オー ・フエ [La Cave aux Fouées] (14:14)
嘗て、採石に使用されていた道具などが展示されている。
MAPLay. B 



アンボワーズ城 [Château d'Amboise]
1437年、シャルル7世統治下に王領となって以来、8人の王がこの城の城主となった。 なかでもフランソワ1世の時代に全盛期を迎えた。 フランソワ1世はフランス・ルネサンスを高めようと、1515年12月、王の客として、城にイタリア・ルネッサンスを代表する偉人レオナルド・ダ・ヴィンチを招聘した。 彼の本業は画家だが、その才能は絵画にとどまらず、彫刻、建築、土木、科学、解剖学など、さまざまな分野に大きな足跡を残した。 彼が晩年を過ごした館が、アンボワーズの街はずれのクロ・リュセ (MAP) にある。 イタリアのルネッサンス芸術に感動したフランソワ1世の招きでこの地を訪れ、その期待に応えるべく、城の設計に没頭したダ・ヴィンチは、1519年5月2日にこの地で息を引き取り、わずか3年の滞在でこの世を去った。 享年67歳であった。 ダ・ヴィンチが埋葬されたサン・ユベール教会堂は、城に隣接しており、1491年から1496年の間に建てられた。

魅惑のワルツ [Fascination]
ロワール河の中州 "île d'Or" から見るアンボワーズ城 (14:40)
1515年12月、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランソワ1世の招きにより、ローマを去り、二人の弟子と共にフランスへ向かった際に携えた、『モナリザ』、『聖アンナと聖母子』、『洗礼者聖ヨハネ』の計三作品は、アンボワーズで没するまで、手元に残したと言われている。 因みに、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランソワ一世に招聘された際、アンボワーズ城の東南、約300mの位置にあるクロ・リュセ (MAP) の館と年金が与えられた。 文化的素養のあった フランソワ一世とダ・ヴィンチは互いに敬愛し合っていたと言われ、まだ20代前半のフランソワ一世はアンボワーズ城から通じている地下道を通って、ダ・ヴィンチの居るクロ・リュセの館をよく訪れた。 ダ・ヴィンチは、宮廷宴会の企画や多くの研究をして過ごしていたが、僅か3年の後に他界してしまう。 ダ・ヴィンチがイタリアから携え、生涯手元に残した三作品は、現在、名画として、フランスの宝となっている。
「南南東」MAPLay. B 
ロワール河の中州 "île d'Or" から見るアンボワーズ城 (14:41)
アンボワーズ城は、ロワール河の古城の中でも最も古い城で、400年間アンボアーズ家が所有していた要塞が始まり。 1434年シャルル7世がこの城を差し押さえて王領する。 15世紀末にアンボアーズ生まれのシャルル8世が城の大改修を行い、王宮に改造。 その結果、歴代のフランス王や王女達がここを居城とし、その後、ルイ12世がさらに拡張、16世紀になると一万人の臣下を随え、毎年数週間アンボアーズ城で過ごしたフランソワ1世が、この城を政界と芸術界における大舞台とした。 残念ながらフランス革命後の度重なる破壊のため、現在の城の大きさは、最初の城の五分の一程度にしか過ぎない。
「南南東」MAPLay. B 
イル・ドール [île d'Or] ら見るアンボワーズ城 (14:41)
「南南東」MAPLay. B 
イル・ドール [île d'Or] ら見るアンボワーズ城 (14:41)
「南南東」MAPLay. B 

1560年に起こったアンボワーズ城の大虐殺

『1560年、フランス中でカトリックとプロテスタントとの間で、宗教戦争の嵐が吹き荒れ、多数の新教徒 (プロテスタント) が弾圧され処刑された頃。  新教徒の一党が秘かに、この地域に集まり、旧教徒 (カトリック) の首領ギーズ公(後にブロワ城で暗殺されることになるギーズ公の父)を殺害しようと企てた。  だが、仲間から密告者が出て、逆に1500人あまりが次々に捕らえられ、アンボワーズ城に連行された。 ギーズ公は自分に対する殺害計画を、国王に対する反逆であるかのように言いくるめ、病身の若い国王フランソワ2世に迫って全員の処刑を命令させた。 ギーズ公は王妃メアリー・スチュアートの伯父でもあり、この時は絶大な権力を振るっていたので、新旧両教徒の和解を図っていた母后カトリーヌ・ド・メディシスでさえどうする事も出来なかった。 首謀者は四つ裂き、身分のある者は斬首。 その他の大勢の者は城館のテラスや城壁の狭間から吊り下げられた。 手足を縛って城の庭に転がし、重い石を積んだ馬車で轢殺すという無残な殺し方も行われた。 なにせ捕らえた者が大勢だから吊り下げる所も、轢殺す余地も無くなり、城壁の上から突き落としたり、手足を縛ってロワール川で溺死させたりした。 城の内外は死骸であふれ、死人の括約筋が緩んで排泄された糞と血の臭いとが充満。その死臭で息も詰まるほどであった。 17歳の国王と18歳の王妃はギーズ公に強要され、母后や廷臣達と共にこの凄惨な大量処刑を初めから終わりまで見させられた。』

出典:フランスワインの歴史 (ロワール古城歴史散歩)
イル・ドール [île d'Or] ら見るアンボワーズ城 (14:42)
「南南東」MAPLay. B 
イル・ドール [île d'Or] ら見るアンボワーズ城 (14:43)
「南」MAPLay. B 
レオナルド・ダ・ヴィンチ [Léonardo de Vinci] の銅像 (1923年) (14:44)
ロワール河の中州には、アンボワーズ城のよく見える位置に、古代の神の装いをしたレオナルド・ダ・ヴィンチ像が置かれている。
「北東」MAPLay. B 

 プレートには、OEuvre du sculpteur italien Amleto Cataldi , représentant Léonard de Vinci sous les traits d'un dieu antique.
『イタリアの彫刻家アレッテ・カタルディ [Amleto Cataldi] の作品。 レオナルド・ダ・ヴィンチ [Leonardo da Vinci] を古代の神の装いで表現*しています。』
Don de République de Saint-Marin à la France en 1935 OEuvre mise en dépôt à Amboise par la Ville de Paris en 1976.
『1935年にサン・マリノ共和国からフランスに贈られた作品は、1976年にパリ市によってアンボワーズに預けられました。』と記されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチの左腕の下にある頭部が、メドゥーサの切断された頭部だとすると、ギリシャ神話に登場するペルセウスに準 (なぞら) えたものと思われる。
ロワール河の中州 "île d'Or" から見るアンボワーズ城 (14:44)
「南」MAPLay. B 
イル・ドール [île d'Or] ら見るアンボワーズ城 (14:45)
「南」MAPLay. B 
ロワール河の中州 "île d'Or" から見るアンボワーズ城 (14:47)
嘗て、橋を架けることは技術的にも資金的にも大変なことで、橋は限られた場所にしか、架けることが出来なかった。 そのため、必然的に、人や物が橋の近くに集まり、交通や商業の中心となっていった。 領主にとっては、橋は軍事的にも重要な場所であり、また通行料として税金を徴収するのにも好都合であったため、橋を制圧できる場所に多くの城が建てられている。
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モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel]

歴史アヴランシュのオベール [Aubert d'Avranches] により大天使を奉る聖堂がトンブ山に建設された708年、モン・サン・ミッシェルの長い歴史が始まりました。 トンブ山は間もなく大規模な巡礼地となり、10世紀にはベネディ外会の修道僧がそこに居を構えるようになる一方、山の下方に向かって村が広がっていき、14世紀には岸壁にまで至っていました。 英国との100年戦争の際にも遂に侵攻されることのなかったモン・サン・ミッシェルは、同時に軍事建築の代表例であるともいえましよう。 英国の攻撃を完璧に防御した防壁や要塞を構えるモン・サン・ミッシェルは、フランス国家のアイデンティティーを象徴しているといえます。 フランス革命による修道会の散会から1863年までの間、修道院は監獄として使用されました。 1874年、歴史建造物に指定され大がかりな修復工事が始められて以来、現在でも工事が続いています。 この修復エ事により、中世の人々が地上に具現された天空のエルサレム、天国の象徴とみなしていた素晴らしい修道院を皆様に見学していただけます。 1979年よりモン・サン・ミッシェルはユネスコの世界文化遺産に指定されています。

(出典:入場パンフレット)

蒼いノクターン
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (19:07)
ホテルのロビー。
「北」MAPLay. C 
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (19:08)
ホテルのロビー。
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宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (19:11)
ホテルの裏手から見るレストラン。 このレストランからモン・サン・ミッシェルを見ることが出来る。
「南」MAPLay. C 
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (19:12)
ホテルの裏手から見るレストラン。 このレストランからモン・サン・ミッシェルを見ることが出来る。
「東」MAPLay. C 
Le Relais Saint Michel の宿泊ルーム (19:29)
窓からモン・サン・ミッシェルを見ることが出来る。
「北」MAPLay. C 
Le Relais Saint Michel の宿泊ルーム (19:29)
窓からモン・サン・ミッシェルを見ることが出来る。
「北北西」MAPLay. C 
ホテルの裏庭 (19:32)
「南」MAPLay. C 
ホテルの裏庭 (19:33)
「南」MAPLay. C 
ホテルの裏庭 (19:33)
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ホテルの裏庭 (19:35)
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ホテルの裏庭 (19:37)
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ホテルの裏庭 (19:37)
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遊歩道の新プロムナードデッキからの景観 (19:40)
モン・サン・ミッシェルのダム [Barrage du Mont Saint Michel] 上には、遊歩道デッキが設けられている。
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ホテルのレストランで夕食 (19:49)
モン・サン・ミッシェルを眺めながらの食事。
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前菜は名物のオムレツ (20:21)
モン・サン・ミッシェルのオムレツの始まりは、モンサンミッシェルが孤島に建てられているため、島の行き来は潮の満ち引きで制約されていた。 そのため、簡単で、すぐに作れるオムレツを思いつき、当時の巡礼者に提供された。 巡礼者達はそのオムレツで腹ごしらえし、旅の疲れを癒したと言われている。
MAPLay. C 



主菜は肉料理 (20:33)
モン・サン・ミッシェルでもう一つ有名なのは、「Agneau de pré-salé*(塩草原の仔羊)」と呼ばれる仔羊肉。 潮をかぶった牧草を食べて育った仔羊たちは、単に塩化ナトリウムだけでなく、他のミネラルや海洋生物が生成した多くの有機物を摂取している。 そのため、仔羊肉の美味しさは、増すと言われている。
MAPLay. C 

agneauは (仔羊) 、préは (草原) 、saléは (塩) を意味する。
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (22:19)
ノルマンディーブルターニュ地方の境の、遠浅の海に浮かぶ小島がユネスコ世界遺産のモン・サン・ミッシェル。 周辺は潮の干満か激しく、時速10kmで18kmも海岸線が後退することもあるという。 満潮になるとモン・サン・ミッシェルは「海に浮かぶ孤島」となる。 しかし近年、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)のせいで周辺に大量の砂が堆積し、かつての孤島の景観が失われつつある。 そのため、近年中に道路を取り壊し、代わりに長い橋を架ける工事が進行中。 観光客は車で島へ入ることはできず、ナベット (Navette) と呼ばれるシャトルバスを利用して島へ向かう。
「北北西」MAPLay. C 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (22:21)
Montは (山) 、Saintは (聖人) を意味する。 Michelは聖人の名前。
1979年に、ユネスコの世界文化遺産に指定されたモン・サン・ミッシェルは、日本の代表的な聖地、厳島(宮島)を有する広島県廿日市市と観光友好都市提携を結んでいる。  因みに、厳島神社は、1996年に世界遺産に登録されている。
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モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (22:26)
古くはケルト人から「墓の山」と呼ばれ、信仰の対象とされていた。 8世紀、ノルマンディー司教オベール [Évêque de aubert] が、大天使ミカエル(仏語でミッシェル)のお告げを受け、この地に礼拝堂を建てた。 だが、初めはこれを悪魔のいたずらだと思い、お告げを無視してしまったため、罰として大天使ミカエルによって頭蓋骨に穴を開けられてしまったといわれている。 以来、時代を追って増改築が行われ、11世紀にはロマネスク様式の大聖堂と修道院が、13世紀にはゴシック様式の回廊と食堂か造られ、次第に巡礼地として栄えるようになった。
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モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (22:46)
「北」MAPLay. C 

中世の宗教的観念において天使の軍団長である大天使ミカエル (サン・ミッシェル) は大きな影響を及ぼした。 新約聖書において大天使ミカエル (サン・ミッシェル) はヨハネの黙示録に登場し、悪魔の象徴である竜と戦いそれを打ち倒す。 来世への不安を抱えながら生きていた中世の人々にとって大天使ミカエル (サン・ミッシェル) は、死者を導き、最後の審判を迎えた日の魂を癒すとされていた。 4世紀以来ローマ帝国に幅広く行き渡っていたこの大天使ミカエル (サン・ミッシェル) に対する崇拝は、492年、イタリアのガルガーノ (サンタンジェロ) 山に「大天使聖ミカエルのバシリカ(聖堂)」が建設されたのをきっかけとしてヨーロッパへ浸透し始め、1000年頃には大天使ミカエル (サン・ミッシェル) を奉った教会やチャぺルがヨーロッパ各地の特に丘や台地に頻繁に建設された。 英国との100年戦争が終わり、山を守り続けたという事実も手伝い、大天使ミカエル (サン・ミッシェル) への崇拝観念は特殊な次元を持つようになった。 また反宗教改革をきっかけとして、カトリック教会にとってプロテスタントに対抗できるのは天使の軍団のみであるという新しい観念も生まれた。 キリスト教に関連した書物の中で大天使ミカエル (サン・ミッシェル) はよく剣と秤を持った姿で描かれている。 鐘塔の上に突き出るようにして立つ大天使ミカエル (サン・ミッシェル) 像には、大天使としての伝統的特性を見い出すことができる。 この像は1897年、32mにおよぶ新しい尖塔を飾るため、建築家ヴィクトル・プティグランの要請により彫刻家エマニュエル・フレミエ(Emmanuel Frémiet, 1824 - 1910)によって製作された。


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