旅の栞 (フランス)

5月29日

パリ [Paris]
パリ市内車窓観光
シャイヨー宮 [Palais de Chaillot]
ルーヴル美術館 [Musée du Louvre]

ガルニエ宮 (オペラ座) [Palais Garnier]
エッフェル塔 [La tour Eiffel]

セーヌ河クルーズ [Croisière sur la Seine]
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro]
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile]
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées]

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/france/newpage8.html

back home next

コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] で朝食を済ませ、パリ市内観光へ向かう。
ホテルでの朝食 (07:50)
「東北東」MAPLay. A
ホテルでの朝食 (07:59)
「南西」MAPLay. A
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] (08:01)
古きよき時代の面影を残す老舗ホテル。 1889年のパリ万博に合わせて開業され、重厚に金を配した吹き抜けロビーは文化遺産に指定されている。
「南東」MAPLay. A
サン・ラザール駅 [ Gare Saint Lazare] (08:33)
ホテル "コンコルド・オペラ・パリ" の5階 (ヨーロッパでは4階) *からの眺め。
「西北西」MAPLay. A

ヨーロッパや香港、マカオにおいては、地面の直上の階を地上階(英: ground floor, G, エレベータでの表示は0とすることもある)と言い、そこから上に向かって順に1階(first floor, 1F)、2階(second floor, 2F)と数える。
サン・ラザール駅 [ Gare Saint Lazare] (08:33)
ホテル "コンコルド・オペラ・パリ" の5階 (ヨーロッパでは4階) *からの眺め。

サン・ラザール駅は、パリのターミナル駅で一番古い歴史を持つ駅で、1837年8月26日に開業された。 しかし、今日の外観になったのは、1889年の万国博覧会を機に、1885年から1889年にかけて、大規模な拡張工事が行われて後である。 それと並行して、万国博覧会への来場者を歓迎するため、1889年にホテル "コンコルド・オペラ・パリ" も、"Grand Hotel Terminus" という名前で開館された。 その後、1972年には "コンコルド・オペラ・パリ" に改名されている。 駅とホテルは、共に西鉄道会社を代表して、建築家 "Juste Lisch" によって設計され、駅とホテルは橋廊で結ばれていたが、現在は使用されていない。
「北東」MAPLay. A

ヨーロッパや香港、マカオにおいては、地面の直上の階を地上階(英: ground floor, G, エレベータでの表示は0とすることもある)と言い、そこから上に向かって順に1階(first floor, 1F)、2階(second floor, 2F)と数える。



パリ市内車窓観光
バスの車窓からの撮影。

  パリのめぐり逢い
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (09:21)
フランスのパリにある19世紀美術専門の美術館で、印象派の画家の作品が数多く収蔵されていることで有名。
「南南西」MAPLay. A
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (09:21)
美術館の建物は、1900年のパリ万博のためにヴィクトール・ラルー [Victor Laloux] がオルセー駅として建設したもの。 1986年に美術館として模様替えされ、1848年から1914年までの絵画、彫刻など印象派の作品を中心に、フランスの「古き良き時代」を掘り起こしている。 ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、ドガ、マネ、モネ、ルソー、ロダンなどの名画が展示されている。 会館は9:30AM。
「南南西」MAPLay. A
ブルボン宮殿(国民議会議事堂) [Palais Bourbon] (09:24)
1795年の総裁政府成立により五百人会にこのブルボン宮殿の建物が割り当てられてからは、国民議会(下院)の議事堂として使用されている。
「南西」MAPLay. A
ブルボン宮殿(国民議会議事堂) [Palais Bourbon] (09:24)
1720年代、ルイ14世の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ドゥ・ブルボンが、近しい仲だったラッセイ伯アルマン・ド・マダイヨン・ド・レスパールの提案を受け、1722年から1728年の6年ほどの期間をかけて建設した。 1795年から議事堂として使われている。
「南西」MAPLay. A
コンコルド橋 [Pont de la Concorde] からの眺め (09:25)
前方の橋は、アレクサンドル3世橋 [Pont Alexandre Ⅲ] 。
「東南東」MAPLay. A
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (09:26)
凱旋門とルーヴル宮を結ぶ一直線上にある、パリ随一の眺望を誇る広場。 ルイ15世の騎馬像を飾る目的で「ルイ15世広場」として1775年に完成。 大革命勃発後はギロチン台が置かれ、ルイ16世やマリー・アントワネットなど1343人の命がここに消えた。 その後、広場の名称はコンコルド(調和)と改められた。 現在、広場の中央には、1833年にエジプトから贈られたルクソー神殿のオベリスクが建つ。 その左右に置かれた噴水上の女神像8体は、フランスの8大都市を象徴している。
「西北西」MAPLay. A
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (09:27)
フランス革命時の名称は「革命広場」。 ギロチン台が置かれ、 1343人がここで処刑された。 「調和 (コンコルド) 広場」と改称された現在は、 飢旋門やエッフェル塔などパリを象徴する風景を見渡せる開放的な空間となっている。 現在、広場の中央には、1833年にエジプトから贈られたルクソー神殿のオベリスクが建つ。 その左右に置かれた噴水上の女神像8体は、フランスの8大都市を象徴している。
「南南西」MAPLay. A
シャンゼリゼ通りから見るグラン・パレ [Grand Palais] (09:29)
シャンゼリゼ通りから見るフランスのパリ8区にある大規模な展覧会場・美術館。 1900年のパリ万国博覧会のために建てられた。
「南西」MAPLay. A
シャンゼリゼ通りから見るグラン・パレ [Grand Palais] (09:29)
プティ・パレアレクサンドル3世橋と同時期に建てられており、4人の建築家が設計に関わった。
「南西」MAPLay. A
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile] (09:35)
前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まり、ルイ・フィリップの王政復古時代、1836年に完成した。 ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年12月15日にセントヘレナ島から戻ったナポレオンの遺体がアンヴァリット (MAP) に改葬された時であった。 この門の設計はシャルグラン [Jean-François-Thérèse Chalgrin] で、高さが50m、幅45mある。 古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。 エトワール凱旋門の真下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。  (MAP)
フランスでは第一次世界大戦の方が、死傷者は多かった。
「西南西」MAPLay. A
エトワール凱旋門のレリーフ (09:35)
アウステルリッツの戦い [La bataille d'Austerlitz] (1805.12.2) ジーン・フランソワ・テオドール・ゲヒター [Jean-François-Théodore Gechter] 作。
「南南西」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「南」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「南東」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「南東」MAPLay. A
エトワール凱旋門のレリーフ (09:36)
右門柱:抵抗 [La Resistance] (1814) アントワーヌ・エテックス [Antoine Étex] 作。 左門柱:平和 [La Paix] (1815) 」アントワーヌ・エテックス [Antoine Étex] 作。
「東南東」MAPLay. A
エトワール凱旋門のレリーフ (09:36)
左上:アレキサンドリアの奪還 [Prise d'Alexandrie] (1789.7.3) ジョン・エティエンヌ・チャポニエール [John-Étienne Chaponnière] 作。 右上:Arcoleの橋の通過 [Le passage du pont d'Arcole] (1796.11.15) ジャン・ジャック・フーシェール [Jean-Jacques Feuchère] 作。
「東」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「東北東」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「東北東」MAPLay. A
エトワール凱旋門のレリーフ (09:36)
Jemmappesの戦い [La bataille de Jemmappes] (1792.11.6) カルロ・マロケッティ [Carlo Marochetti] 作。
「北東」MAPLay. A
エトワール凱旋門 (09:36)
「北」MAPLay. A



シャイヨー宮 [Palais de Chaillot] から望むエッフェル塔
パリのシンボルとも言えるエッフェル塔は、1889年のパリ万国博覧会に革命100周年を記念して建造された。 白い石造りの建物が多い街並みに突如現れた鉄製の巨大モニュメントは、当時はかなりセンセーショナルだったようで、街の景観を壊しかねないと強い批判を浴びた。 20世紀に入ってからはラジオやテレビのアンテナ塔としても利用され、今では欠かせない観光名所となっている。

  パリのめぐり逢い
トロカデロ広場 [Place du Trocadéro] (09:50)
手前はトロカデロ広場。 ナポレオン追放後の復古王政期の1824年、フランス王国軍の「トロカデロの戦い」において、スペインのトロカデロ (MAP) の砦を占領し、勝利したことを記念して、丘一帯は "トロカデロ" と名付けられ、エコール・ミリテール(陸軍士官学校) (MAP) 、シャン・ド・マルス公園 (MAP) 、イエナ橋 (MAP) から直線上に繋がるシャイヨ一帯の大規模建築造成活動が実施され、その際、トロカデロ広場と名付けられた。 しかし、大規模建築造成は完成を見なかった。
「南東」MAPLay. A
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro] (09:51)
手前はトロカデロ広場。 ナポレオン追放後の復古王政期の1824年、フランス王国軍の「トロカデロの戦い」において、スペインのトロカデロ (MAP) の砦を占領し、勝利したことを記念して、丘一帯は "トロカデロ" と名付けられ、エコール・ミリテール(陸軍士官学校) (MAP) 、シャン・ド・マルス公園 (MAP) 、イエナ橋 (MAP) から直線上に繋がるシャイヨ一帯の大規模建築造成活動が実施され、その際、トロカデロ庭園と名付けられた。 しかし、大規模建築造成は完成を見なかった。 その後、1876年建造の旧トロカデロ宮殿が取り壊され、新宮殿である現在のシャイヨ宮が建てられた。
「南東」MAPLay. A
トロカデロ広場 [Place du Trocadéro] から望むエッフェル塔 (09:51)
「南東」MAPLay. A
トロカデロ広場 [Place du Trocadéro] (09:53)
手前はトロカデロ広場。 ナポレオン追放後の復古王政期の1824年、フランス王国軍の「トロカデロの戦い」において、スペインのトロカデロ (MAP) の砦を占領し、勝利したことを記念して、丘一帯は "トロカデロ" と名付けられ、エコール・ミリテール(陸軍士官学校) (MAP) 、シャン・ド・マルス公園 (MAP) 、イエナ橋 (MAP) から直線上に繋がるシャイヨ一帯の大規模建築造成活動が実施され、その際、トロカデロ広場と名付けられた。 しかし、大規模建築造成は完成を見なかった。
「南西」MAPLay. A
シャイヨ宮 [Palais de Chaillot] (09:53)
16世紀後半の1583年、シャイヨの丘にフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスが館ないし離宮を建造したのが起こり。 ナポレオン追放後の復古王政期の1824年、フランス王国軍の「トロカデロの戦い」において、スペインのトロカデロ (MAP) の砦を占領し、勝利したことを記念して、丘一帯は "トロカデロ" と名付けられ、シャイヨ一帯の大規模建築造成活動が実施された。 しかし、大規模建築造成は完成を見ることは無く、1937年、パリ万国博覧会にあわせ、1876年建造の旧トロカデロ宮殿が取り壊され、新宮殿である現在のシャイヨ宮が建てられた。
「北西」MAPLay. A
シャイヨ宮 [Palais de Chaillot] から望むエッフェル塔 (09:55)
「南東」MAPLay. A



ルーヴル美術館 [Musée du Louvre]
フランス王フィリップ2世が1190年にパリの城砦として建設し、1546年よりフランソワ1世の統治下のもと、宮殿へと姿を変えた。 ダ・ヴィンチはイタリアからフランスへ招聘*され、宮廷画家として滞在していたのもこの時代であった。 1678年、ルイ14世が権力の中心をヴェルサイユに移すまで王宮として使われていた。 美術館計画が始まったのは1793年、フランス革命後のことであった。 1546年から1678年までの、王室美術品コレクションを基盤に整備し、ナポレオンが戦利品として持ち帰った美術品を加え、1803年にナポレオン美術館 [Musée Napoléon] の名でオープンした。 1982年にはミッテラン大統領の「大ルーヴル整備」という近代化を目的とした計画が始まり、1989年にガラスのピラミッドが誕生した。 1993年、かつて大蔵省だったリシュリュー翼が加わり、現在の空間が完成した。 

ダ・ヴィンチはローマを去り、二人の弟子と共にフランスへ向かった際に携えた、〖モナ・リザ〗、〖聖アンナと聖母子〗、〖洗礼者聖ヨハネ〗の計三作品は、アンボアーズ [Amboise] (MAP) で没するまで、手元に残したと言われている。 これらの絵は、現在、名画としてフランスの宝となっている。

薔薇色の人生
地階に展示されているルーブル美術館の模型 (10:24)
MAPLay. A
ピラミッドの下にあるナポレオン・ホール [Hall Napoléon] (10:44)
1981年、来館者の受け入れ態勢を改善するべく、美術館の中央入口を改修する決定が下された。 そうして1989年以来、ペイ*のピラミッドの下には大きな 中央入口ホール (ナポレオン・ホール) が広がっている。
MAPLay. A (館内見取図)

イオ・ミン・ペイ [Ieoh Ming Pei] は、20世紀のアメリカを代表する中国系アメリカ人建築家。 I・M・ペイと表記されることが多い。 漢名は貝 聿銘。  ルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した建築家として広く知られる。
ルーヴル・ピラミッド [Pyramide du Louvre] (10:45)
このガラスは特殊ガラスで、このガラスを造ったのはヴェルサイユ宮殿の "鏡の間" (1686年完成) の鏡を造った工場と同じ工場で造られている。 日本では、徳川綱吉の時代に当たり、実に300年以上の歴史を持つ会社が製造している。 「太陽王」と言われたルイ14世の意向で、このガラがフランスで造られるようになり、そして、芸術と伝統を重んじるフランスは、ルーヴル・ピラミッド (1989年に完成) にも、この伝統を持つ会社サンゴバン [Saint Gobain] *のガラスを用いている。 設計者は、イオ・ミン・ペイ [Ieoh Ming Pei] 。
MAPLay. A (館内見取図)

サンゴバンは日本がまだ江戸時代だった1665年に、フランスの王立鏡面ガラス製作所として設立。 ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」やルーヴル美術館の「ピラミッド」、アメリカ・ニューヨークのシンボルである「自由の女神」などに、サンゴバン [Saint Gobain] の鏡やガラスが使われており、世界で最も長い歴史を持つメーカー。
ピラミッドの下にあるナポレオン・ホール [Hall Napoléon] (10:45)
1981年、来館者の受け入れ態勢を改善するべく、美術館の中央入口を改修する決定が下された。 そうして1989年以来、ペイ*のピラミッドの下には大きな 中央入口ホール (ナポレオン・ホール) が広がっている。
MAPLay. A (館内見取図)

イオ・ミン・ペイ [Ieoh Ming Pei] は、20世紀のアメリカを代表する中国系アメリカ人建築家。 I・M・ペイと表記されることが多い。 漢名は貝 聿銘。  ルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した建築家として広く知られる。
彫刻家ジャン・グージョン [Jean Goujon] の作品 (1560-1564) (10:47)
司祭の助手と自分自身の目を穿刺するザレウコスの息子 [L'Aide du sacrificateur et le fils de Zaleucus se crevant un oeil] 。

ザレウコス [Zaleucus] は、紀元前7世紀中頃に活躍したイタリア南部ギリシア植民市ロクリスの立法者で、古代ギリシア最古の成文法であるロクリス法 [the Locrian Code] を成立させた人物であるとされている。 ザレウコスは社会的衝突の調停者としても有名であった。

逸話
『ザレウコスは両目を潰すことによって姦通罪を罰していたが、彼の息子がこの刑罰に処された時、ザレウコスは自分の息子を無罪放免にすることを許さず、自分自身の片目を潰すことによって、息子の片目を救った。』
MAPLay. A (館内見取図)
彫刻家ジャン・グージョン [Jean Goujon] の作品(1560-1564) (10:49)
自分自身の片目を潰す、ザレウコス [Zaleucus] 。

Jean Goujonは有名な彫刻家で、イタリアのミケランジェロに比肩する彫刻家。 "館長さん"がこの作品を最初に出しているのは、それなりの思い入れがあるのでしょう?
MAPLay. A (館内見取図)
彫刻家ジャン・グージョン [Jean Goujon] の作品(1560-1564) (10:49)
ローマの慈愛 [La Charité romaine] 。

物語
『飢えによる死刑判決を受け、獄中にいる父親キモン [Cimon] の下を、授乳中の娘であるペロ [Pero] が訪ね、秘密裏に自分の乳を与えていた。 彼女は看守によって見つけ出されるが、無私の行為は模範的であるとの印象を役人に与え、父親の解放を勝ち取る。』
MAPLay. A (館内見取図)
アンリ2世の階段 [Escaliers d'Henri II] (10:52)
アンリ2世の階段は、ルネサンス期につくられた大階段で、王の部屋に上がるために毎日大勢の宮廷人がこの階段を使っていた。 この階段の天井彫刻もジャン・グージョン [Jean Goujon] の作品で、国王アンリ2世 [Henri 2] の「H」のモノグラムが、狩猟の女神ディアーナのシンボル(鹿や他の動物の頭)と隣り合って彫られている。 狩りが王のお気に入りの娯楽の一つであったことが窺える。 中世期の階段がまったく機能的なものであったのに対し、ルーヴルの新しい階段は、1階の祝宴の間(カリアティードの間)と上階の君主の住居(七暖炉の間)とをつなぐ、華々しい場所であった。
MAPLay. A (館内見取図)
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:55)
1547年以降、中世のルーヴルは徐々に近代的な宮殿へと姿を変えていき、その中心となっていたのが、カリアティードの間。 1658年10月24日、モリエールがルイ14世の前ではじめて芝居を上演したのもこの広間だった。

この部屋は、16世紀に建築家ピエール・レスコ [Pierre Lescot] がルネサンス様式らしく建設した翼の1階に位置する、ルーヴルで一番古い部屋 (日本では室町時代にあたる) 。 入口の上にはバルコニーがあり、その上に、ブロンズ像〖フォンテーヌブローのニンフ〗が飾られている。 横たわっている "ニンフ" [Nymph] のモデルはアンリ2世の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエ [Diane de Poitiers] だと言われている。 この間はダンスバーティーの間とも呼ばれ、バルコニーはダンスパーティー用の音楽隊席として使用されていた。 バルコニーを支える4本の柱には ジャン・グージョン [Jean Goujon] 作の女像彫刻 (1550年) が施されており、カリアティード (女像柱) はこの柱に因んだ名称。 現在ではローマン・コピー〔ローマ時代の複製品〕が収められているが、もとになったギリシアの作品は大昔に失われている。 因みに、カリアティードがフランスで使われたのは、このときが初めてで、国宝に指定されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:57)
この部屋はダンスパーティーなどの楽しみの為だけではなく、他の用途にも使われていた。 入口の反対側には、円柱で隔てられ、重厚な暖炉が置かれた場所があるが、ここは「裁きの場」として国王が裁判を行っていた場所。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:58)
〖Enfant à l'oie 〗子供とガチョウ。 紀元前2世紀のギリシャ原作のローマンコピー*(第1-2世紀CE)。 大理石像は、ローマから遠くないアッピア街道の近くのQuintiliヴィラで発見された。 他のコピーは現在、ミュンヘンのGlyptothekバチカン美術館に展示されている。

ギリシア彫刻古代ローマにおける模刻は特にローマンコピーと呼ばれる。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:59)
〖アルテミスと雌鹿 〗教皇パウロ4世よりアンリ2世に贈られたこの作品は、フランスに渡った初の古代彫像のうちの一つ。 ローマ人にディアナとよばれたこの女神は、ここでは雌鹿に伴われている。 ギリシア語ではアルテミスで知られるこの人物は、アポロンの双生児(ギリシャ神話では姉、ローマ神話では妹とする説もある)、気の強い処女、疲れを知らない狩人であり、その特徴は、男性の陵辱を罰する事にある。 この彫像はレオカレス*に帰属する紀元前4世紀のギリシャ・ブロンズ像に着想を得ている。 この作品は大理石で作られており、自立のため、鹿の腹部を木の幹で支える作りになっているが、オリジナルのブロンズ像では、この幹は無かったと推測される。 この像は、複製され、鋳造され、模倣されて、近代ヨーロッパにおいて、版画、ビスク (素焼き磁器) 、小型ブロンズ像のかたちで増加していった。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)

紀元前350年頃にアテネで活躍した古代ギリシアの彫刻家。
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:59)
〖Apollon lycien〗Pythonモンスターのアポロ勝者、いわゆる "Apollon Lycian"タイプ*。 西暦130〜150年頃、アテネ(ギリシャ)のリセ [Lycée] のギュムナシオン [Gymnasium] に飾られていたオリジナルは、紀元前300年頃に創作されたと考えられている。 これら2つのアポロ像は、スミルナ・スタジアム(現在イズミル、トルコ) (MAP) の遺跡から1680年前に発見された。 この像は、パイソンに勝利した後、リラックスした "Apollon" をモチーフにしている。 ローマ時代の、この2つの作品は、紀元前330年頃にアテネで創造されたギリシャの原作を再現している。 このタイプの彫像は、一つはイタリアから、もう一つはスミルナ(現在イズミル、トルコ)から古代の間に広まっていった。 この作品は、ペンテリックマウンテン大理石で造られている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)

〖Apollon lycien〗は、一般にプラクシテレスの作品と考えられている。  "Lycian" の語源は、失われた作品をアテナイのギュムナシウム(体育場、Gymnasium)の1つ、リュケイオン (リセ) で見たと叙述したルキアノス(Lycian)に由来している。
カリアティード [Cariatide] の広間 (10:59)
〖Borghese Venus〗 ボルゲーゼのヴィーナスと呼ばれ、2世紀頃ローマで制作。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトが、ボルゲーゼ家の多くの美術品をフランスに持ち出し、ルーヴル美術館に移してしまうという事件があった。 ボルゲーゼコレクションのヴィーナスは、髪型や手足の位置はカピトリーノのヴィーナス [Capitoline Venus] と共通しているが、脇の補強部分が”壺と布”から”天使とイルカ”に変更されている。 このタイプの彫像は、紀元前4世紀にプラクシテレス [Praxiteles] によって作られたクニドスのアプロディーテーのものから派生したものと考えられている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 17)
アフロディテ像 (通称:ミロのヴィーナス) [Vénus de Milo] (11:01)
当時トルコ領だった、ミロス島の現在の村Tripiti (MAP) で、1820年4月8日、Milosの古代都市の遺跡 (古代劇場の遺跡) (MAP) の中に埋められていたヴィーナス像がギリシア人農夫ヨルゴス・ケントロタス [Yorgos Kentrotas] によって発見された。 彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を別の場所に隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。 後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使のリビエール侯爵に購入を頼み込んだ。 フランス政府は、トルコ政府からの買い上げ交渉を進めながら、自ら発掘を行った。 発掘後は修理され、1821年にルイ18世に献上された。 ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在もここで管理されている。 ギリシア彫刻の黄金時代である紀元前5~4世紀頃への憧憬を込めて製作されたヘレニズム時代の傑作で、紀元前100年頃に制作されている。 因みに、この部屋はルイ14世の母、アンヌ・ドートリッシュ [Anne d'Autriche] の浴室であった場所。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 16)
アフロディテ像 (通称:ミロのヴィーナス) [Vénus de Milo] (11:01)
フランスの海軍将校Olivier Voutierが若い農民の助けを借りて"Venus de Milo"を発見したとも言われているが、諸説有り定かではない。 作者は紀元前130年頃に活動していた彫刻家、アンティオキアのアレクサンドロスと考えられているが、彼の生涯については殆ど分かってない。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 16)
マルスのロトンド [Rotonde* de Mars] (11:06)
嘗て、骨董品博物館の入口だった "マルスのロトンド" (軍神の円形広間) の天井には、煌びやかな浮彫や彫刻で彩られたジャン=サイモン・ベルテルミ [Jean-Simon BERTHÉLEMY] 作 (1802) の天井画がある。 しかし、 非常に劣化したため1826年にジャン=バティスト・ムゼイサ [Jean-Baptiste MAUZAISSE] によって改装されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)

Rotondeは、ドーム内部、及び外部円形の建物を意味する。
マルスのロトンド [Rotonde de Mars] (11:07)
Rotonde de marsは、建築家Louis Vauによって設計され、もともと、アンヌ・ドートリッシュ (ルイ14世の母) の夏のアパートメント*と彼女の冬のアパートメントをつなぐ通路で、サロンを兼ねた造りになっていた。 (1655年-1658年)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)

宮殿などで特定の人・グループのための、広くて立派な部屋。
マルスのロトンド [Rotonde de Mars] の天井画 (11:07)
〖L'Homme formé par Prométhée et animé par Minerve〗 (プロメテウスによって形成され、ミネルヴァによって生気を与えられた男) 。

1801年に依頼され、1802年にこの部屋がアンティーク美術館の入り口になった時に描かれた天井画。 ジャン=サイモン・ベルテルミ [Jean-Simon BERTHÉLEMY] 作 (1802) の天井画で、ギリシャ神話では、プロメテウス [Promētheus] は、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。 またアテーナーの下で人間を創造したとも言われている。 1826年に、非常に劣化したためジャン=バティスト・ムゼイサ [Jean-Baptiste MAUZAISSE] によって改装されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
マルスのロトンド [Rotonde de Mars] (11:07)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
マルスのロトンド [Rotonde de Mars] (11:07)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
マルスのロトンド [Rotonde de Mars] (11:07)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
エトルリア、1976 [L'Etrusco,1976] (仏名タイトル) (11:07)
ミケランジェロ・ピストレット [Michelangelo Pistoletto] の作品。

イタリア北部の町ビエッラの生まれ。 絵画修復家だった父のアトリエで手伝いを始め、14歳の時に自画像を描いたことが芸術人生のスタートとなった。 自らのアンデンティティを追求しようと描き出した自画像だったが、それには自分だけでなく、自分を取り巻くものも知らなければと考え、自画像の周囲の空間に興味を持った。 自画像の背景は銀、金、銅と変化していき、光沢のある黒を背景にしたとき、そこに反映が現れるのを見た。映り込む世界との対比の中、自らのアイデンティティを理解することができた。 この体験が《ミラー絵画》の概念に結びつく。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
出典:http://www.praemiumimperiale.org/ja/component/k2/pistoletto
エトルリアは鏡をつかむ [Etruscan Holding Up A Mirror] (英名タイトル) (11:07)
ミケランジェロ・ピストレット [Michelangelo Pistoletto] の作品。

ルネサンスの時代から「絵画は鏡のようなもの」といわれてきたが、鏡そのものに絵画を描く発想をしたのは、ピストレットが初めてとみられている。丁寧に磨き上げられ、鏡面になったステンレス板に人物などを描いた《ミラー絵画》で、世界的に有名になった。 鏡面には作品を見る人や周囲の空間が映り込み、描かれたモチーフとぴったり一体化する。 時間と空間が固定されたそれまでの絵画とは異なり、《ミラー絵画》では過去と現在、二次元と三次元が混じり合う。 現実と創造されたイメージが交錯し、対比される表現は、彼のその後の作品や芸術理論の根底となる。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 5)
出典:http://www.praemiumimperiale.org/ja/component/k2/pistoletto
チェルヴェテリの夫妻の棺 [Sarcofago degli Sposi] (11:10)
棺、または納骨容器である、この素晴らしい巨大な作品は、アルカイック時代、粘土彫刻にて有名な都市、エトルリアカエレ [Caere] *に由来する。 これは小アジアにて誕生した様式に従い、会食者のように寝台に下半身を寝かせ、やさしく体を寄せ合う死者たちを描いたものである。 彼らは、葡萄酒を分配する仕草と共に、埋葬儀式の特徴をなす香油を捧げる仕草をしている。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 18)

カエレ [Caere] は、ローマ人がローマの北西約50〜60キロにある南部エトルリア大都市 (現代のチェルベテリ [Cerveteri] ) に与えたラテン語名。 (MAP)
チェルヴェテリの夫妻の棺 [Sarcofago degli Sposi] (11:11)
夫婦の棺は、1845年カンパーナ侯爵により、古代エレ [Caere] *のチェルヴェテリのバンディタッチャの墓場 (MAP) より発見された。 1861年ナポレオン3世により収集された。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 18)

カエレ [Caere] は、ローマ人がローマの北西約50〜60キロにある南部エトルリア大都市 (現代のチェルベテリ [Cerveteri] ) に与えたラテン語名。 (MAP)
古代エトルリア、ローマ美術部館内 (11:11)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 18)
チェルヴェテリの夫妻の棺 [Sarcofago degli Sposi] (11:11)
夫婦の棺は、1845年カンパーナ侯爵により、古代エレ [Caere] *のチェルヴェテリのバンディタッチャの墓場 (MAP) より発見された。 1861年ナポレオン3世により収集された。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 18)

カエレ [Caere] は、ローマ人がローマの北西約50〜60キロにある南部エトルリア大都市 (現代のチェルベテリ [Cerveteri] ) に与えたラテン語名。 (MAP)

サモトラケのニケ [Victoire de Samothrace] (11:13)
サモトラキ島の神殿は、カベイロイと呼ばれる偉大な神々への崇拝や、秘教的な祭式をとり行う場所として作られた複数の建物が集まる古代の名所だった。 (サモトラキ島神殿の全体図)

たくさんの巡礼者が訪れたが、その多くは、小アジアにあるギリシアの都市国家からくる人々であった。 勝利の女神像は、小さな建物の中に安置されていた。  この建物は、現存しないが、 この建物に屋根がついていたことは間違いなく、基盤の配置から、勝利の女神像は、建物の奥の壁に対して、直角ではなく、少し斜めに配置されていた。 そのため、よく見える、像の左斜め前に重点が置かれ、右から後方にかけてのディテールては簡略化されている。 勝利の女神像は、神殿に寄進された数多くの奉納物の一つで、海戦に勝利した後、神々への感謝として捧げられたと考えられる。

1863、1879、1891年にハドリアノポリス(現:トルコのエディルネ) (MAP) のフランス副領事であった、シャルル・シャンポワゾは、ギリシャ共和国のサモトラケ島(現在のサモトラキ島) (MAP) で特別な建造物を発掘した。 勝利の女神(ギリシア語で二ケ)は、船の船首に立つ羽を生やした女性の姿で立っていた。
MAPLay. A (館内見取り図)
サモトラケのニケ [Victoire de Samothrace] (11:13)
彫像は、エーゲ海にあるパロス (ギリシャの島) (MAP) の白大理石で制作され、台座と土台は、白大理石に灰色の縞の入ったロードス島のラルトスの採石場から出た大理石で制作されている。 足は現存しないが、足が付いていた跡から足位置は復元でき、右足は、船の甲板に乗せられ、左足は、宙に浮いていた。 勝利の女神像は、甲板の上にそっと舞い降りた瞬間をイメージして制作されたものと考えられる。

サモトラケのニケの台座は、ヘレニズム時代 の典型的な戦艦の舳先を表わしており、最も有名なのは、船の側面に張り出して付けられた木製の部分。 これは、船の櫂(オール)を入れる大きな箱で、それまでよりもっと長く、もっと力のあるオールを支える役目を担っていた。 しかも、数段に重ねられたオールを支えていた。  この台座に表わされたオールを入れる箱は、特に保存状態がよく、外側の壁にある、舷窓(げんそう)という、オールを通す楕円形の開口部が、上下二段にずらして開けられているところまで、識別することができる。 しかし、ギリシアの戦艦の主要な武器は、なんといっても、船嘴* (せんし) です。これは、船体の喫水線(きっすいせん)の位置にあって、舳先のさらに高い位置にある小船嘴*1を伴っている。 サモトラケのニケの台座の船嘴は、すべて失われているが、当時の貨幣や、浮彫り彫刻をみると、その形を想像することができる。
MAPLay. A (館内見取り図)

敵船に体当たりして船体を突き破り、沈没させるための突起。 *1 小船嘴は装飾または帆を張るための突起。
サモトラケのニケ [Victoire de Samothrace] (11:14)
トルコのハドリアノポリス、現在のエディルネのフランス副領事代理であったシャルル・シャンポワゾは考古学愛好家であった。 1863年3月、シャンポワゾは、パリの帝国美術館のために美しいものを求めて、この地の遺跡を調査していた。 1863年4月15日、神殿の西側を見下ろすテラスの先端で発掘作業をしていた人夫たちが、大きな女性像のいろいろな部分を掘り出した。 頭部と腕を見つけようと調査は続けられたが、結局見つからなかった。 しかし、衣や羽の小さな断片が数多く出土し、これらの断片によって、シャンポワゾは、これが勝利の女神の像だと想像することができた。 彼は、この彫像と断片をフランスに送り、一年後の1864年5月11日にルーヴル美術館に到着した断片は、細心の修復作業の末、1866年に、体の主要部の塊だけが展示された。

シャンポワゾは、この彫像があった同じ場所で、小さい建築物の残りと、灰色の大理石 (ロードス島産の大理石) の巨大な塊の山を見つけていたが、これらの大理石の塊を昔の墓だと思い、そのまま現地に残してきた。 1875年、オーストリアの考古学派遣隊の建築家が、サモトラキ島の神殿を発掘した時、これらの大理石の塊を調査し、正しく組み合わせると、彫像の台座の役割をしていた船の舳先の形になるという結論を出した。 建築家はその時、デメトリオス1世ポリオルケテスの治世下のギリシアの貨幣の表面に描かれている、船の舳先に立つ勝利の女神像と見比べている。 1879年にシャンポワゾは、この発見を知らされ、その舳先の塊と舳先の土台の敷石をパリに送った。  一年後の1864年5月11日に、ルーヴル美術館に到着し、中庭で行われた組み立て作業の結果、これらの塊が、墓ではなく、船の一部であるという仮説に異論の余地はなかった。 このとき、古代美術の学芸員、フェリックス・ラヴェソン・モリアンが、オーストリア人の提案する見本に従って、このモニュメントの完全な復元を試みた。 1884年に、修復が終わり、このモニュメントは、完成したばかりのダリュの階段 [Daru escalier] の中心軸上に正面を向いて配置され、目を見張る効果をうみ出している。 1934年に大規模な改装が行われた際、この効果をさらに高めるために、新しい石の塊が、彫像と台座の間に一つ加えられたが、これは、本来なかったものである。
MAPLay. A (館内見取り図)
透明ケースに入れたニケの右手 (11:14)
1950年に、サモトラケ島(現在のサモトラキ島)で出土したニケの右手は、透明ケースに入れた状態で保管展示されている。
MAPLay. A (館内見取り図)
サモトラケのニケ [Victoire de Samothrace] (11:15)
ギリシア人は、非常に早くから、平和、幸運、復讐、正義といった概念に女神の姿を与えていた。 勝利の女神は、これらの擬人化の最も古い例の一つで、戦争や陸上競技における勝利のニュースを、地上全域に伝達するため、大きな翼をもった女性の姿をしていた。  勝利の女神は、空を飛ぶメッセンジャーであった。 因みに、スポーツ用品メーカー「ナイキ」の社名は、この女神に由来する。 トレードマークはこの女神の翼をイメージしたものである。
MAPLay. A (館内見取り図)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:16)
ヴェルサイユ宮殿から多くの宝物などが移され展示されている。 天井はヴェルサイユ宮殿の鏡の間と同様の形式をとっている。
「アポロンのギャラリー」は「小ギャラリー」の2階部分全体を占めている。 この細長い部屋は1661年に火災で消失し、ル・ヴォーによって再建された。 天井装飾はル・ブランに託されたもので、「太陽の運行」を主題としている。 ウジェーヌ・ドラクロワヴォールト中央部分に《大蛇ピュトンを退治するアポロン》を制作した1851年まで、この天井装飾には絶えず手が加えられていた。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:16)
ベルサイユ宮殿にあった宝物が、展示収蔵されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:17)
最近修復されたばかりの天井は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間と同様の形式をとっており、特に美しい。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:17)
「アポロンのギャラリー」は「小ギャラリー」の2階部分全体を占めている。 この細長い部屋は1661年に火災で消失し、ル・ヴォーによって再建された。 天井装飾はル・ブランに託されたもので、「太陽の運行」を主題としている。 ウジェーヌ・ドラクロワヴォールト中央部分に《大蛇ピュトンを退治するアポロン》を制作した1851年まで、この天井装飾には絶えず手が加えられていた。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:17)
紅縞瑪瑙の水差し [Aiguière en sardoine] 。 嘗て、ローマ時代のアンチークで、ビザンティンで作られた一塊の紅縞瑪瑙などの半貴石から彫りだされたシンプルな水差しや壺などが存在していたが、ルイ14世の時代になって、これらの器に、七宝焼きの "足" や "取っ手" を取り付け、豪華な芸術作品に仕上げた。

ルイ14世(1638-1715)の宝石のコレクションには、多くの硬い石の花瓶が含まれ、その中には17世紀の金銀細工師の作品群がある。 ピエール・デラバール [Pierre Delabarre] *水差しはこれらの一つで、 制作日付は不明だが、装飾と "取り付け金具" の形状は、1630年から1635年頃のパリ金銀細工師による芸術作品の特徴を表している。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)

ピエール・デラバール [Pierre Delabarre] は、ドラゴンの金銀細工師として知られ、1625年に金銀細工師の称号を受け取っている。 彼らはルーヴル美術館のギャラリーに工房を持っていたが、彼の兄弟 Josias と François は、そのような称号は持っていなかった。
(ピエール・デラバールの作品)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:18)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:19)
ルイ14世時代の、天然水晶で作られた水差や花瓶。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロン・ギャラリーのタペストリー [Tapisserie de la galerie Apollon] (11:19)
ギャラリーの壁面は、ゴブラン織 (タペストリー) の形で、主権者と芸術家28人の肖像*が飾られている。 これはルイ14世の肖像。 (1854年-1863年の作品)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)

11 人の建築家、 7 人の彫刻家、 5 人の画家、 1 ガーデナー、 4 ソブリン (統治者)
アポロン・ギャラリーのタペストリー [Tapisserie de la galerie Apollon] (11:19)
ゴブラン織 (タペストリー) 、アンリ4世の肖像。 (1854年-1863年の作品)
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロン・ギャラリーのタペストリー [Tapisserie de la galerie Apollon] (11:19)
ゴブラン織 (タペストリー) 、アンリ4世の肖像。 因みに、アンリ4世は、在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王で、フランスの小学校の教科書で、 最初に出てくる王はアンリ4世で、"良い王様" として紹介されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
王冠の宝石 [Les Joyaux de la Couronne] (11:22)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] には、ルイ15世の王冠、ナポレオン1世の王冠、および聖別式などの儀式で用いられる儀式用剣、が展示されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
王冠の宝石 [Les Joyaux de la Couronne] (11:22)
左の王冠は、1804年12月2日、ナポレオン1世が戴冠式のために準備した、シャルルマーニュ [Charlemagne] *として知られる、カメオの王冠。 右の王冠は、1722年にルイ15世の聖別戴冠式の際に、作られた王冠で、金箔を貼った銀ででき、ダイアモンドと交互に置かれた8個の色石(サファイア、ルビー、トパーズ、エメラルド)に囲まれていた。

 王冠は聖別戴冠式のときにしか使用されず、1729年にサン・ドニ修道院宝物室に保管された。 その後、1852年にルーヴル美術館へ寄贈されている。 因みに、サン・ドニ修道院に奉納される際、ルイ15世の要請により、本来施されていた真珠と宝石は摸造品と取り替えられている。 取り外された宝石類は、代々受け継がれるのが慣例で、例えば、マリーアントワネットは140カラットのダイアを髪飾りに付けていたり、革命後、ナポレオンは剣の先に付けていたと言われている。 中世の頃から現代でも、本物の宝石は自宅に置き、パーティー等へは模造品を身に着け出席する場合が多く、スワロフスキーはこのような用途を満たすため一役買っている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)

1804年、戴冠式用にナポレオン1世がチャールズ大帝 (カール1世) の王冠を模倣して作らせたが、いざという時になって、ローマ皇帝たちの月桂樹の冠に変更した。 つまり、ナポレオンは王の地位ではなく、皇帝の地位を望んだ。
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:22)
ヴェルサイユ宮殿から多くの宝物などが移され展示されている。 天井はヴェルサイユ宮殿の鏡の間と同様の形式をとっている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:22)
「アポロンのギャラリー」は「小ギャラリー」の2階部分全体を占めている。 この細長い部屋は1661年に火災で消失し、ル・ヴォーによって再建された。 天井装飾はル・ブランに託されたもので、「太陽の運行」を主題としている。 ウジェーヌ・ドラクロワヴォールト中央部分に《大蛇ピュトンを退治するアポロン》を制作した1851年まで、この天井装飾には絶えず手が加えられていた。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:23)
上段手前の王冠は、1804年12月2日、パリ・ノートルダム大聖堂で行われた、ナポレオン1世の戴冠式のため制作された王冠で、シャルルマーニュ [Charlemagne] *とも呼ばれ、カメオで装飾されている。 この王冠は、1825年5月29日フランスReims大聖堂でフランス王国シャルル10世 [Charles X] の戴冠式で使用された。 背後にあるのはルイ15世の王冠。 右下段にある剣は、儀式などの際に、装身具として用いられる剣で、柄の部分は、翡翠で装飾されている。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)

1804年、戴冠式用にナポレオン1世がチャールズ大帝 (カール1世) の王冠を模倣して作らせたが、いざという時になって、ローマ皇帝たちが用いた、勝利の栄光を意味する月桂樹の冠に変更した。 つまり、ナポレオンは王の地位ではなく、皇帝の地位を望んでいた。
アポロンのギャラリー [La galerie d'Apollon] (11:24)
ルイ14世時代の、天然水晶で作られた水差や花瓶。
MAPLay. A (館内見取り図,Salle 66)
アポロンのロトンド [Rotonde* d'Apollon] (11:26)
「アポロンのロトンド」は「マルスのロトンド」の2階部分を占めている。
天井のフレスコ画は、1819年のメリー・ジョセフ・ブロンドデル [Merry-Joseph Blondel] 作、〖イカルスの墜落〗。
MAPLay. A (館内見取図)

Rotondeは、ドーム内部、及び外部円形の建物を意味する。
フランス絵画の大作室 (11:29)
西方向を向いて撮影。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:29)
西方向を向いて撮影。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:30)
フランス絵画の大作室から東を向いて撮影。 この位置からは、サモトラケのニケ像を正面から見ることが出来る。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:30)
指し棒で指し示された絵は、マリー・エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン作〖ビジェ・ル・ブラン夫人と彼女の娘ジャンヌ・ルシー・ルイーズ [Madame Vigée Le Brun et sa fille, Jeanne Lucie Louise.] 〗 (娘と自画像 1789年) 。

マリー・エリザベス・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブランは、マリー・アントワネットの寵愛を受け、18世紀最も成功した美貌の女性画家。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:31)
中央の絵は、〖ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠〗 (1805-07年) 。

ナポレオン1世の首席画家ジャック=ルイ・ダヴィッドにより描かれた油彩画で、1807年に完成された。 ナポレオン一世は、パリのノートルダム大聖堂で1804年12月2日に挙行された自身の戴冠式を不滅のものとするため、ダヴィッドにその絵を描くよう依頼したが、ダヴィッドはこの巨大な作品を仕上げるのに3年を要した。 ヴェルサイユ宮殿には、1815年以降亡命したダヴィッドがブリュッセルで制作した、この絵画の後期の複製が所蔵されている。

歴代フランス王は、9世紀のルイ1世から25代にわたり、パリの北東に位置する町ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行ってきたが、ナポレオンはブルボン家の後継者と見做されるのを嫌い、「王」ではなく「フランス人民の皇帝」であることを望んだ。 そのため、ナポレオンは1千年前のローマ皇帝カール大帝に倣い、古式にのっとった宗教儀式で以て、パリ・ノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。 皇帝の戴冠式に於いては、ローマ教皇が戴冠を行うのが慣わしであるため、ローマ教皇のピウス七世を戴冠式のためだけにパリへ呼び寄せた。 当初は教皇がナポレオンに戴冠することが予定されていたにもかかわらず、ナポレオンに聖油を掛ける聖別式が終わると、ナポレオンは教皇に背を向けて自ら月桂樹の冠を載き、次いで妃ジョゼフィーヌに、自らの手で冠を与えた。 その後、国民の前で宣誓し、皇帝ナポレオンの誕生を強く印象づけて大聖堂での儀式は終了した。

(あらゆる政治的プロパガンダの作品と同様に、この作品でも実際の様子をいくつか脚色されている。)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:35)
ジャック・ルイ・ダヴィッド作〖レカミエ婦人 [Madame Récamier] 〗 (1800年) 。

Récamier は、パリの銀行家の妻で、彼女の時代で最も有名な女性の一人と云われている。 この作品やフランソワ・ジェラールの描いた肖像画は有名で、ナポレオンとの関わりに置いても、歴史に名を残している。 1800年にナポレオンが、レカミエ夫人を愛人にするための贈り物として、ダヴィッドに肖像画を依頼した。 ダヴィッドは制作に取りかかったが、レカミエ夫人本人は気に入らず、未完成のまま終わってしまった。 この絵は、ダヴィッドが亡くなった後のアトリエに遺されていた。 因みに、夫人が腰掛けている椅子は、現在でも、「レカミエ椅子」とよばれる形で、背もたれのないカウチソファーの様なタイプ。 右端に少し見えている肖像画は、ピウス7世の肖像画で、作者は同じダヴィッド。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:36)
中央の絵は、フランソワ・エドゥアール・ピコット作〖愛と精神 [L'Amour et Psyché] 〗 (1817年) 。
フランソワ・エドゥアール・ピコットは、フランスの新古典主義画家で、1786年10月17日にパリで生まれ、1868年3月15日に同市で亡くなった。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)
フランス絵画の大作室 (11:37)
ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル作〖グランド・オダリスク [La Grande Odalisque*] 〗 (1814年) 。

「ハーレムの女」を意味する作品の標題や、女性の周囲を取り巻くオリエント風の装身具が、官能的な東方世界をほのめかしている。 観者に背中を向けた裸婦は、冷静に観察すると胴が異常に長く、通常の人体の比例とは全く異なっている。 同時代の批評家からは「この女は脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」などと揶揄された。 この作品は、アングルが自然を忠実に模写することよりも、自分の美意識に沿って画面を構成することを重視していたことを示している。 こうした手法は、同時代のダヴィッドなどのほか、近現代の画家にも影響を与えた。

因みに、アングルは、当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」としてフランス政府に禁止するよう抗議した一方、自らの制作に写真を用いていたことでも知られている。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 75)

odalisque とは、昔のイスラム教国での、オダリスク、女奴隷を意味する。
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde] (11:44)
ヴェロネーゼ作〖エマオの巡礼 [Les Pèlerins d'Emmaüs] 〗 (1559年頃) 。

ヴェロネーゼが若い頃に描いた、最初の聖書中『ルカの福音書 24章』の食事風景であるこの作品は、同時代の肖像画を含んだ劇中の一場面として構成されている。 ヴェルサイユ宮殿にも〖エマオの巡礼〗があるが、この絵がオリジナル。

『エルサレムから11km離れたところにエマオ [Emmaus] と云う町がある。 クレオパともう一人の弟子がエルサレムからエマオの町へ向う途中、復活したイエスはクレオパに近づき、彼らと語りながら歩いた。 その時の二人は、その人がキリストだとは知らなかった。 彼らは、ナザレのイエスが死んだこと、そのイエスの墓が空になっていたことなどを話した。二人はキリストを夕食に招待した。 男はパンを手に取り、祝福を与え、それを裂いて、彼らに渡したとき、二人は、男がキリストだと気づく。 その瞬間、キリストは消え去った。 二人は急いでエルサレムへ引き返し、キリストの復活を他の使徒たちに伝えた。』

左側の風景の上に描かれた三人は、弟子の二人とキリストが出会った場面、この挿話の続きは画面の前景で繰り広げられている。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde] (11:45)
ヴェロネーゼ作〖カナの婚礼 [Les Noces de Cana] 〗 (1563年) 。

聖書の中で、使徒ヨハネによって語られている挿話『イエスがガリラヤのカナの町で婚礼に招かれ、祝宴の最後に葡萄酒が足りなくなってきたため、キリストは召使たちに石の甕を水で満たして、家の主人に出すよう告げる。 そして主人はその水が葡萄酒に変わっていることに気付くのである。』の有名な場面が描かれている。

 新郎新婦は食卓の左端に座って中央の座をキリストに譲っている。 こうしてキリストは、聖母、使徒ら、聖職者、王侯、ヴェネツィアの貴族たち、ターバンをかぶった東方の人々、そして多くの召使いや、民衆に囲まれている。 幾人かの人々は古代風の伝統的な衣装に身を包み、とりわけ婦人たちといった、その他の者たちは豪奢な髪型や飾り物を身に付けている。 絵の具は、青はラピスラズリ (瑠璃) 、緑はマラカイト (孔雀石) をすり潰し、油に混ぜて作った顔料絵の具を使用している。 高価であるが、色が鮮やかで、変色しない。 (拡大画)

ベネディクト修道会のために、パッラーディオによってサン・ジョルジョ・マッジョーレ島 (MAP) に建てられた修道院の食堂を飾る作品であったが、ナポレオンが、ヴェネチアを征服した際、食堂の壁から剥がしてフランスへ持ち出した作品。 戦争では珍しくない芸術品略奪で、ルーヴルにはそうした作品がいくつもある。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde*] (11:47)
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を展示するための部屋が日本テレビの協力 (約8億円出資) により全面的に改造され、完成を記念して2005年4月5日(火)にフランス国内の政財界、ヨーロッパの美術関係者およびマスコミ関係者およそ1500名を招待して、ルーヴル美術館主催の内覧会が開催された。 建設期間4年を要した「モナ・リザ」の部屋の前身は、これまでSalle des Etas(サル・デ・ゼタ=外交使節接遇の間)と呼ばれてきた展示室だったが、以後、Salle de la Joconde(サル・ドゥ・ラ・ジョコンドゥ=モナ・リザの間)と呼ばれるようになった。 (関連サイト)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)

『モナ・リザ』は、英語名で、 [The Mona Lisa] と綴られ、イタリア語では、 ラ・ジョコンダ [La Gioconda] 、フランス語では、 ラ・ジョコンドゥ [La Joconde] と呼ばれている。 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンド [Lisa del Giocondo] だとされている。
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde] (11:47)
ルフュエルの建築による「国家の間」は1859年以降、ナポレオン3世治下の立法審議会の会場に充てられていた。 1878年に美術館に統合されると、もともとあった寓意的な装飾は取り除かれ、19世紀のフランス絵画がここに収められた。 日本テレビの出資による4年間の工事の末、「国家の間」は2005年4月6日に公開された。 これを機に、レオナルド・ダ・ヴィンチの 《モナ・リザ》 とヴェロネーゼの 《カナの婚礼》 は、すっかり新しくなった展示室にまとめられた。 これらの大作は、建築家ロレンゾ・ピケラス設計の特別なガラスケースに保護され、合わせて展示されている。 この2点の周りには、ヴェネツィア・ルネサンスの絵画など他の作品も展示されている。 (以前の展示室)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde*] (11:47)
1515年12月、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランソワ1世の招きにより、ローマを去り、二人の弟子と共にフランスへ向かった際に携えた、『モナリザ』、『聖アンナと聖母子』、『洗礼者聖ヨハネ』の計三作品は、アンボワーズで没するまで、手元に残したと言われている。 因みに、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フランソワ一世に招聘された際、アンボワーズ城の東南、約300mの位置にあるクロ・リュセ (MAP) の館と年金が与えられた。 文化的素養のあった フランソワ一世とダ・ヴィンチは互いに敬愛し合っていたと言われ、まだ20代前半のフランソワ一世はアンボワーズ城から通じている地下道を通って、ダ・ヴィンチの居るクロ・リュセの館をよく訪れた。 ダ・ヴィンチは、宮廷宴会の企画や多くの研究をして過ごしていたが、僅か3年の後に他界してしまう。 ダ・ヴィンチがイタリアから携え、生涯手元に残した三作品は、現在、名画として、フランスの宝となっている。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)

『モナ・リザ』は、英語名で、 [The Mona Lisa] と綴られ、イタリア語では、 ラ・ジョコンダ [La Gioconda] 、フランス語では、 ラ・ジョコンドゥ [La Joconde] と呼ばれている。 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンド [Lisa del Giocondo] だとされている。
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde*] (11:48)
リザ・デル・ジョコンド(伊: Lisa del Giocondo、1479年6月15日 - 1542年7月15日 / 1551年頃)、またはリザ・ゲラルディーニ(伊: Lisa Gherardini)は、イタリアのフィレンツェとトスカーナの旧家であるゲラルディーニ家の女性。 夫であるフランチェスコ・デル・ジョコンドがルネサンス盛期の画家レオナルド・ダ・ヴィンチに依頼して描かせた肖像画は、リザ [Lisa] の名前から『モナ・リザ』と呼ばれている。 モナ・リザ [Mona Lisa] の "Mona" は、イタリア語で "私の貴婦人" [ma donna] を意味し、短縮形で「mona」と綴られる。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)

『モナ・リザ』は、英語名で、 [The Mona Lisa] と綴られ、イタリア語では、 ラ・ジョコンダ [La Gioconda] 、フランス語では、 ラ・ジョコンドゥ [La Joconde] と呼ばれている。 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンド [Lisa del Giocondo] だとされている。
モナ・リザの間 [Salle de la Joconde] (11:49)
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を展示するための部屋が、日本テレビの協力 (約8億円出資) により全面的に改造され、完成を記念して2005年4月5日(火)にフランス国内の政財界、ヨーロッパの美術関係者、およびマスコミ関係者ら、およそ1500名を招待して、ルーヴル美術館主催の内覧会が開催された。 建設期間4年を要した「モナ・リザ」の部屋の前身は、これまでSalle des Etas(サル・デ・ゼタ=外交使節接遇の間)と呼ばれてきた展示室だったが、以後、Salle de la Joconde(サル・ドゥ・ラ・ジョコンドゥ=モナ・リザの間)と呼ばれるようになった。 (関連サイト)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 6)
フランス絵画の大作室 (11:56)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 77)
フランス絵画の大作室 (11:56)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 77)
フランス絵画の大作室 (11:57)
右端の絵は、アントワーヌ=ジャン・グロ作〖ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオンボナパルト [Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa] 〗 (1804年) 。

画家アントワーヌ=ジャン・グロは、1799年3月に、シリアのヤッファ (MAP) でペストに苦しむ兵士たちを訪ねて激励するボナパルト将軍の勇気を描いている。 ボナパルトは、キリストのように、ペスト患者の一人の上に手を置いている。 第一執政官となったボナパルトは、この絵をグロに注文することによって、作品がイギリスの報道による非難を拭い去ってくれることを期待した。 イギリスでは、ボナパルトがカイロに撤退した際、ペスト患者を処刑しようとしたと報じられていた。 この作品は、ナポレオンの聖別式の直前にあたる1804年のサロンに出品され、評判を呼んだ。 それはとりわけボナパルトにとって作品が有用な時期であった。 (関連サイト)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 77)
ドゥノン [Denon] 翼のモリエン階段 [Escalier Mollien] (12:00)
この階段は、嘗ての宮殿の姿を今に残している。
MAPLay. A (館内見取図)
ドゥノン [Denon] 翼のモリエン階段 [Escalier Mollien] (12:00)
嘗て、20㎏のドレスを着て上り下りした宮殿の階段は、女性に取って優しい勾配で設計されている。

写真の左端に、鹿の頭の部分のみが写っているのは、階段の踊り場に展示されているブロンズ像〖フォンテーヌブローのニンフ*の一部で、ルーブルには、これと同じ作品が、"カリアティードの広間" のバルコニーにもある。 この踊り場の作品がオリジナル。
MAPLay. A (館内見取図)

イタリア人金属工芸家ベンヴェヌート・チェッリーニは1540年から1545年にかけてフランソワ1世の宮廷でフランスでの2度目の滞在をする。 王は彼に、フォンテーヌブロー宮殿 (MAP) の正面入り口である「金色の扉」の装飾を注文する。 アーティストは、タンパンに嵌め込む半円形のブロンズ製の巨大な浮彫り〖フォンテーヌブローのニンフ〗を構想した。 しかし、王と彫刻家の関係が悪化し、チェッリーニは1545年にフランスを離れた。 1547年に王が亡くなり、作品は設置されなかった。 結局フィリベール・ドロルムが、アンリ2世の愛妾のディアーヌ・ド・ポワティエの為に建てたアネット城の門 (MAP) の上部に設置した。
ドゥノン [Denon] 翼のモリエン階段 [Escalier Mollien*] (12:00)
この階段を下りると、イタリア彫刻の部屋へと続く。
MAPLay. A (館内見取図)

Nicolas François Mollien は、1758年2月28日にルーアン [Rouen] (MAP) で生まれ、1850年4月20日にパリ [Paris] で死す。  (父) Jacques-Robert Mollien と (母) Marie-Anne Cotelleの間に生まれた息子で、1804年に州議会議員、1806年に帝政政府の財務大臣を務めた。 ナポレオン3世は、彼が叔父に与えた功績を認め、新しいルーヴルのパビリオンの1つに彼の名前を与えた
ミケランジェロ・ギャラリー [Galerie Michel-Ange] (12:00)
イタリア彫刻の部屋への入口。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 4)
ミケランジェロ・ギャラリー [Galerie Michel-Ange] (12:02)
MAPLay. A (館内見取図,Salle 4)
ミケランジェロ・ギャラリー [Galerie Michel-Ange] (12:03)
アントニオ・カノーヴァ [Antonio Canova] 作〖キューピッドのキスによって甦るプシュケ [Psyché ranimée par le baiser de l'Amour] 〗。
この作品は、ルーヴル美術館で絵葉書の売り上げが一番多い作品。 大理石の一石彫りで、皮膚の質感まで表現している。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 4)
ミケランジェロ・ギャラリー [Galerie Michel-Ange] (12:04)
アントニオ・カノーヴァ [Antonio Canova] 作〖キューピッドのキスによって甦るプシュケ* [Psyché ranimée par le baiser de l'Amour] 〗。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 4)

心理学 (Psychology) の語源はプシュケ (Psyché) で、プシュケはギリシャ神話に出てくる女性の名前。 後に彼女の名前は「魂」を意味する単語になり、そこからPsychology (サイコロジー) の名前が生まれた。
ミケランジェロ・ギャラリー [Galerie Michel-Ange] (12:04)
アントニオ・カノーヴァ [Antonio Canova] 作〖キューピッドのキスによって甦るプシュケ [Psyché ranimée par le baiser de l'Amour] 〗。
この作品は、ジョン・キャンベルによって注文され、ローマ で製作、1801年にナポレオンの義兄弟ヨアキム・ミュラーによって購入された。 ギリシア神話は、当代随一と謳われた彫刻家カノーヴァの得意とするテーマで、この作品は冥界の小瓶を嗅いで死の眠りに落ちたブシュケが、再び呼吸を取り戻し、愛する夫キューピッドを抱きしめようと腕を伸ばした瞬間を捉えたもの。
MAPLay. A (館内見取図,Salle 4)
ピラミッドの下にあるナポレオン・ホール [Hall Napoléon] (12:10)
MAPLay. A (館内見取図)
Café Richelieu / Angelina (12:20) フォワグラ付き、アンジェリーナ風サラダ (12:31)
仔牛肉のクリームソース付きのメイン (13:06) 有名な「アンジェリーナ」のモンブラン・ケーキ (13:24)
昼食の "カフェ・リシュリュー/アンジェリーナ [Café Richelieu / Angelina] "。
MAPLay. A (所在図)
"カフェ・リシュリュー/アンジェリーナ" の窓からの眺め (13:14)
中央に見えるのは、ルーヴル・ピラミッド。 その後ろの棟は、ドゥノン翼。
MAPLay. A (撮影方向)
"カフェ・リシュリュー/アンジェリーナ" のテラス (13:15)
このテラスからは、エッフェル塔やカルーゼル凱旋門を見渡せる。
MAPLay. A (撮影方向)
"カフェ・リシュリュー/アンジェリーナ" のテラス (13:15)
ルーヴルのテラスには、多くの立像が並べられている。 手前の像は、ジャン=ジャック・ルソー [Jean-Jacques Rousseau] の立像。 その向こうの像は、ジャン・フロワサール [Jean Froissart] の立像

因みに、シュリー翼 [L'aile Sully] の名の由来になったSullyの立像 (MAP) 。 リシュリュウ翼 [L'aile Richelieu] の名の由来になったRichelieuの立像 (MAP) 。 (立像についての詳細は、こちらのサイトへ)
MAPLay. A (撮影方向)
ピュジェの中庭 [Cour Puget] (13:47)
フランスの著名な、彫刻家,画家,建築家であるピエール・ピュジェ [Pierre Puget] の名が付けられた中庭。 写真の中央に、ピエール・ピュジェの代表作『クロトナのミロ [Milon de Crotone] 』が飾られている。
ピエール・ピュジェ [Pierre Puget] は、1620.10.16. にマルセイユ近郊で生まれ、1694.12.2. にマルセイユで没している。
MAPLay. A (館内見取図)

クロトナのミロ [Milon de Crotone]


数々のオリンピア競技やピュティア競技で勝ち名乗りをあげたギリシアの闘技者ミロは、老いつつもその剛力を試そうと既に裂け目のある木の幹を引き裂こうとした。 手が木の幹に挟まって抜けなくなり、オオカミに喰い殺された。 ピュジェは、オオカミをより気品ある動物であるライオンに置き換え、バロックの激烈さと劇的効果を狙う構図を作り上げた。

Crotoneは、現在のクロトネ (MAP) で、紀元前710年頃生まれたギリシアの植民都市クロトーンを起源とする。

オリンピックなどで活躍する選手を輩出していることでも有名で、紀元前6世紀後半のギリシャ人選手ミロン(英語版)もその一人。


(写真出典:Wikipedia)
ルーヴル・ピラミッド [Pyramide du Louvre] 内にて (13:50)
1981年、来館者の受け入れ態勢を改善するべく、美術館の中央入口を改修する決定が下された。 そうして1989年以来、ペイ*のピラミッドの下には大きな 中央入口ホール (ナポレオン・ホール) が広がっている。
MAPLay. A (館内見取図)

イオ・ミン・ペイ [Ieoh Ming Pei] は、20世紀のアメリカを代表する中国系アメリカ人建築家。 I・M・ペイと表記されることが多い。 漢名は貝 聿銘。  ルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した建築家として広く知られる。
ルーヴル・ピラミッド [Pyramide du Louvre] 内にて (13:50)
このガラスは特殊ガラスで、このガラスを造ったのはヴェルサイユ宮殿の "鏡の間" (1686年完成) の鏡を造った工場と同じ工場で造られている。 日本では、徳川綱吉の時代に当たり、実に300年以上の歴史を持つ会社が製造している。 「太陽王」と言われたルイ14世の意向で、このガラがフランスで造られるようになり、そして、芸術と伝統を重んじるフランスは、ルーヴル・ピラミッド (1989年に完成) にも、この伝統を持つ会社サンゴバン [Saint Gobain] *のガラスを用いている。 設計者は、イオ・ミン・ペイ [Ieoh Ming Pei] 。
MAPLay. A (館内見取図)

サンゴバンは日本がまだ江戸時代だった1665年に、フランスの王立鏡面ガラス製作所として設立。 ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」やルーヴル美術館の「ピラミッド」、アメリカ・ニューヨークのシンボルである「自由の女神」などに、サンゴバン [Saint Gobain] の鏡やガラスが使われており、世界で最も長い歴史を持つメーカー。
ルーヴル・ピラミッド [Pyramide du Louvre] 内にて (13:50)
MAPLay. A (館内見取図)
ルーヴル・ピラミッド [Pyramide du Louvre] 内にて (13:50)
MAPLay. A (館内見取図)
ルーヴル美術館 [Musée du Louvre] (13:52)
"ガラス張りピラミッド" の後方の棟は、シュリー翼 [L'aile Sully] *1、右の棟は、ドゥノン翼 [L'aile Denon] *2、左の棟は、リシュリュウ翼 [L'aile Richelieu] *3。 因みに、"ガラス張りピラミッド"に白色で描かれた無限記号様のアートは、彫刻家 "ミケランジェロ・ピストレット" [Michelangelo Pistoletto] のトレードマークで、今現在、彼の作品展が館内で開かれている事を示している。 彼の作品に、 無限のシンボルを基にした彫刻 “Rebirth” (復興) がある事から彼のトレードマークとして使われている。
「東南東」MAPLay. A

1 最古の翼で、シュリー公 [Maximilien de Béthune (duc de Sully) ] の名に敬意を表し付けられた名前。
2 ルーヴル美術館の最初の館長 [Dominique-Vivant Denon] の名にちなんで名付けられた。
3 枢機卿リシュリュー [Armand Jean du Plessis de Richelieu] の名にちなんで名付けられた。   
カルーゼル凱旋門 [Arc de triomphe du Carrousel] (13:55)
パリには、2つの勝利のアーチがあり、どちらもナポレオン1世によって委託されたので、カルーゼル凱旋門は、かつてフランス王室の宮殿テュイルリー宮殿 [Palais des Tuileries] があった場所にある。 フランス国王ルイ王室のテュイルリー宮殿の門として建設されたが、宮殿撤去後のカルーゼル広場 [Place du Carrousel] で最も目立つ建物となった。 ルーブル美術館の敷地にあるカルーゼル広場に建っており、1806年から1808年にかけて、前年のアウステルリッツの戦勝を祝するために建設された。 もう一つの、より大きく、最も有名なエトワール凱旋門も同年に設計されたが、カルーゼル凱旋門の約2倍の大きさがあり、完成までに30年を要している。
(テュイルリー宮殿)
「西北西」MAPLay. A
カルーゼル凱旋門 [Arc de triomphe du Carrousel] (13:56)
カルーゼル凱旋門は、カルーゼル広場に面しており、1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、焼失したテュイルリー宮殿前にあった。 テュイルリー宮殿とその庭園(現テュイルリー庭園)の中心軸は、、歴史的な軸として知られている。 このパリの歴史軸は、ルーヴル美術館とテュイルリー庭園、コンコルド広場、エトワール凱旋門、そしてパリの新凱旋門 (真の凱旋門では無い) と呼ばれるグラン・アルチェ [Grande Arche] まで、約8kmに及ぶ直線軸を指す。 この軸上には歴史的建築物、記念碑、道路などが一直線に並んでいる。 写真を拡大すれば、カルーゼル凱旋門の門柱の間に、コンコルド広場のオベリスクとエトワール凱旋門が一直線に並んでいるのが見える。
(テュイルリー宮殿)
「西北西」MAPLay. A
カルーゼル凱旋門のクアドリガ [Quadriga] (13:56)
この馬は有名で、初めはコンスタンティノープルのヒポドローム (MAP) にあったものを第四次十字軍が略奪し、ベネチアに持ち帰った。 その後、サンマルコ寺院のファサード (MAP) に置かれていたが、ナポレオンがベルチアを征服した際、持ち帰り、カルーゼル凱旋門上に配置した。 しかし、コンスタンティノーブル、ベネチア、ナポレオンと、この馬を所有した物は全て滅びたため、呪いの馬と言われ、1815年にヴェネツィアに戻された。 今ここにあるブロンズ像は、フランソワ・ジョセフ・ボシオ [François Joseph Bosio] が1828年に制作したコピー作品。 この像は、両側に金色の勝利の女神像が追加され、この女神によって導かれる クアドリガ [Quadriga] は、平和と勝利を表している。 (オリジナル像)
「西北西」MAPLay. A
カルーゼル凱旋門のクアドリガ [Quadriga] (13:56)
サン・マルコの馬 [Chevaux de Saint-Marc] とも呼ばれている。 本物は、1815年にヴェネツィアに戻されたが、現在、サン・マルコ寺院のファサードにある馬もレプリカ。 本物は1979年に撤去され、修復の後に寺院2階の美術館に展示されている。 (オリジナル像)
「西北西」MAPLay. A
カルーゼル広場 [Place du Carrousel] (13:56)
写真を拡大すれば、カルーゼル凱旋門の門柱の間に、コンコルド広場のオベリスクとエトワール凱旋門が一直線に並んでいるのが見える。 (パリの歴史軸)
「西北西」MAPLay. A
カルーゼル広場 [Place du Carrousel] からの眺め (13:59)
"ガラス張りピラミッド" の後方の棟は、シュリー翼 [L'aile Sully] *1、右の棟は、ドゥノン翼 [L'aile Denon] *2、左の棟は、リシュリュウ翼 [L'aile Richelieu] *3
「南東」MAPLay. A

1 最古の翼で、シュリー公 [Maximilien de Béthune (duc de Sully) ] の名に敬意を表し付けられた名前。
2 ルーヴル美術館の最初の館長 [Dominique-Vivant Denon] の名にちなんで名付けられた。
3 枢機卿リシュリュー [Armand Jean du Plessis de Richelieu] の名にちなんで名付けられた。   
カルーゼル広場 [Place du Carrousel] (13:59)
"carrousel" とは、軍事馬場馬術の一種を意味し、カルーゼル広場がそう呼ばれるようになったのは1662年のことで、ルイ14世がここで馬場馬術を行わせて観覧したことに由来する。
「北北西」MAPLay. A

この後、メトロ7号線 パレ・ロワイヤル・ルーブル美術館駅 [Palais Royal Musée du Louvre] (MAP) から オペラ駅 [Opéra] (MAP) へ向かう。



ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] または オペラ・ガルニエ [Opéra Garnier]
1669年に 作曲家ロベール・カンベール [Robert Cambert] と組んで宮廷オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン [Pierre Perrin] の請願が、財務総監コルベールの仲立ちでルイ14世に許可され、『音楽アカデミー』ができた。 パリの王立ないし国立のオペラ劇団が公演する劇場も転々と変わり、ガルニエ宮は13代目である。 それまでの劇場は、ルーヴル美術館(フランス革命までは『ルーヴル宮』)の中や隣だったことも、約1.5km離れていたこともあった。
ナポレオン3世が11代目のオペラ座 "サル・ル・ペルティエ" の正面で襲撃された事件を機に、以前からの治安維持を考慮した新オペラ座建設計画が1860年9月29日の政令で具体化し、同年12月29日、ナポレオン3世の第二帝政を称える記念碑的建造物の設計が公募された。 171の応募の中に一等賞はなく、佳作が6件であった。 その中からシャルル・ガルニエ [Charles Garnier] の案が採択され、1862年7月21日に最初の礎石が置かれた。 1874年12月に工事を終え、1875年1月5日に落成式が行われた。 この劇場は設計者の名から「ガルニエ宮」と呼ばれることとなった。

ヴィオレッタに捧げし歌
オペラ・ガルニエ [Opéra Garnier]
ガルニエ宮のファザードと彫刻群の説明。 なかでも有名なのは、下段右から2番目のカルポー作〖ダンス〗。 オリジナル像は、オルセー美術館に展示されている。
画像出典:Wikipedia
オペラ・ガルニエ [Opéra Garnier]
ガルニエ宮のファザードと彫刻群。 (撮影は28日18:15)
建物は、幅125m、奥行73m、総面積約11,000㎡で、劇場としては世界最大級。
オペラ・ガルニエの模型
切断面の東 (右) 側。

(注意) 建物の造りがシンメトリーであるため、右の画像を反転表示している。
オペラ・ガルニエの模型
切断面の西 (左) 側。
大階段の踊り場の下 (-1階) にあるピューティアーの水盤 (泉) [Bassin de la Pythie]  (14:40)
ニッチ (壁龕) の銅像は、マルチェロ [Marcello] 作の〖ピューティアー [Pythie] 〗 (1870) 。 現在は、かつて使用された衣装が展示されているが、床面には、水盤の様な囲いがあり、当初、囲いの中は、水で満たされていたものと思われる。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
オニキス手摺階段 [La rampe d'escalier en onyx] (大階段)  (14:40)
-1階から0階への階段。 ステップはセラヴェッツァ [Seravezza] の白大理石で作られ、 手摺はアルジェリアのオニキス [L'Onyx d'Algérie] 、それを支える128台のバラスト [Balustres] (手すり子) はアンティークの赤い大理石で組まれている。 そして、欄干の基礎部分はスウェーデンの緑の大理石で作られ、欄干全体を支えている。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
オニキス手摺階段 [La rampe d'escalier en onyx] (大階段)  (14:41)
-1階から見上げる大階段 [Grand Escalier] 。 -1階から0階への階段は二つあり、左側 (東) と右側 (西) の階段の間に、ピューティアーの水盤 (泉) がある。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
大階段 [Grand Escalier]  (14:41)
-1階から0階への東側階段の途中で仰視。 多くの絵画、モールディング、彫刻、モザイクなどで、装飾されている。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
オニキス手摺階段 [La rampe d'escalier en onyx] (大階段)  (14:42)
0階*の踊り場から撮影。 0階から0.5階への階段は一つになり、0.5階 (踊り場) から1階への階段は左右に分かれ、二つになる。 大階段は、大きさとラインとカーブの優雅さによって人々を魅了している。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)

0階は、日本では1階に相当する。 従って、0.5階は1.5階に・・・・。
オニキス手摺階段 [La rampe d'escalier en onyx] (大階段)  (14:42)
0階の踊り場から撮影。 0階から0.5階 (踊り場) への中央階段の上り口には、アルバート・アーネスト・キャリア・ベリューズ [Albert-Ernest Carrier-Belleuse] 作の、ブロンズ燭台像 [Multifigure Torchères] が飾られている。 像は左右一対になっており、それぞれ2人の半裸女性と1人の裸の少年が蝋燭を支え持つ構図で製作されている。 (1873年)
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
大階段 [Grand Escalier] の天井画 (14:43)
天井の四つの絵画は、1838年にローマのグランプリを受賞したIsidore Alexandre-Auguste Pilsによって制作された。
右上:オリンポスの神々が見守る前で凶悪な力と戦うミネルヴァ [Minerve combattant la force brutale devant l'Olympe réuni] 。
右下:アポロンの凱旋 [Le triomphe d'Apollon] 。
左下:新しいオペラ計画を受け取っているパリの街 [La Ville de Paris recevant le plan du nouvel Opéra] 。
左上:音楽の魅力 [Le Charme de la musique] 。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
大階段 [Grand Escalier] の踊り場 (0.5階)  (14:43)
中央に大きな大理石のドアがあり、ドアの上のペディメントの上には、白い大理石の二人の子供がパリ市の紋章を保持している。 この扉のには、彫刻家 "ガブリエル・ジュール・トーマス" [Gabriel-Jules Thomas] によって作製された二つの巨大なカリアティード [Caryatid] が並んでいる。 それぞれ、月桂樹の冠を被り、体は青銅でできていて、多色の大理石のドレスとチュニックで覆われている。 喜劇を表す右の像は、隣の柱の基部に金のハープを置いて持ち、左の悲劇を表す像は、同じように銀色の剣を持っている。 因みに、扉の上に書かれている文字は "AMPHITHEATRE・BAIGNOIRES・ORCHESTRE" と記されており、それぞれ、円形劇場・浴室・オーケストラへの通路を示している。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
1階フロアから見下ろす大階段 (14:44)
内装は、多数の人々の動きを受け入れることができる複合された廊下、階段吹き抜けと幕間に人々が社交の場とする空間から構成される。 1階の右手 (南) は、大きな社交場 [Grand Foyer] 、左手には、円形劇場 [Amphithéâtre] がある。 男性が立っている階段の踊り場は、0.5階に相当する。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)

ヨーロッパ諸国の0階は、日本の1階に相当する。 従って、0.5階は1.5階 (半2階) に、1階は2階に・・・・。
階段の吹き抜けと天井画 (14:44)
階段の上の天井はイシドール・ピル [Isidore Pils] によって「アポロの勝利」「その魅力を展開する音楽の魔法」「オリンポスの神々に見られる無慈悲と戦うミネルバ」「新しい歌劇場の計画を受け取るパリの街」が描かれていた。 これら絵画は劇場のオープン2か月前に初めて取り付けられたとき、ガルニエ宮においては空間に対して暗すぎたことが明らかになった。 そのため、二人の弟子の助けを借りて、61歳で病になったピルは天井にあるキャンヴァスに再製作しなければならなくなった。 彼の弟子はオープン (1875年1月5日) 前に作品を完成させ、足場は撤去された。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)
1階フロアから見下ろす大階段 (14:44)
内装は、多数の人々の動きを受け入れることができる複合された廊下、階段吹き抜けと幕間に人々が社交の場 (大休憩室) とする空間から構成される。 1階の右手 (南) は、大きな社交場 [Grand Foyer] 、左手には、円形劇場 [Amphithéâtre] がある。 男性が立っている階段の踊り場は、0.5階に相当する。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)

ヨーロッパ諸国の0階は、日本の1階に相当する。 従って、1階は2階に・・・・。
オニキス手摺階段 [La rampe d'escalier en onyx] (大階段) (14:45)
建物は赤と緑の大理石の欄干のある白大理石の大きな儀礼上の階段によって特徴づけられ、この階段は、0階*から1階に向かって踊り場 (0.5階) を経由して大休憩室 [Grand Foyer] へと導く2つの階段に末広がりに分かれる。 この階段のデザインはヴィクトル・ルイ [Victor Louis] のボルドー劇場 [Théâtre de Bordeaux] の階段に着想を得たものである。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)

0階は、日本では1階に相当する。 従って、0.5階は1.5階に・・・・。
大階段と吹き抜け (14:45)
1階*のバルコニーから見る、大階段と吹き抜け。
MAPLay. B (撮影場所と方向) (Plan)

ヨーロッパ諸国では、地面の直上の階を地上階(英: ground floor, G, エレベータでの表示は0とすることもある)と言い、そこから上に向かって順に1階(first floor, 1F)、2階(second floor, 2F)と数える。 従って、ヨーロッパ諸国の1階は、日本の2階にあたる。
大社交場 (大休憩室) [Grand Foyer] の前室 [Avant Foyer]  (14:46)
右隣に、大社交場 (大休憩室) [Grand Foyer] がある。
MAPLay. B (Plan)
大社交場 (大休憩室) [Grand Foyer] の前室 [Avant Foyer]  (14:46)
前室の右隣に、少し見えている部屋が大社交場 (大休憩室) [Grand Foyer] 。 前室の左側には、大階段がある。
MAPLay. B (Plan)
Avant Foyerの中心部から見る大階段 [Grand Escalier]  (14:46)
壮大な階段はガルニエ宮殿の最も有名な場所の一つで、異なる色の大理石で造られ、劇場の玄関から異なる階へ、末広がりに二つに分かれ、つながっている。 壮大な階段は、劇場でもあり、また社交の場でもあった。 クリノリン [Crinoline] を纏った女性は、好みの男性と出会い、親交を深める場所でもあった。
MAPLay. B (Plan)
Avant Foyerのバルコニーから見る大階段の吹き抜け (14:47)
写真の中央下に大きな大理石のドアがあり、ドアの上のペディメントの上には、白い大理石の二人の子供がパリ市の紋章を保持している。  階段の上の天井はイシドール・ピル [Isidore Pils] によって「アポロの勝利」「その魅力を展開する音楽の魔法」「オリンポスの神々に見られる無慈悲と戦うミネルバ」「新しい歌劇場の計画を受け取るパリの街」が描かれていた。 これら絵画は劇場のオープン2か月前に初めて取り付けられたとき、ガルニエ宮においては空間に対して暗すぎたことが明らかになった。 そのため、二人の弟子の助けを借りて、61歳で病になったピルは天井にあるキャンヴァスに再製作しなければならなくなった。 彼の弟子はオープン (1875年1月5日) 前に作品を完成させ、足場は撤去された
MAPLay. B (Plan)
太陽の円形部屋 [Rotonde du Soleil / Salon du Soleil]  (14:48)
前室 [Avant Foyer] の東と西の端部には、東側に、太陽のサロン [Salon du Soleil] 、西側には、月のサロン [Salons de la Lune] が配置されている。 上の写真は、"太陽のサロン" で、天井には太陽をモチーフにした絵があり、その中心にはサラマンダーが描かれている。 太陽と月の二つの天井画は、デザイナーのPhilippe Marie Chaperon(パリ、1823 - 1906)とAuguste Alfred Rubé(パリ、1805 - 1899)によって描かれた。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:49)
高さ18メートル、長さ154メートル、幅13メートルのこのホールは、パリ上流社会の社交場として設計されている。 2004年に修復され、天井はPaul-Jacques-AiméBaudryによって、音楽史上の様々な瞬間が描かれている。 ホールは採光を兼ね、南側のロッジア [Loggia] に面した壁面に、ガラス張りのドアを設けている。 ホールの西端は、サロン・デ・ラ・ルネ(Salon de la Lune)に、東端はサロン・デ・ソレイユ(Salon du Soleil)につながっている。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:49)
壮大なGrand Foyerのデザインは、16世紀のフランスルネッサンス様式のシャトー芸術、例えばフォンテーヌブロー宮殿 [Château de Fontainebleau] 、ルーヴル美術館のアポロン・ギャラリー [Apollo Gallery] におけるルイ14世の時代の装飾、またヴェルサイユ宮殿の "鏡の間" の装飾などからインスピレーションを得ている。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:50)
暖炉の上のカリアティード [Caryatid] とセーヴル [Sèvres] の花瓶。 暖炉上の金めっきされた青銅のカリアティードは、壮大な階段の燭台 [Torcheres] を制作したのと同じアーティストで、アルバート・アーネスト・キャリア・ベリューズ [Albert-Ernest Carrier-Belleuse] の作品。 セーヴル [Sèvres] の花瓶は、Joseph Chéret の作品。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:51)
暖炉の上のカリアティード [Caryatid] とセーヴル [Sèvres] の花瓶。 暖炉上の金めっきされた青銅のカリアティードは、Charles Cordier の作品。 その上にある絵は、Félix-Joseph Barrias 作、劇的な音楽〖La Musique dramatique〗。 
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:52)
このホールは高さが18m、長さが154m、幅が13mで、パリ社交界の応接間として機能するようデザインされた。 それは2004年に修復され、その天井にはポール・ジャック・エメ・ボードリー [Paul Jacques Aimé Baudry] によって天井画が書かれている。 天井画の題材には音楽の歴史の様々な場面が取り上げられている。 休憩室は外のロッジア [Loggia] に向かって開いており、それぞれの端は "月のサロン" [Salon de la Lune] と "太陽のサロン" [Salon du Soleil] になっている。 現在でもオペラ座主催の晩餐会が開かれ大統領などが出席する。
MAPLay. B (Plan)
ロッジア [Loggia]  (14:52)
グランドフォイヤー [Grand Foyer] から5つのガラス扉がロッジアにつながり、その様式はイタリアのルネサンスとフランスの17世紀と18世紀の両方のモデルを取り入れている。 ロッジアの両側にはエレガントなカンデラブラ [Candelabra] が、石の台で支えられ、壁面に沿って立てられている。  床は多色の大理石の舗装で覆われている。 パリでは、ガブリエルによって設計されたコンコルド広場に隣接する建物のギャラリーやクロードペロー [Claude Perrault] が設計したルーヴル宮殿の東部のファサードであるコロネード・デュ・ルーヴル [Colonnade du Louvre] (MAP) などの様式は、ガルニエの注目を集めることが出来る同等の様式を採用していた。
MAPLay. B (Plan)
オペラ通り [Avenue de l'Opéra]  (14:53)
ロッジアのバルコニーからの眺め。 ガルニエ宮正面からパレ・ロワイヤル (MAP) へ直に南下するオペラ座大通り [Avenue de l'Opéra] は、ガルニエ宮の建設工事の一環として開かれた。
MAPLay. B (Plan)
ロッジアのバルコニー (14:53)
この豪華なロッジアは、美しい季節に観客が利用するために残されたもので、柱間に設けられたバルコニーからは、ルーヴル美術館方向への展望が広がっている。
MAPLay. B (Plan)
オペラ通り [Avenue de l'Opéra]  (14:54)
9世紀後半にオスマンによって推進されたパリ近代化計画の1つに、入りくんだ路地裏を取り壊し、道幅の広い大通りを東西南北へ走らせる計画があった。 その事業で整備されたのが、このオペラ大通り。 その時にオペラ・ガルニエも建設されたが、今ではパリになくてはならない風景になっている。 一本隣りは日本食で有名なサン・タンヌ通り [Rue Sainte-Anne] (MAP) など、この周辺には日本語が通じるお店が多い。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:56)
暖炉の上のカリアティード [Caryatid] とセーヴル [Sèvres] の花瓶。 暖炉上の金めっきされた青銅のカリアティードは、壮大な階段の燭台 [Torcheres] を制作したのと同じアーティストで、アルバート・アーネスト・キャリア・ベリューズ [Albert-Ernest Carrier-Belleuse] の作品。 セーヴル [Sèvres] の花瓶は、Joseph Chéret の作品。 その上にある絵は、Jules-Élie Delaunay 作、アポロンは竪琴を受け取った〖Apollon recevant la lyre〗。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:58)
古典様式の豪華なロビー。 巨大な鏡とドア窓の効果で空間の広がりを演出する。 一面に描かれている天井画は、ポール・ポードリーが音楽史の寓話をモチーフに創作。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:59)
採光を兼ねて右側に並ぶガラス張りのドアは、ロッジア [Loggia] への出入口を兼ねている。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (14:59)
左側の壁面には、外観は同じで、Avant Foyer への出入口と巨大な鏡が交互に並べられている。 そして、それぞれに向かい合う形で右壁面にドア窓が設けられている。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (15:00)
右の窓際には、シャルル・ガルニエ [Charles Garnier] の胸像が置かれている。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (15:00)
ベル・エポック [Belle Époque] の華やかさを今に伝える豪華で優美な館内。
MAPLay. B (Plan)
グランドフォイヤー [Grand Foyer]  (15:00)
パール・ボードリーの天井画。 中央の長方形は「音楽」、西の端の楕円には「喜劇」が、東の端の楕円には「悲劇」が描かれている。
MAPLay. B (Plan)
Galerie du Glacier  (15:02)
長いギャラリーの突き当たりを右折すると、Salon du Glaciert があり、ジョルジュ・クレアリン(1843-1919)が描いた天井が飾られていている。 Saon du Glaciert の階下はオペラ・レストランになっている。
MAPLay. B (Plan)
円形劇場 [L'amphithéâtre]  (15:05)
天井部分はもともとジュール=ウジェーヌ・ルヌヴーによる天井画があった。 1964年に新しい天井画がマルク・シャガールによって描かれ、オリジナルが描かれていた撤去できないフレームに取り付けられた。 この天井画は14人の音楽家のオペラの場面を描いている。 ムソルグスキー、モーツァルト、ワーグナー、ベルリオーズ、ラモー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、アドルフ・アダム、ビゼー、ヴェルディ、ベートーヴェン、グルックである。  (シャガール美術館)
MAPLay. B (Plan)
円形劇場 [L'amphithéâtre]  (15:05)
オペラ座は1862年にナポレオン3世と知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン [Georges-Eugène Haussmann] により、35歳のシャルル・ ガルニエが設計をして建設を着工し、75年に完成した。 高さ 36m、幅15m、奥行24mの舞台を持ち、450名もの踊り子が壇上に上がれ、5層の観客席には2,200人を収容できる。 18世紀のサロンを拡大・発展させたものといわれる。 この劇場は社交の場としての趣が強く、本来の劇場として満足の出来る機能を備えていなかった。 そのため、1989年に新しいオペラ劇場としてオペラ・バスティーユ [Opéra Bastille] が造られ、以来ガルニエ宮では、バレエと小規模オペラ、管弦楽コンサートを中心とした運用が行われている。 ガルニエ宮では、舞台の見えないボックス席があり、観客が観客を物色するために設けられていた。
MAPLay. B (Plan)
『オペラ座の怪人』の舞台として知られるオペラ座 (15:09)
フランスの作家ガストン・ルルーによって1909年に発表された小説。 1909年9月23日から1910年1月8日まで日刊紙『ル・ゴロワ』に連載され、1910年3月下旬に Pierre Lafitte 社によって量産された。 これを原作として多数の映画、テレビ映画、ミュージカルなどが作られている。 最も有名なものは、1925年のロン・チェイニー主演映画『オペラの怪人』と1986年のアンドリュー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』である。 ガストンはオペラ座 (ガルニエ宮) を訪れて、不可思議な噂話を聞き込み、インスピレーションを得て『オペラ座の怪人』を書き上げた。
MAPLay. B (Plan)

オペラ座の怪人 (1925年) 、ミュージカル映画 (2004年)
『オペラ座の怪人』の舞台として知られるオペラ座 (15:09)
1896年、劇の上演中に火災で燃えて、シャンデリアの一つが釣り合いを取っていた重りの破壊によって天井から落下し、観客に死者が出た事実や、オペラ座で幽霊の噂話は当時からあり歌手が人知れず姿を消すこと、またオペラ座の地下に地底湖があるなどの事実がヒントになり、ガストン・ルルは、『オペラ座の怪人』の執筆にとりかかったといわれている。 地底湖 (下段参照) と云われているのは、オペラ座の建設の際に湧出した地下水の排出が困難なため、建築家のチャールズ・ガルニエは、外部の地下水からの水圧を緩和する目的と、また消火用水として利用できるため、二重基礎を設け、地下のベタ基礎と建物直下のベタ基礎の間に湧出した地下水をそのまま貯水している。 ストーリーで登場する "5番ボックス席" も実在している。
MAPLay. B (Plan)

オペラ座の怪人 (1925年) 、ミュージカル映画 (2004年)
オペラ座の地下にある地底湖 [Lac souterrain]
(Google Street View)
パリメトロ8号線・オペラ駅 [Opéra] (15:42)
ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] (オペラ座) を後に、エッフェル塔に向かう。
「北北東」MAPLay. B
パリメトロ8号線・オペラ駅 [Opéra] (15:42)
オペラ駅 (MAP) で乗車し、エッフェル塔近くのメトロ8号線・エコール・ミリテール駅 [École Militaire] (MAP) へ向かう。
「南東」MAPLay. B



エッフェル塔 [La tour Eiffel]
1889年のパリ万博のモニュメントと、革命100年を記念して建てられたもの。 設計者の名前、アレクサ ンドル・ギュスターヴ・エッフェルから命名。 当時はこの塔の建設に小説家のモーパッサンやグノーな どが反対運動を起こし、工事が中断したり20年後には取り壊す約束が交わされた。 1909年、パリ市議会は取り壊しの決議をしたが、アメリカ大陸との交信が始まり、ラジオ放送のアンテナとしての役割を受け現在に至る。

  セ・シ・ボン
シャン・ド・マルス公園 [Champ de Mars] (16:10)
ジャック・リュフ広場 [Place Jacques Rueff] からの眺め。
「北西」MAPLay. B
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:17)
パリのシンボルとも言えるエッフェル塔は、フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。  建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。 建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年にニューヨークにクライスラー・ビルが完成するまでは世界一高い建造物であった。 現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。 展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。 第2展望台までは階段でも昇ることが可能。 水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。
「北西」MAPLay. B
エッフェル塔の概観 水圧エレベーターの構造
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:20)
エッフェル塔の建設に先立ち、コンペティションが開かれ、ここで、アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル [Alexandre Gustave Eiffel] ほか2者の案が採用になった。 設計者が ステファン・ソーヴェストル [Stephen Sauvestre] 、または モーリス・ケクラン [Maurice Koechlin] とされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルと共にコンペに参加していた。 最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。
「西南西」MAPLay. B
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:21)
使用鉄製材は鋼製ではなく錬鉄製の塔で、塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキ (下段参照) がある。 また、総重量、約9700t から10,000t とされる塔を支える基礎には大きな荷重が掛かっており、 特に軟弱な地盤であるセーヌ川に面する2脚の基礎工事には、 潜函工法(ニューマチック・ケーソン)が採用されている。
「西南西」MAPLay. B
エッフェル塔のマウントを調整するために使用されている油圧ジャッキ。
(From La Nature, Feb. 18, 1888, vol. 16, p. 184.)
エッフェル [Eiffel] の胸像 (16:25)
アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル [Alexandre Gustave Eiffel] (1832年12月15日 - 1923年12月27日)は、フランスの技師、構造家、建設業者。 一般にはエッフェル塔を設計した人物として知られる。 エッフェル社鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクラン [Maurice Koechlin] と組立工法部部長エミール・ノウィエール [Émile Nouguier] らは1884年6月6日に塔の原案を作成し、建築部長ステファン・ソーヴェストルに相談する。 ステファン・ソーヴェストル [Stephen Sauvestre] は、この原案に修正を加え、1884年9月18日に、エッフェル、ケクラン、ノウィエールの3名で鉄塔の新案特許を登録した。 同年9月27日、設計図はバリ装飾美術展に展示されている。 エッフェルはコンテストへのプラン提出責任者であり、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。
「北」MAPLay. B
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:26)
現在、塔の中央部には工事用のエレベーターが設置されている。
「南東」MAPLay. B
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:28)
1887年から1889年にかけて、革命百周年記念となるパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔をシャン・ド・マルス公園 [Parc du Champ de Mars] 北端のセーヌ河畔に建設する。 完成当時は賛否両論だったが、今ではパリを代表するシンボルとなっている。 エッフェル塔の向こうに見える緑地が、シャン・ド・マルス公園。
「南東」MAPLay. B
エッフェル塔 [La Tour Eiffel] (16:38)
「南東」MAPLay. B



セーヌ河クルーズ [Croisière sur la Seine]
バトーパリジャン [Bateaux Parisiens] (パリのボート) にて、セーヌ河クルーズ。 エッフェル塔の下からモダンなデザインの遊覧船に乗って、セーヌ川クルーズへ出発。 一周は、約1時間で途中停泊なし。 全面ガラス張りの窓からは、歴史ある美しいパリの景色が楽しめる。 この日は、先日からの雨で河は増水し、一部の橋下を通過できなくなっていた為、通常ルートより短縮されたクルーズとなった。
因みに、パリの番地の付け方はセーヌ河を基準に付けられている。 川上から1,3,5,・・・35と奇数番号が付けられ35の次は1へ戻る。 通り名が変われば1から付け直し、河に垂直方向の通りは河に近い方から順に同じように1から奇数番号で35までの数字が用いられ、35を超えると1へ戻る。

  パリの空の下    巴里の空の下セーヌは流れる
アレクサンドル3世橋 [Pont Alexandre III] (17:27)
この橋は、フランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世 (アレクサンドル3世の長男) により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設、パリ市に寄贈された。 橋の中央の東側には、Neva河の妖精 (ニンフ) 像に囲まれ、ロシア帝国の紋章が飾られている。 (写真)
西側には、セーヌ河の妖精 (ニンフ) 像に囲まれた、パリ市の紋章が飾られている。 (Wikipedia)
いずれも、Georges Récipon の作品。
「北西」MAPLay. B
アレクサンドル3世橋 [Pont Alexandre III] (17:27)
パリで最も美しいといわれる鉄橋で、4隅にある高さ17m柱塔には、それぞれ芸術、農業、闘争、戦争を意味する女神像が立っている。 また、装飾にはそれぞれテーマがあって、中世のフランス、近代のフランス、ルネサンスのフランス、ルイ14世のフランスとなっている。
「北西」MAPLay. B
レオポール・セダール・サンゴール橋 [Passerelle Léopold-Sédar-Senghor] (17:32)
オルセー美術館とテュイルリー庭園を結んでいる現在の橋の設計を行ったのはマルク・ミムラム、建設は1997年から1999年の間に行われた。 セーヌ川を鋼鉄アーチで一跨ぎしているこの橋は上面がブラジル産の木材で覆われており軽く暖かい外観を持っている。 また、この橋は高水敷に設けられた遊歩道からも利用できるよう二重構造になっている。 (MAP)  この橋の成功でミムラムは1999年の銀の定規賞 (Équerre d'Argent) を受賞している。
2006年10月9日、セネガル*大統領レオポール・セダール・サンゴールにちなんでレオポール・セダール・サンゴール橋と改名された。
「北」MAPLay. B

セネガルは、当時フランス領西アフリカの一部であった。
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:33)
オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。 設計者は、国立美術学校の教授で建築家である ヴィクトール・ラルー(1850年 - 1937年)。
「南西」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:34)
オルセー美術館は嘗てオルセー駅であった。 オルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルであり、かまぼこ状の大屋根の下の地下に10線以上のホームを備えていた。 狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設を大幅に縮小した。 その後、この建物はさまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの女性建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。 こうして1986年、オルセー美術館が開館した。
「南西」MAPLay. B
ロワイヤル橋 [Pont Royal] (17:34)
1632年、徴税官のバルビエが木製の有料の橋を架けさせたのが最初。  この橋は古くなったり、火事にあったりして何度か架け替えられている。 1685年から1689年にかけて、ルイ14世が出資し石造アーチ橋が架けられたことから、王を意味するロワイヤルの名が付けられた。 設計を担当したのはジャック・ガブリエル、ジュール・アルドゥアン=マンサールとフランソワ・ロラン。 18世紀にはお祭り騒ぎがあると人々は好んでこの橋に集まってきたと云われている。
左端の建物は、ルーブル美術館大学 [L'École du Louvre] 。
「東北東」MAPLay. B
ルーブル美術館大学 [L'École du Louvre] (17:35)
建物の左端は、ルーブル美術館大学 [L'École du Louvre] 。 橋は、ロワイヤル橋 [Pont Royal] 。
「北」MAPLay. B
アール橋 [Le pont des Arts] (17:39)
アール橋は、歩行者専用の橋で、人気の橋の一つ。 他の橋と比べ簡易的な造りで、歩行面が木製であるなど、風情があり人気。 また、欄干に取り付けられた、無数の「愛の南京錠」も有名。 (下段写真)
右のドーム型の建物は、図書館 [Bibliothèque Mazarine] 、美大/芸術学部/美術学校 [Académie Des Beaux-Arts] 、カルチャーセンター [Institut de France] 。
「南東」MAPLay. B
ポン・デザール [Pont des Arts] (アール橋)
セーヌ河にいくつも架かる橋の一つが、恋人達の聖地として名所となっている。 橋のフェンスいっぱいに付けられた錠前は、永遠の愛を誓う恋人達のモニュメント。 二人の名前を記した南京錠をフェンスに付け、鍵を河に投げ捨てることで恋の成就を願う。
(Google Street View)
アール橋 [Pont des Arts ] (17:39)
右のドーム型の建物は、図書館 [Bibliothèque Mazarine] 、美大/芸術学部/美術学校 [Académie Des Beaux-Arts] 、カルチャーセンター [Institut de France] 。
「南南東」MAPLay. B
アール橋 [Pont des Arts ] (17:39)
右のドーム型の建物は、図書館 [Bibliothèque Mazarine] 、美大/芸術学部/美術学校 [Académie Des Beaux-Arts] 、カルチャーセンター [Institut de France] 。
「東南東」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:42)
美術館の建物は、1900年のパリ万博のためにヴイクトール・ラルーがオルセー駅として建設したもの。 1986年に美術館として模様替えされ、1848年から1914年までの絵画、彫刻など印象派の作品を中心に、フランスの「古き良き時代」を掘り起こしている。 ルノワール、ゴッホ、ゴーギヤン、ドガ、マネ、モネ、ルソー、ロダンなどの名画が展示されている。
「西南西」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:42)
「西南西」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:42)
後方の橋は、ロワイヤル橋 [Pont Royal] 。
「南」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:43)
後方の橋は、ロワイヤル橋 [Pont Royal] 。
「東南東」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:43)
後方の橋は、ロワイヤル橋 [Pont Royal] 。
「南南東」MAPLay. B
オルセー美術館 [Musée d'Orsay] (17:43)
後方の橋は、ロワイヤル橋 [Pont Royal] 。
「南東」MAPLay. B
レオポール・セダール・サンゴール橋 [Passerelle Léopold Sédar Senghor] の直下 (17:43)
上を見ると、橋桁は鉄製で、橋板は木製であることが分かる。
「南東」MAPLay. B
レオポール・セダール・サンゴール橋 [Passerelle Léopold Sédar Senghor] (17:44)
オルセー美術館とテュイルリー庭園を結んでいる現在の橋の設計を行ったのはマルク・ミムラム、建設は1997年から1999年の間に行われた。 セーヌ川を鋼鉄アーチで一跨ぎしているこの橋は上面がブラジル産の木材で覆われており軽く暖かい外観を持っている。 また、この橋は高水敷に設けられた遊歩道からも利用できるよう二重構造になっている。 (MAP)  この橋の成功でミムラムは1999年の銀の定規賞 (Équerre d'Argent) を受賞している。
2006年10月9日、セネガル*大統領レオポール・セダール・サンゴールにちなんでレオポール・セダール・サンゴール橋と改名された。
「南東」MAPLay. B

セネガルは、当時フランス領西アフリカの一部であった。
コンコルド橋 [Pont De la Concorde] の直下にて (17:44)
コンコルド橋は、コンコルド広場とオルセー河岸 [Quai d'Orsay] を結んでいる橋で、名前がルイ16世橋、革命橋、コンコルド(調和)橋と二転三転したことで知られている。 コンコルド橋と呼ばれるようになったのは1830年から。
「南東」MAPLay. B
アレクサンドル3世橋 [Pont Alexandre III] (17:46)
右岸、左岸の両岸を結ぶ橋は支柱を一本も置くことなく、エッフェル塔と同様に当時最新の鉄鋼アーチ構造で作られている。
この橋は、フランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世 (アレクサンドル3世の長男) により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設、パリ市に寄贈された。 橋の中央の東側には、Neva河の妖精 (ニンフ) 像に囲まれ、ロシア帝国の紋章が飾られている。 (写真)
西側には同じく、セーヌ河の妖精 (ニンフ) 像に囲まれた、パリ市の紋章が飾られている。 (Wikipedia)
いずれも、Georges Récipon の作品。
「西南西」MAPLay. B
イエナ橋 [Pont d'Iéna] (17:54)
陸軍士官学校(エコール・ミリテール) に面する橋の建設を決めたのはナポレオンで命令は1807年、ワルシャワから発せられた。 橋の名前はもともと「シャン・ド・マルス橋」または「士官学校橋」になるはずだったが1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いの勝利から取られた「イエナ橋」になった。
「東北東」MAPLay. B

出典:Wikipedia
セーヌ河の左岸*に立つエッフェル塔 (17:55)
「北東」MAPLay. B

河川を上流から下流に向かって眺めたとき、右側を右岸,左側を左岸と呼ぶ。
自由の女神の像 [Statue de la Liberté Paris] (17:58)
フランスのパリにある自由の女神像は、フランスがアメリカにアメリカ合衆国の独立100周年を記念し、自由の女神像を贈ったことへの返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念してフランスへ贈ったもの。 
設計はニューヨークにある自由の女神像と同じく、フレデリク・バルトルディよるもので、除幕も彼の手によって1889年に行われた。 左腕に抱える銘板には、フランス革命のきっかけとなったバスティーユ牢獄襲撃が起こった1789年7月14日の日付が刻まれている。
「世界を照らす自由の女神」-フレデリク・バルトルディの彫刻による自由の女神像は鉄の骨組みの上に銅をかぶせたもので、骨組みの設計と施工は、エッフェル塔の設計者であるギュスターヴ・エッフェルが担当した。 1884年パリのモンデュイ社 [Les Ateliers Monduit] で製作しアメリカへ贈られ、1886年ニューヨークで祝賀会が催されている。 1889年には、このパリの女神像も担当した。
「東」MAPLay. B
グルネル橋 [Pont de Grenelle] (17:59)
白鳥の島(白鳥の小径)を跨ぎ、15区のリノワ通りと16区のプレジダン・ケネディ(河岸)通りを結んでいる。 白鳥の島の上流側はビラケム橋が跨ぎ、下流側はグルネル橋が跨ぐ。 下流側先端には自由の女神像が設置されている。 現在の橋は1873年に架けられた鋳鉄製の橋を1966年に架け替えたもので、鋼鉄製である。
「北東」MAPLay. B
バトーパリジャン [Bateaux Parisiens] の乗船場 (18:16)
「北」MAPLay. B
バトーパリジャン [Bateaux Parisiens] の乗船場 (18:19)
下船後、イエナ橋の袂からの眺め。
「北北東」MAPLay. B
バトーパリジャン [Bateaux Parisiens] の乗船場 (18:20)
下船後、イエナ橋からの眺め。
「北東」MAPLay. B
イエナ橋 [Pont d'Iéna] にて (18:21)
この後、トロカデロ広場を経て、メトロ6号線・トロカデロ駅 [Trocadéro] へ向かう。
「南東」MAPLay. B
イエナ橋 [Pont d'Iéna] にて (18:21)
この後、トロカデロ広場を経て、メトロ6号線・トロカデロ駅 [Trocadéro] へ向かう。
「北東」MAPLay. B
イエナ橋 [Pont d'Iéna] からの眺め (18:22)
「北東」MAPLay. B




トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro]
ナポレオン追放後の復古王政期の1824年、フランス王国軍の「トロカデロの戦い」において、スペインのトロカデロ (MAP) の砦を占領し、勝利したことを記念して、丘一帯は "トロカデロ" と名付けられ、エコール・ミリテール(陸軍士官学校) (MAP) 、シャン・ド・マルス公園 (MAP) 、イエナ橋 (MAP) から直線上に繋がるシャイヨ一帯の大規模建築造成活動が実施され、その際、トロカデロ庭園と名付けられた。 しかし、大規模建築造成は完成を見なかった。 その後、1876年建造の旧トロカデロ宮殿が取り壊され、新宮殿である現在のシャイヨ宮が建てられた。

  パリの空の下
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro] (18:28)
「南東」MAPLay. C
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro] (18:29)
「南東」MAPLay. C
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro] (18:36)
「南東」MAPLay. C
トロカデロ庭園 [Jardins du Trocadéro] (18:38)
この後、メトロ6号線のトロカデロ駅 [Trocadéro] から シャルル・ド・ゴール・エトワール駅 [Charles de Gaulle Étoile] (エトワール凱旋門) へ向かう。
「南東」MAPLay. C
メトロ6号線のトロカデロ駅 [Trocadéro]
この駅から、エトワール凱旋門のある "シャルル・ド・ゴール・エトワール駅" [Charles de Gaulle Étoile] (MAP) へ向かう。
「北北東」MAPLay. C



エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile]
この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びておりその形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は "星の広場"(エトワール広場) [la place de l'Etoile] と呼ばれていた。 そのため、 "エトワール広場の凱旋門" の意味の [Arc de triomphe de l'Etoile] との正式名称がある。 但し、現在この広場は "シャルル・ド・ゴール広場" [Place Charles-de-Gaulle] と名称が変更になっている。 第二次世界大戦の末期、ナチスの占領からパリを解放したシャルル・ド・ゴール将軍がこの門を通って行進したことでも有名。

愛の賛歌
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile] (19:05)
アーチの内側には、フ ランス革命で活躍した革命家や帝国時代の将軍の名前が刻まれている。
「南南西」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:19)
左の通りは、マック・マオン通り [Avenue Mac-Mahon] 。 中央の通りは、ワグラム通り [Avenue de Wagram] 。 右の通りは、オッシュ通り [Avenue Hoche] 。
凱旋門の屋上までは螺旋階段で登る。 高さは約50メートル。 日本のビルで約12階分。 尚、エレベーターは設置されているが、車椅子利用者・身体障害者のための専用エレベーターとなっている。
「北北東」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:20)
左の通りは、フォッシュ通り [Avenue Foch] 。 中央の通りは、グランド・アルメ通り [Avenue de la Grande-Armée] 。 右の通りは、カルノ通り [Avenue Carnot] 。
「西北西」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:21)
左の通りは、イエナ通り [Avenue d'Iéna] 。 中央の通りは、クレベール通り [Avenue Kléber] 。 右の通りは、ヴィクトル・ユゴー通り [Avenue Victor Hugo] 。
「南南西」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:22)
「南」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:25)
左の通りは、フリドラン通り [Avenue de Friedland] 。 中央の通りは、シャンゼリゼ通り [Av. des Champs-Élysées] 。 右の通りは、マルソー通り [Avenue Marceau] 。
「東南東」MAPLay. C
凱旋門の屋上にて (19:27)
「西北西」MAPLay. C
凱旋門の屋上にて (19:28)
フランスのパリは厳格な高さ制限が実施されていることで知られる。 現在のパリの街並みの骨格をつくったのは、19世紀におけるパリの大改造で、当時のセーヌ県知事のオスマンは、パリの大改造にあたり、住宅の高層化は日照、採光、通風を妨げ、衛生環境を損なうことや、交通、治安、人口分散の面でも支障を来すため、高さ制限が実施された。 そして、その結果、美しい街並みが保たれている。
(最近は、市の外周道路の拠点地域で高さ制限の緩和が検討されている。)
「東北東」MAPLay. C
凱旋門の屋上にて (19:28)
「南南西」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:30)
写真の中央、モンマルトル [Montmartre] の丘の上に建つ高い建物は、サクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur] 。
「東北東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Av. des Champs-Élysées] (19:31)
長さ約3km、幅70mの大通り。 マロニエ (マロンの木) やプラタナス (スズカケの木) の並木道となっていて、オベリスクのあるコンコルド広場まで全長約3km続き、パリの観光スポットとなっている。 この通りは、パリの歴史軸の一部を担っている。
「東南東」MAPLay. C

オー・シャンゼリゼ』という流行歌で日本でも広く知られるようになった。
凱旋門の屋上からの眺め (19:31)
金色のドーム型の建物がある場所は、ルイ14世時代に建てられたアンヴァリッドで、廃兵院とも言われる旧軍病院。 今は軍事博物館として建物の一部が公開されており、古代から現代までの世界最大級の軍事コレクションが見学できる。 金色のドーム型の建物は、ナポレオン眠る黄金のドーム型教会。
「南南東」MAPLay. C
凱旋門の屋上からの眺め (19:33)
道路を跨ぐように立つ中央の四角い建物は、グランダルシュ [Grande Arche de la Défense] 。
グランダルシュは、フランスのパリ近郊のラ・デファンスにある超高層ビル、1985年に着工され、人権宣言200周年となる1989年7月に落成記念式典が執り行われた。 門のような形をしており、側面と内部は全面ガラス張りになっている。 パリの歴史軸上にあり、日本では新凱旋門とも称される。
「西北西」MAPLay. C
凱旋門の内部 (19:37)
MAPLay. C
凱旋門の内部 (19:39)
MAPLay. C
凱旋門の内部 (19:40)
MAPLay. C
凱旋門の内部 (19:42)
凱旋門の屋上までは螺旋階段で登る。 高さは約50メートル。 日本のビルで約12階分。 尚、エレベーターは設置されているが、車椅子利用者・身体障害者のための専用エレベーターとなっている。
MAPLay. C
エトワール凱旋門 (19:46)
エトワール凱旋門は、パリを世界一の首都にするため記念建造物で埋め尽くそうとしたナポレオン1世(1769-1821)の命を受け、フランスの建築家 "J.F.TH.シャルグラン" [Jean-François-Thérèse Chalgrin] (1739-1811)の設計に基づいて1806年に着工、ナポレオン政権の崩壊により中断し、工事開始から30年を経た1836年に完成した高さ約50m、幅45mの門。 ナポレオン1世は完成後の1840年にセン卜・ヘレナ島から遺骸となってパリに帰還し、その葬列が凱旋門をくぐっている。
「北西」MAPLay. C
エトワール凱旋門 (19:47)
前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まり、ルイ・フィリップの王政復古時代、1836年に完成した。 ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年12月15日にセントヘレナ島から戻ったナポレオンの遺体がアンヴァリット (MAP) に改葬された時であった。 この門の設計はシャルグラン [Jean-François-Thérèse Chalgrin] で、高さが50m、幅45mある。 古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。 エトワール凱旋門の真下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。  (MAP)
フランスでは第一次世界大戦の方が、死傷者は多かった。
「北西」MAPLay. C
シャルルドゴール広場 [Place Charles de Gaulle] から見るシャンゼリゼ通り (19:47)
「東南東」MAPLay. C
シャルルドゴール広場 [Place Charles de Gaulle] から見るシャンゼリゼ通り (19:47)
「東南東」MAPLay. C
エトワール凱旋門 (19:48)
「西北西」MAPLay. C
エトワール凱旋門 (19:48)
「西北西」MAPLay. C
エトワール凱旋門のレリーフ (19:49)
1792年の義勇兵の出陣 [Le Depart, 1792] フランソワ・リュード [François Rude] 作。 通称、ラ・マレセイエーズ (マルセイユの歌) [La Marseillaise] とも言われ、現在、 フランスの国歌となっている。 もとはフランス革命のときの革命歌で、マルセイユの連盟兵(義勇兵)が歌って広めたことからこの名前がある。
「北北西」MAPLay. C
エトワール凱旋門のレリーフ (19:49)
1810年の勝利 [Le Triomphe, 1810] (ウイーン講話条約を祝う)ジャン・ピエール・コルトー [Jean Pierre Cortot] 作。 オーストリアとの戦闘後のウイーン講話条約を祝った「1810年の勝利」の彫刻であり、ナポレオンが勝利の女神から月桂冠を授かっている様子を描いている。
「西」MAPLay. C
エトワール凱旋門のレリーフ (19:49)
アボウキルの戦い [La bataille d'Aboukir] (1799.7.25) バーナード・シュール [Bernard Seurre] 作。
「西」MAPLay. C
エトワール凱旋門のレリーフ (19:49)
マルソー将軍の葬儀 [Les funérailles du général Marceau] (1796.9.20) アンリ・ルメール [Henri Lemaire] 作。
「北北西」MAPLay. C
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile] (19:49)
アーチの内側には、フ ランス革命で活躍した革命家や帝国時代の将軍の名前が刻まれている。
「西北西」MAPLay. C
凱旋門のチケット売り場 (19:52)
凱旋門へは、地上から直接行くことが出来ず、いったん地下道へ下りて、この通路を通って再び地上に出る。 凱旋門の屋上に上る場合は、ここでチケットを購入する。 ただ単に、凱旋門の下に行くだけであれば、右の通路を素通りすれば凱旋門直下の地上に出る。
MAPLay. C (Google Street View)



シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées]
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (13:47)
フランス・パリの市内北西部にある大通りで、パリ市内で最も美しい通りとされている。 特にフランスでは、世界で最も美しい通り [la plus belle avenue du monde] と言う表現が使われている。 『オー・シャンゼリゼ』* という流行歌で日本でも広く知られるようになった。 因みに、街路樹はマロニエマロンの木) や プラタナス (スズカケの木) 。

日本では、1970年にフランス人歌手ダニエル・ヴィダルのヴァージョンで大ヒットした曲で、いかにもパリらしい軽快なフレンチポップスであるが、オリジナル曲はイギリスのサイケデリック・バンドの4枚目のシングル曲で、ロンドンの "ウォータールー通り" (MAP) を歌った 『 ウォータールー・ロード [Waterloo Road] 』 である。

オー・シャンゼリゼ
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (19:55)
「東南東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (19:55)
「東南東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (19:55)
「東南東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (19:56)
「西北西」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (19:58)
小雨のシャンゼリゼ通り。
「東南東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (20:00)
小雨のシャンゼリゼ通り。
「西北西」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (20:00)
小雨のシャンゼリゼ通り。
「南東」MAPLay. C
シャンゼリゼ通り [Avenue des Champs-Élysées] (20:00)
この後、雨脚が強まったため、コンコルド広場まで歩かず、 "フランクラン・D・ローズヴェルト" [Franklin D. Roosevelt] 駅でメトロ1号線に乗車し、"コンコルド" [Concorde] 駅へ向かう。 コンコルド駅でメトロ12号線に乗り換え、 "サン・ラザール" [St.Lazare] 駅で下車、ホテル・コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] へ戻る。
「西北西」MAPLay. C


back home next