旅の栞(France)

10月24日 (地図)

パリ [Paris]

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
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パリ [Paris]
フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。 また、近代国家の首都として、或いは欧州文化・商業の中心地として、常に注目を浴び続けている。 歴史的建造物や見所が集中する年間外国人観光客数 世界一を誇る観光都市でもある。 パリ [Paris] の語源は「田舎者、乱暴者」を意味する "パリーズィイ" [Parisii](複数形)、"パリージォス" [Parisius] (単数形)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称。 紀元前6世紀には、すでにケルト人の集落が形成されていた。
シャイヨー宮 [Palais de Chaillot] からの眺望 (08:18)
1937年のパリ万国博覧会にあわせ、旧トロカデロ宮殿が取り壊され、新宮殿である現在のシャイヨー宮が建てられた。 旧トロカデロ宮と同じく、湾曲した双翼の形を成しているが、旧宮殿と違い中央部が無く、両翼は離れている。 その結果、トロカデロ広場からエッフェル塔方面への眺瞰が確保されており、絶好のビューポイントになっている。 内部は現在、博物館になっている。
「南東」MAPLay.1A
シャイヨー宮からの眺望(08:19)
「南東」MAPLay.1A
シャイヨー宮からの眺望(08:19)
「南東」MAPLay.1A
シャイヨー宮 [Palais de Chaillot] からの眺望(08:19)
1937年のパリ万国博覧会にあわせ、旧トロカデロ宮殿が取り壊され、新宮殿である現在のシャイヨー宮が建てられた。 旧トロカデロ宮と同じく、湾曲した双翼の形を成しているが、旧宮殿と違い中央部が無く、両翼は離れている。 その結果、トロカデロ広場からエッフェル塔方面への眺瞰が確保されており、絶好のビューポイントになっている。 内部は現在、博物館になっている。
「南東」MAPLay.1A
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile](08:28)
1805年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。 ルイ・フィリップの王政復古時代、1836年に完成したが、ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。
「北」MAPLay.1B
エトワール凱旋門 [Arc de triomphe de l'Étoile](08:28)
パリの象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことが多く、世界有数の観光名所となっている。 この凱旋門を中心に、12本の通りが放射状に延びており俯瞰すると「星=étoile」のように見えることから、この広場は "星の広場(エトワール広場)" [la place de l'Etoile] と呼ばれていた。 そのため、 "エトワール広場の凱旋門" の意味で [Arc de triomphe de l'Etoile] との正式名称がある。 但し、現在この広場は "シャルル・ド・ゴール広場" [la place de Charles de Gaulle] と改名されている。
「北北西」MAPLay.1B
シャンゼリゼ通り [L'Avenue des Champs-Élysées](08:29)
シャンゼリゼ通り [L'Avenue des Champs-Élysées] フランス・パリの市内北西部にある大通りで、パリ市内で最も美しい通りとされている。 特にフランスでは "世界で最も美しい通り" [la plus belle avenue du monde] と言う表現が使われている。 日本では、 『オー・シャンゼリゼ [Les Champs-Élysées]』* という流行歌のおかげで、広く知られるようになった。
「東」MAPLay.1C

 日本では、1970年にフランス人歌手ダニエル・ヴィダルのヴァージョンで大ヒットした曲で、いかにもパリらしい軽快なフレンチポップスであるが、オリジナル曲はイギリスのサイケデリック・バンドの4枚目のシングル曲で、ロンドンの "ウォータールー通り" を歌った 『ウォータールー・ロード[Waterloo Road]』 である。
  オー・シャンゼリゼ  「訳詞
シャンゼリゼ通り [L'Avenue des Champs-Élysées](08:31)
シャンゼリゼ通り [L'Avenue des Champs-Élysées] フランス・パリの市内北西部にある大通りで、パリ市内で最も美しい通りとされている。 特にフランスでは "世界で最も美しい通り" [la plus belle avenue du monde] と言う表現が使われている。 日本では、 『オー・シャンゼリゼ [Les Champs-Élysées]』* という流行歌のおかげで、広く知られるようになった。
「東」MAPLay.1C

 日本では、学校の音楽の教科書に取り上げられたり、CMなどで使用されたりしたおかげで、メロディがそのままパリのシャンゼリゼ大通りのイメージと直結する曲になっているが、オリジナル曲はイギリスのサイケデリック・バンドの4枚目のシングル曲で、ロンドンの "ウォータールー通り" を歌った 『ウォータールー・ロード[Waterloo Road]』 である。
  オー・シャンゼリゼ  「訳詞
テュイルリー通り [Quai des Tuileries](08:36)
右手に見える橋は、セーヌ川 [La Seine] に架かるコンコルド橋 [Pont de la Concorde] 。
「南」MAPLay.1D
ルーヴル宮殿の東ファサード、ペローのコロネード [Perrault's Colonnade](08:40)
1760年から1820年にかけて、「新古典主義」 という芸術の潮流が生まれ、1667年にクロード・ペロー [Claude Perrault] が手がけたルーヴル宮殿の東ファサードのコロネード(列柱)[Colonnade] はこの建築ジャンルのモデルとなった。
「北」MAPLay.1E
コンシェルジュリー [Conciergerie](08:47)
フランスのパリ1区、シテ島西側にある、かつての牢獄。 現在はパリのパレ・ド・ジュスティス(司法宮)の一部で、観光名所となっている。
「西」MAPLay.1F
メギッスリー通り [Quai de la Mégisserie](08:47)
左手にはセーヌ川が流れ、その向こうにはコンシェルジュリー [Conciergerie] がある。
「西」MAPLay.1F
ノートルダム橋 [Pont Notre Dame](08:48)
ジェヴル通り [Quai de Gesvres] からの眺望。 手前はノートルダム橋 、その後方はホテルデュー [Hôtel-Dieu] 、さらにその後方に見える塔はノートルダム寺院の塔。
「南」MAPLay.1G
シャンジュ橋 [Pont au Change](08:48)
ジェヴル通り [Quai de Gesvres] からの眺望。 その後方は、コンシェルジュリー [Conciergerie] 。
「西」MAPLay.1H
ノートルダム橋 [Pont Notre Dame] の袂(08:49)
ジェヴル通り [Quai de Gesvres] からの眺望。 右下の道路は、ジョルジュ・ポンピドー道路 [Voie Georges Pompidou] 。
「南東」MAPLay.1I
ノートルダム橋 [Pont Notre Dame] からの眺望(08:50)
前方の橋は、シャンジュ橋 [Pont au Change] 。 右下の道路は、ジョルジュ・ポンピドー道路 [Voie Georges Pompidou] 。
「西」MAPLay.1J
ノートルダム橋上(08:50)
中央の建物は、パリの商事裁判所兼の記所 [Greffe du Tribunal de commerce de Paris] 。
「南西」MAPLay.1J
ノートルダム橋上(08:50)
左はシテ島 [Île de la Cité] 。
「西北西」MAPLay.1K
ノートルダム橋上からの眺望(08:51)
右端に見える建物は、市立劇場 [Théâtre de la Ville] 。 中央やや右に見える建物は、シャトレ劇場 [Théatre du Chatelet] 。
「北西」MAPLay.1L
シテ島 [Île de la Cité] 側から見るノートルダム橋 (08:52)
対岸の左袂に見える建物は、警察署 [Préfecture de Police] 。
「北北東」MAPLay.1L
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](08:55)
ノートルダムとは、「我らが貴婦人」 の意味で、聖母マリアのことを指す。 セーヌ河を背にしてシテ島に立つ白い姿はまさに貴婦人を思わせる。 世界的に有名なこの大聖堂は、12世紀ゴシック建築の最高峰で世界遺産にも登録されている。 また、1831年出版の ヴィクトル・ユーゴーの小説 『ノートルダム・ド・パリ』[Notre-Dame de Paris] (邦題 "ノートルダムのせむし男" ) の舞台となったことでも、よく知られている。 因みに、 1996年公開のディズニーの長編アニメーション映画である 『ノートルダムの鐘』 の原題は "ノートルダムのせむし男" [The Hunchback of Notre Dame] であったが、 この "せむし男" が放送コードに抵触するため、放送では "ノートルダムの鐘" に変更された。
「南東」MAPLay.1M
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](08:56)
パリのノートルダム大聖堂 [Cathédrale Notre-Dame de Paris] はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。 "パリのセーヌ河岸" という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。
「南東」MAPLay.1M
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](08:57)
この大聖堂は、パリのノートルダム大聖堂。 ノートルダム教会、ノートルダム寺院、ノートルダム大聖堂は、聖母マリアに捧げられ、名付けられた教会堂であるため、ノートルダムを冠した教会堂は世界各地のフランス語圏の都市に多く建てられている。
「南東」MAPLay.1N
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](08:57)
上部にユダヤとイスラエルの王28名の彫像が並ぶ。 左側から聖母マリア、最後の審判、聖アンナの門となる。 中央の花びらを模した円形の窓は、バラ窓と言われ、内部にはステンドグラスが嵌められている。 現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。
「南東」MAPLay.1N
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:11)
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。 1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。 最終的な竣工は1345年。 全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:12)
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:13)
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:13)
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:14)
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:14)
花びらを模した円形の窓は、バラ窓と言われ、ステンドグラスが嵌められている。
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:15)
1804年5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルトの戴冠式は1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われた。
MAPLay.1O
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:20)
3つある門のうち、左の聖母マリアの門。
「東」MAPLay.1P
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:20)
ファサードの左から3番目の人物はパリで殉教した有名な聖人サン・ドニ。 斬首後、自分の首を持って歩いたとされている。
「東」MAPLay.1P
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:22)
3つある門のうち、左の聖母マリアの門。
「南南東」MAPLay.1P
ポワン・ゼロ・デ・ルート・ド・フランス[Point Zéro des Routes de France](09:22)
ノートルダム大聖堂の真ん前がパリから各都市への距離を表す際の起点になっている。 まさにパリの中心的存在!
「北西」MAPLay.1P
ポワン・ゼロ・デ・ルート・ド・フランス[Point Zéro des Routes de France](09:24)
ノートルダム大聖堂の真ん前がパリから各都市への距離を表す際の起点になっている。 まさにパリの中心的存在!
「北西」MAPLay.1P
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:29)
ノートルダム寺院の後方に位置する正方形の庭園で、教皇に因んで命名された "スクエア・ジャンXXIII" [Square Jean XXIII] 。  建物は、後陣 (アプス) 側から見た大聖堂で、手前に見える噴水は、聖母の噴水。
「北西」MAPLay.1Q
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:29)
ノートルダム寺院の後方に位置する正方形の庭園で、教皇に因んで命名された "スクエア・ジャンXXIII" [Square Jean XXIII] 。  建物は、後陣 (アプス) 側から見た大聖堂で、手前に見える噴水は、聖母の噴水。
「北西」MAPLay.1Q
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:32)
ノートルダム寺院の後方に位置する正方形の庭園で、教皇に因んで命名された "スクエア・ジャンXXIII" [Square Jean XXIII] 。  建物は、後陣 (アプス) 側から見た大聖堂で、左手に見える噴水は、聖母の噴水。
「北西」MAPLay.1R
ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris](09:33)
ノートルダム寺院の後方に位置する正方形の庭園で、教皇に因んで命名された "スクエア・ジャンXXIII" [Square Jean XXIII] 。  建物は、後陣 (アプス) 側から見た大聖堂。
「北西」MAPLay.1R
クロワトル・ノートル・ダム通り [Rue du Cloître Notre Dame](09:46)
通りの左手に、ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris] が見える。
「西」MAPLay.1S
ノクロワトル・ノートル・ダム通り [Rue du Cloître Notre Dame](09:46)
通りの左手の建物は、ノートルダム寺院 [Cathédrale Notre-Dame de Paris] 。
「西」MAPLay.1S
パリ市庁舎 [Hôtel de Ville](09:57)
ルネッサンス様式とベル・エポック様式が混在する装飾が華やかな市庁舎。 1871年に火災で焼失したが、1882年、建設当時の姿そのままに復元され、精巧な石細工や尖塔、広場を見下ろす沢山の彫像が施されている。 ファサード中央の大時計の下には「自由、平等、博愛」の文字が刻まれ、冬には正面広場にスケート場が設けられる。
「北東」MAPLay.1T
パリ市庁舎 [Hôtel de Ville](09:57)
「オテル・ド・ヴィル」と呼ばれるこの豪華なルネサンス様式の建物は、実はパリの市庁舎で、14世紀から600年以上もパリを見守っている。 その存在感のあるこの建物は、世界遺産として登録され、1357年に現在の場所に移転した後、1871年のパリ・コミューンで一度焼失したが、1882年に再建され、今も市庁舎として使われている。
「東北東」MAPLay.1U
パリ市庁舎 [Hôtel de Ville](09:58)
白にグレーの屋根が青空とセーヌ川に見事に調和しており、外観だけでも一目見ようと世界中から観光客が訪れる。 その市庁舎には、フランスの歴史的人物を現す136体の像が飾られている。
「東北東」MAPLay.1V
パリ市庁舎 [Hôtel de Ville](09:58)
パリ市庁舎といえば、もうひとつ有名なのが、フランス人写真家ロベール・ドアノー 。 彼の「パリ市庁舎前のキス」と題された、カップルがパリ市庁舎の前でキスをする風景を撮った作品は、パリ=ロマンティックというイメージを世界中に知らしめた代表的作品のひとつ。 (作品は下)
「東北東」MAPLay.1V
 
 フランス人写真家ロベール・ドアノー [Robert DOISNEAU] の "市庁舎前のキス,パリ" [La baiser de l'Hotel de Ville, Paris] と題された作品。
オペラ・ガルニエ(ガルニエ宮) [L'Opera Garnier](10:22)
パリ観光の中心地・オペラ座のシンボル「オペラ・ガルニエ」 。 ナポレオンに命じられて造られたこの劇場では、年間を通してオペラの名作や一流バレーの公演が毎晩のように行われている。 オペラ座の内装は豪華絢爛なバロック様式で、美しい彫刻やモザイクが煌びやかに飾られている。 中でも劇場ホールのシャガール作の天井画はあまりにも有名。 因みに、国立パリ・オペラ座のための大劇場には、「オペラ・バスティーユ」もあるが、単にオペラ座と言えば「オペラ・ガルニエ」を指す。
「北西」MAPLay.1W
ロシュシュアール大通り [Boulevard de Rochechouart](10:38)
"ロシュシュアール大通り" からステンケルク通り [Rue de Steinkerque] を望む。 通りの向こうに見えるのは、サクレ・クール寺院。
「北」MAPLay.1X
ステンケルク通り [Rue de Steinkerque](10:40)
「北」MAPLay.1Y
ステンケルク通り [Rue de Steinkerque](10:42)
通りの向こうに見えるのは、サクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur] 。
「北」MAPLay.1Z
フニクレール麓駅 [Funiculaire - Gare Basse](10:44)
シュザンヌ・ヴァラドン広場 [Place Suzanne-Valadon] にあるケーブルカーの麓駅。 フニクレール [Funiculaire] はモンマルトル [Montmartre] の頂上付近と麓を結ぶケーブルカー。
「北」MAPLay.2A 
フニクレール麓駅 [Funiculaire - Gare Basse](10:46)
シュザンヌ・ヴァラドン広場 [Place Suzanne-Valadon] にあるケーブルカーの麓駅。 フニクレール [Funiculaire] はモンマルトル [Montmartre] の頂上付近と麓を結ぶケーブルカー。
「北」MAPLay.2A
モンマルトル[Montmartre] のノルヴァン通り [Rue Norvins](10:57)
モンマルトルはパリで一番高い丘。 サクレ・クール寺院を始め、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがあり、パリ有数の観光名所になっている。 モンマルトルに纏わる絵画に ピエール=オーギュスト(オギュスト)・ルノワール [Pierre-Auguste Renoir] が描いた有名な 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 (1876年) がある。
「北西」MAPLay.2B
モンマルトル[Montmartre] (10:58)
テルトル広場 [Place du Tertre] 。 モンマルトルの丘にある広場で、標高は約130メートル。 かつてのモンマルトル村の中心地。 手前の通りは、ノルヴァン通り [Rue Norvins] 。
「南南西」MAPLay.2C
モンマルトル[Montmartre] (10:58)
テルトル広場 [Place du Tertre] は、小さな丘を意味するテルトル[Tertre] から、この名が付けられた。 多くの画家が集まり観光客の似顔絵を描いている。 20世紀初頭、モンマルトルが現代美術の中心だった時代には、パブロ・ピカソやモーリス・ユトリロなど多くの画家がこの地で暮らした。 但し、現在、ここに居る画家の多くは、"画家の卵" ではなく、孵化しない"画家の茹で卵" と揶揄されている面もある。
「南南西」MAPLay.2C
モンマルトル[Montmartre] (10:59)
前方に見える建物は、サンピエール·ド·モンマルトルの教区 [Paroisse Saint-Pierre de Montmartre] 。
「東」MAPLay.2D
モンマルトル[Montmartre] (11:00)
西暦250年頃、パリ最初の司教聖ディオニュシウス [Dionysius]* (サン・ドニ) と二人の司祭ラスティークとエルテールの3人がモンス・メルクリウス [Mons Mercurius] の丘で断頭された。 それ以来、その丘はモンス・マルテュルム [Mons Martyrum] (殉教者の丘) として知られ、現在はモンマルトル[Montmartre] と呼ばれている。 因みに、サン・ドニは、自らの首をかかえながら北のほうに数キロ歩き、息絶えたという。 聖人サン・ドニの彫刻はノートルダム寺院のファサードに刻まれている。

 フランス語、英語で“Denis”と表記され、日本語では聖ドニ、サン・ドニと呼ばれることが多い。
「南西」MAPLay.3H
モンマルトル[Montmartre] (11:01)
モン・スニ通り [Rue du Mont Cenis] 。
「北」MAPLay.2E
モンマルトル[Montmartre] (11:01)
前方の木々の生えている所が、テルトル広場 [Place du Tertre] 。
「南西」MAPLay.2F
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:10)
サクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur] は、フランスおよびフランス語圏に多く存在する教会堂。 「聖なる心臓」(聖心)を意味し、イエス・キリストに捧げ、守護として祀っていることを意味する。
「北東」MAPLay.2G
モンマルトル[Montmartre] からの眺望 (11:10)
パリ市街を望む。
「南」MAPLay.2G
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:12)
フランスのパリ市内モンマルトルの頂にそびえる教会堂。 ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。 パリの大司教、ジョセフ·イポリット·ギベール [Joseph Hippolyte Guibert] が計画を提唱し、ポール・アバディ [Paul Abadie] が設計を担当した。
「北」MAPLay.2H
ウィレット公園 [Square Willette] /ルイーズ·ミシェル公園 [Square Louise-Michel] (11:13)
「名称の変遷」 ルイーズ・ミシェルはパリ・コミューンの立役者の一人であり、また1860年代における革命主義的な教育運動を代表する人物の一人であった。 2004年2月28日、モンマルトルとの縁によってサクレ=クールの足元のウィレット広場(le grand square Willette)に彼女の名が冠されることとなった。 なおこの改称は、元々の広場の名称となっていた漫画家アドルフ・レオン・ウィレット(fr:Adolphe Léon Willette)の反ユダヤ主義的傾向がパリ市議会で問題とされたという事情もあった。 (ミシェル40歳のときパリ・コミューンが勃発、彼女はこれに非常に積極的に参画し、 モンマルトル第62大隊親衛隊員を務めたり 、 3月17日から18日にかけてはモンマルトルの丘での砲撃戦に参加したなど、モンマルトルと少なからぬ縁があった。)
「南」MAPLay.2I
公園の北端にある噴水 (11:15)
1932年にポール・ガスク [Paul Gasq] によって作成された記念碑的な噴水は、海の神々に捧げられている。
「北」MAPLay.2J
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:16)
「ヴィレット公園 /ルイーズ·ミシェル公園」 から見上げる、サクレ・クール寺院。
「北」MAPLay.2K
ウィレット公園 [Square Willette] /ルイーズ·ミシェル公園 [Square Louise-Michel] (11:16)
「南」MAPLay.2K
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:19)
「ウィレット公園 /ルイーズ·ミシェル公園」 から見上げる、サクレ・クール寺院。
「北」MAPLay.2L
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:19)
「ウィレット公園 /ルイーズ·ミシェル公園」 から見上げる、サクレ・クール寺院。
「北」MAPLay.2L
モンマルトルのサクレ・クール寺院 [Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre] (11:19)
「ウィレット公園 /ルイーズ·ミシェル公園」 から見上げる、サクレ・クール寺院。
「北」MAPLay.2M
ロシュシュアール大通り [Boulevard de Rochechouart] (11:30)
「西北西」MAPLay.2N
ムーラン・ルージュ [Moulin Rouge] (11:37)
"Moulin Rouge" はフランス語で「赤い風車」という意味で、モンマルトルの麓にある老舗キャバレー。 1889年創設で、フレンチカンカン発祥の地としても知られている。 画家のロートレックがポスターを描いたことでも有名。 (ポスターは下)
「北」MAPLay.2O
 
 ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ [Moulin Rouge La Goulue]
ムーラン・ルージュの人気ダンサー、 ラ・グーリュ [La Goulue] を描いたポスターで、 このポスターによって、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック [Henri de Toulouse-Lautrec] は有名な画家としての地位を手に入れた。
パリ三越店 (12:29)
日本のデパートとしては初めての欧州進出だったパリ三越が、2010年9月30日に閉店、39年の歴史に幕を下ろした。 団体ツアー客の減少で2001年以降、営業赤字が続いていた。 (撮影は2007/10/24)
「南」MAPLay.2P
カプシーヌ通り [Boulevard des Capucines] (12:33)
嘗て、パリ三越店があった "カプシーヌ通り" 。 前方の交差点の直ぐ左にオペラ・ガルニエがある。
「東北東」MAPLay.2Q
昼食のメニューはエスカルゴ (12:59)
MAP
Lay.2R
昼食のレストラン "オーベルジュ·デュ·ルーブル" [L'Auberge du Louvre] (14:00)
「北」MAPLay.2R
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (14:11)
フランス・パリにある有名な広場。 パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。 1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。 その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。 フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへの処刑が行われた刑場でもある。 1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始める(公式名になったのは1830年)。
「南西」MAPLay.2S
コンコルド広場 [Place de la Concorde] (14:13)
「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。 しかしフランス側の強い希望により、フランス語式の「concorde」表記が、英語・フランス語の両言語における共通の正式スペリングとなった。 ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。
「南東」MAPLay.2T



ヴェルサイユ宮殿 [Château de Versailles]
ルイ13世がこの地に狩猟の館を建造して以来、その息子のルイ14世が改装と増築を施し、 北に王の、南に王妃の快適な新居室を建造するため、彼の建築家ルイ・ル・ヴォー [Louis Le Vau] に、城の拡張計画に着手するよう命じた。 なぜなら、ルイ14世はもともとパリのルーブル宮殿に住んでいたが、1648年のフロンドの乱でパリを脱出した苦い経験から、新しい宮殿を安全なパリ郊外に建てることに決めていた。 主な部分の設計はアルドゥアン=マンサール [Hardouin-Mansart] とシャルル・ルブラン [Charles Le Brun] によって、庭園はアンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre] によって造営がなされた。 水もない不毛の荒野だったが、10km離れたセーヌ河岸に「マルリーのポンプ*と呼ばれる巨大な汲み上げ装置を造らせ、水道橋によって水を引いた。 1682年に政府と宮廷をヴェルサイユに移し、フランス革命の勃発まで、この宮殿は代々のフランス国王によって美しく改装されてきた。 宮殿は、2つの翼棟をもつシンメトリーな建物で、バロック建築を代表する建物になっている。 因みに、ランスでのユネスコ世界遺産登録、第1号となるほど文化遺産として高く評価されている。(1979年に登録、2007年に登録内容が変更)
* マルリーポンプの図説 :  (出典: 中島智明 著  "ヴェルサイユ宮殿")
閣僚の前庭 (クール・ドヌール) [Cour d'Honneur]* (14:48)
 右端 (北側) の建物は " 閣僚の北翼棟 [Aile des Ministres Nord] " 。 その後方の高い建物は、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚礼が行われた、ジュール・アルドァン=マンサール [Jules Hardouin-Mansart] の宮廷礼拝堂 [Chapelle Royale] 。
* クール・ドヌールは、三方を建物に囲まれた中庭を意味する。
「北西」MAPLay.3A
閣僚の前庭 (クール・ドヌール) [Cour d'Honneur]* (14:48)
 右端 (北側) の建物は " 閣僚の北翼棟 [Aile des Ministres Nord] " 。 その後方の高い建物は、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚礼が行われた、ジュール・アルドァン=マンサール [Jules Hardouin-Mansart] の宮廷礼拝堂 [Chapelle Royale] 。
* クール・ドヌールは、三方を建物に囲まれた中庭を意味する。
「北西」MAPLay.3A
閣僚の前庭 [Cour d'Honneur] (14:48)
左端 (南側) の建物は " 閣僚の南翼棟 [Aile des Ministres Sud] " 。
「西」MAPLay.3A
閣僚の前庭 [Cour d'Honneur] (14:49)
"閣僚の前庭" から正門方向を望む。
「南東」MAPLay.3A
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] (15:00)
王の大居室の最初の部屋であるヘラクレス (エルキュール) の間は、ルイ14世の治世の一番最後に作られた部屋。 1682年以来、宮殿の礼拝堂がその場所の1階と2階部分を占めていたが、1710年に現在の礼拝堂に取って代わられた。 壁面にはヴェネチアの総督がルイ14世に贈った巨大なヴェロネーゼの「シモン家の宴」がかけられている。 これは1570年にヴェネチアのセルヴィテス修道院の食堂にあったもので、 1664年、 対トルコ支援を要請するため、総督がルイ14世に贈ったものである。
「南南西」MAPLay.3B
ヘラクレス (エルキュール) の間 [Le salon d'Hercule] (15:01)
"ヘラクレスの間" の工事は1712年にロベール・ドゥ・コットに依頼されたが、1715年にルイ14世が死去したことにより1725年まで工事は中断されていた。 その後、画家フランソワ・ルモワンヌ [François Lemoine] (1688-1737)によって、1733年から1736年の間に、巨大な天井のヴォールトに、父ジュピターにより神の地位にあげられたヘラクレスをテーマにしたヘラクレスの栄光 (写真 ) を描いた。 因みに、この作品は漆喰の上に直接描かれたフレスコ画ではなく、キ ャンバスの上に描かれた油絵であった。 ルモワンヌはその作品により、王の第一画家に命じられたが、その作品の完成に力尽き、その後しばらくして自ら命を断ってしまった。
「北北東」MAPLay.3B
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] (15:04)
ヴェニュス [Vénus] は金星を意味する。 嘗て、ヴェルサイユ宮殿には惑星の名を冠した七つの間があったが、1670年代末に、木星と土星が廃止され、現在は金星 [Vénus] 、月[Diane] 、火星 [Mars] 、水星 [Mercure] 、太陽 [Apollon] の五つの間が残っている。 これは、古代神話の神々に因んだ名前を付けることによて、神々の有する美徳を授かることが出来ると考えたためで、このヴィーナスの間には、金星(ヴィーナス)と関連付けられた愛の女神(ヴィーナス)が描かれている。
「西」MAPLay.3C
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] (15:04)
この部屋は惑星に名前を借りており、これはヴェルサイユ宮殿全体の装飾のインスピレーションが惑星としての太陽系に求められているためである。 このヴィーナスの間は、天井に愛の女神 (ヴィーナス) が描かれているが、古代ギリシャ では金星(ヴィーナス)と関連付けられていたためである。 ここが、ル・ブランが建築と、彫刻、絵画を現実に、あるいは見せ掛けとして対話させた唯一の部屋である。 つまり、壁柱と大理石の柱が、ジャック・ルソーの描いた遠近の眺望に取り込まれ、窓側のだまし絵の2つの彫像が、ジャン・ヴァランの描いたルイ14世の人物に対応している。
「西北西」MAPLay.3C
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] (15:05)
中央のやや左に立つ石像はルイ14世の石像。 石像の左手に持つ楯はアテーナーのアイギスで、魔物メドゥーサの首がはめ込まれている。
「南西」MAPLay.3C
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] (15:06)
ルイ14世の石像のある壁面方向に、嘗て、「大使の階段」(1752年に破壊)があって、ディアーヌの間と同じく、大居室へ通ずる主な経路をなしていた。 居室の夕べでは、食卓の準備をして、花かご、オレンジやレモンといった新鮮で珍しい果物をピラミッド形に並べ、砂糖漬けの果物、マジパンなども取り揃えていた。
「南西」MAPLay.3C
"ヴィーナスの間" から北花壇 [Parterre du Nord] を望む (15:07)
「北東」MAPLay.3C
ヴィーナス (ヴェニュス) の間 [Le salon de Vénus] (15:08)
ヴィーナスの間の天井には、愛の女神が描かれているが、これは、古代ギリシャにおいては、愛の女神(ヴィーナス)と金星(ヴィーナス)が関連付けられていたためである。 ヴォールトの下部(アーチ形)を装飾する絵画 (写真 ) は、古代の英雄の行動を描き、それは同時にその部屋の惑星と、ルイ14世の偉業にも関連している。 したがってサーカス競技を主宰するオーギュストの描かれたアーチ部分は、王妃のために催された1662年の有名な騎馬パレードを暗示し、ロクサーヌと結婚するアレクサンドルの絵は、ルイ14世の結婚を示唆している。
「南西」MAPLay.3C
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] (15:09)
天井の中央部分の絵は、ガブリエル・ブランシャード [Gabriel Blanchard] の作品で、航海と狩をするディアナ (ディアーヌ) の絵 (1680年) 。 暖炉の上(写真の右端)には、イフィジェニーの犠牲を描いたシャルル・ド・ラ・フォスの作品、その向かいのコンソール(テーブル)の上にはディアナ (ディアーヌ) とエンディミオンが描かれたガブリエル・ブランシャードの作品がある。 古代の胸像はマザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物。
「西南西」MAPLay.3D
ディアナ (ディアーヌ) の間 [Le salon de Diane] (15:10)
ヴィーナスの間と同様に、ディアナ (ディアーヌ) の間は、大居室のホール、そしてルイ14世の頃には、夜は居室、ビリヤードの間として利用されていた。 拍手を送る夫人たちのために2つの壇が作られていて、上手だった王が素晴らしいプレイをするたびに拍手をしたので、「拍手の寝室」とも呼ばれていた。 ディアーナ(ラテン語:Diāna)はローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神で、ギリシア神話ではアルテミスに相当する。 ユーピテルとラートーナの娘で、アポローンの妹とする説がある。 新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。 ヴォールトの下のアーチ部分の装飾には、古代の英雄たちが狩をする姿が描かれている。 これはルイ14世が立派な狩人だったという事実を示している。
「西南西」MAPLay.3D
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:12)
マルス (マース) は惑星のひとつ(火星)を意味し、同時に戦争の神でもある。 もともとこの大広間は衛兵の間だったことからマルスの間として選ばれた。 この広間はその後、夜は居室、音楽及び舞踊などに使用されたため、「舞踏の間」とも呼ばれるようになった。  天井の中央には、クロード・オードラン [Claude II Audran] (1639–1684) により、狼たちが引く戦車に乗ったマルス (1673) が描かれている。 その西側 (写真では右側) にウーアス [Houasse] の作品で「 地上の支配者たちに襲いかかる恐怖、怒り、そして不安」が描かれている。
「西」MAPLay.3E
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:12)
天井の中央には、クロード・オードラン [Claude II Audran] (1639–1684) により、狼たちが引く戦車に乗ったマルス (1673) が描かれている。 その東側 (写真では左側) にジューヴネ [Jouvenet ] の作品で「ヘラクレス、アボンダンス(豊穣)そしてフェリシテ(至福)たちに支えられているラ・ヴィクトワール(勝利)」が描かれている。 側面の壁には、豪華なルイ15世と、その妃マリー・レクザンスカの二枚の肖像画(カルル・ヴァン・ロー作)が掛けられている。
「南東」MAPLay.3E
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:12)
天井画の周囲には、6枚の金色のカメオ画と四隅には戦利品装飾 (トロフェ) が施されている。 南西の隅には、スペイン王国とオランダ共和国に対する勝利を象徴する装飾が、南東の隅には、海上における勝利を象徴する装飾が施されている。
「南東」MAPLay.3E
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:13)
"マルス (マース) の間" の天井画。 中央に、狼たちが引く戦車に乗ったマルス (1673) が描かれている。 その東側 (写真では左側) には、ジューヴネ [Jouvenet ] の作品で「ヘラクレス、アボンダンス(豊穣)そしてフェリシテ(至福)たちに支えられているラ・ヴィクトワール(勝利)」が描かれ、西側 (写真では右側) には、ウーアス [Houasse] の作品で「 地上の支配者たちに襲いかかる恐怖、怒り、そして不安」が描かれている。
「南東」MAPLay.3E
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:14)
4つの扉の上にはシモン・ヴーエ [Simon Vouet] の絵画(サン=ジェルマン=アン=レー城にあったもの)、「節制」、「慎重」、「正義」、そして「」がある。 北東の扉 (写真では左の扉) の上には「慎重」、南東の扉 (写真では右の扉) の上には「正義」、南西の扉 の上には「節制」、北西の扉 の上には「」がある。 また、暖炉の上には、ルイ14世騎馬肖像があるが、 嘗ては、ここに、ルイ14世の好んだといわれるドメニキーノ [Dominiquin] 作の「竪琴を奏でるダヴィデ」が掛けてあった。
「東南東」MAPLay.3E
マルス (マース) の間 [Le salon de Mars] (15:15)
暖炉の左側には、シャルル・ル・ブランによる「アレクサンドル大王の足元のダリウスの家族」、右側には ヴェロネーゼの作品(昔はオリジナル作品)である「エマオの巡礼者」が対になって配置されている。
「南東」MAPLay.3E
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] (15:18)
メリクリウスは惑星のひとつ(水星)を意味し*、ローマ神話のディー・コンセンテス [Dii Consentes] の一人で、商人や旅人の守護神である。 英語では、水星を意味するマーキュリー [Mercury] とも表記され、ギリシア神話の神々の伝令使ヘルメース [Hermēs] と同化し、雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者とされた。 ジャン=バティスト・シャンペーニュの天井画には、二羽の雄鶏が引く戦車の上のメルクリウスが描かれ、シンボルとされる翼の生えたヘルメットやサンダル、カドゥケウス [Caduceus] と呼ばれる蛇の絡まった杖を携えている。 ヴォールトには4枚の絵画が飾られている。 写真の正面(南)には、学者達と対話するプトレマイオス・フィラデルフォス、 左(東)には、インド人達の使節団を迎えるアウグストゥス、 右(西)には、インド人達の使節団を迎えるアレクサンドロス、 手前(北)(写真には写っていない)には、全世界から動物たちを運ばせるアレクサンドロスと、それらを記述するアリストテレスの絵画が飾られている。 また、天井四隅には、ルイ14世の美徳と関連し、身体の敏捷さ、諸芸術への通暁、国王の正義、国王の権威、等を表した絵画が飾られている。

 水星はギリシアではヘルメースの星といわれ、ヘルメースは、ローマ神話におけるメルクリウス(マーキュリー)に相当するため、現代ヨーロッパ諸語でメルクリウスに相当する語を水星に当てはめるようになった。
「南西」MAPLay.3F
メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] (15:19)
このメルクリウスの間はもともと大居室の装飾的な寝室 (盛儀寝台)* で、それが起源となって「寝台の寝室」とも呼ばれていたが、その後、冬場は寝台が取り払われ、その代わりに遊戯の机が置かれるようになった。 このメリクリウスの間が再び寝室として利用されたのは、ルイ14世の孫、アンジュー公のスペイン国王即位の宣言の折で、アンジュー公はこの部屋を3週間寝室として使用したのみで、彼の新しい国、スペインへ旅立った。 また、1715年9月2日から10日までルイ14世の遺体が安置されたのもこの部屋だった。 ここにある盛儀寝台は、1678年に開始された "鏡の間" の造営に伴って、アポロンの間からこの部屋にうつされた。

 盛儀寝台は、国王の公的かつ正式なベッドで、儀式を盛大にするために用いられた。 プライベートな寝室は、"国王の寝室" として別にある。
「西」MAPLay.3F
アポロンの間 [Le salon d’Apollon] (15:21)
ルイ14世 (太陽王) が自ら同一視する太陽、芸術そして平和の神に捧げられたアポロンの間は、最も豪華な部屋で、今日でも天井の装飾や全ての絵画に見て取ることができる。 中央の構図とヴォールト及び隅柱などは色彩豊かで、そこでは全ての彫刻が丸く、全体が金箔で塗られている。  壁布は、王室の館が全てそうであるように、季節によって模様替えされ、冬は深紅色のビロードと18の帯状の金と銀の刺繍、夏は絹の地に金と銀の刺繍が使用されている。 天井画はアポロンを中心に描き、四隅には四大陸の寓意像が描かれ、世界をあまねく照らす太陽神のイメージが表現されている。 また、ヴォールトには4枚の絵画が飾られており、北側にはブランシャール作「アレクサンドロスの前に引き出されるポロス」、東側には「ローマの攻囲陣を解くコリオラヌス」、南側には「コロッセウムを建設させるウェスパシアフス」、西側にはラ・フォス作「ミュケナイの港を築港するアウグストゥス」の絵画が飾られている。 嘗て、この部屋には盛儀寝台が置かれていたが、1678年に開始された "鏡の間" の造営に伴って、メリクリウスの間 [Le salon de Mercure] へうつされた。
「南西」MAPLay.3G
戦争の間 [Salon de la Guerre] (15:24)
"戦争の間" と "平和の間" は、当初から在ったわけではなく、1678年に始まった "鏡の間" の造営によって、テラスと "国王のアパルトマン" と "王妃のアパルトマン" のそれぞれ小広間 (サテュルヌの間) が取り壊され、"ヴェニュスの間" は "ディアーヌの間" の東側の現在の位置に移された。 それに伴って、角部屋に当たるそれぞれの ジュピテール (ジュピター) の間が "戦争の間" と "平和の間" に改装された。 この事により、ジュピテールの間とサテュルヌの間が無くなり、現在の五惑星の間 (ヴィーナス の間、ディアナ の間、マルス の間、メリクリウスの間、アポロンの間) になった。 つまり、月、火星、水星、太陽、木星、土星、金星の順で並んでいた "七間"が、金星、月、火星、水星、太陽の順の "五間" になった事になる。 ("国王のアパルトマン" と "王妃のアパルトマン" はシンメトリーに造られている。)
「南西」MAPLay.3H
戦争の間 [Salon de la Guerre] (15:24)
1678年にマンサールによって "戦争の間" の建築が始まり、1686年にル・ブランによる装飾で完成した。 装飾はナイメーヘンの和約をもたらすことになる軍事的勝利の数々を称えている。 壁は大理石パネルで覆われ、金箔青銅の六つの武器飾や武器の一部で装飾されており、東側の壁面には馬に跨ったルイ14世が敵を蹴散らしている姿を表した、アントワンヌ・コワスヴォ [Antoine Coysevox] 作のスタッコ作りの楕円形の浮彫りが飾られている。 天井の中央はクーポラ仕上げになっており、そこにはル・ブランによって描かれた、勝利の女神たちに囲まれ、武装して雲の上に座っているフランスが表現されいる。 フランス*の手には、ルイ14世の肖像が描かれた楯を持っている。 この天井画の周りを囲う丸天井部分には、敗者となった三つの敵国がそれぞれ表現されており、跪いたドイツは鷹と共に、威嚇的なスペインは吼え声を上げる獅子と共に、そしてオランダは獅子の上に倒れるように描かれている。 四つ目の天井画は、戦争の女神であるベローナが反逆と不和の間で激怒している姿を表している。 また、四隅には太陽神の紋章があしらわれている。

 「フランス」を擬人化した女性。
「南西」MAPLay.3H
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] (15:25)
ルイ・ル・ヴォー [Louis Le Vau] の新城館の西側中央の二階、三階はセットバックしており、その空いたところに泉水まで備えたテラスが設けられていた。 しかし漏水が激しかったこともあって、1678年にはこのテラスを埋めるようなかたちで大ギャラリーの建設が計画され、その設計はジュール=アルドゥアン・マンサール [Jules Hardouin-Mansart] に託された。 彼の案は、テラスの部分だけでなく、その両側の小さな広場 (王と王妃のそれぞれ、サテュルヌの間とヴェニュスの間) の計四室をつぶし、全長73mの大ギャラリーを建設しょうというものだった。 ("鏡の間" の造営前後の図)
「南西」MAPLay.3I
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] (15:25)
1679年春になると、案はシャルル・ル・ブラン [Charles Le Brun] のもとへ送られ、以後、画家と建築家のあいだで案のやりとりがあり、細かい所の装飾は画家によって詰められていった。 そして、1684年にはル・ブランの天井画や内装も含めて殆ど完成、庭園に面する側の17の窓に向き合って、17の鏡張りの回廊が設けられ、その内装に鏡が大量に用いられたことから "鏡の間" の名で広く知られるようになった。
「南西」MAPLay.3I
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] (15:25)
この鏡の間の造営は、宮廷儀礼のための場所で、きわめて公的な性格を帯びていた。 それは同じ時期、すなわち1682年5月6日に政府がパリからヴェルサイユへ移されたことと密接な関係があり、その造営の前後の様々な大工事も、それに伴う宮廷人や召使いの増加に対応するものだった。 また、宮廷の前に広がる都市計画も着々と進められていった。
「南西」MAPLay.3I
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] (15:26)
天井画の主題は当初、太陽神アポロンを中心としたものが計画されたが、この案はほどなく、エルキュール (ヘラクレス) 神話を中心としたものに取って代わられ、さらに案は変転し、主題として神話ではなく、国王自身の戦功が取り上げられる事になった。 (参考資料)
「南西」MAPLay.3I
王の寝室 [La chambre du Roi] (15:33)
1701年 (1701年以降の平面図) にはバサンの間 (第二の控えの間) と寝室の間の仕切り壁が撤去されて一つの大きな広間となり、これが第二の控えの間、別名 "牛眼の間" となった。 そして、寝室は大理石の前庭に面した中央の広間に移され、ようやく、ルイ14世は自らの寝室を宮殿の中心に移すことが出来た。 (1701年以前の平面図)
新しい寝室は、 鏡の回廊に通じた奥の3つのフランス窓をふさいでアルコーブが作られた。 アルコーブの部分と寝室の、それ以外の場所を隔てる欄干 (柵) には、金メッキを施した木製の彫刻が施されている。 王のベッドの上の張り出し部分には、眠りを見守るかのようにフランスの寓意画がニコラ・クストゥ [Nicolas Coustou] によって、化粧漆喰に描かれている。 国王が一人になるのはこの寝台の中だけであり、寝室は単なるベッドルームではなく、宮廷の中枢だった。 そこではフランス王国の家長としてのルイの姿が象徴的に示され、とりわけ起床の儀と就寝の儀は重要で、六種類の入室特権に応じて、寝室に入室する順番が定められた。 72年に渡る治世の後、1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのもこの寝室で、深紅を基調とした寝室には金と銀を使った豪華な錦織の装飾が飾られ、ルイ14世自らが選んだ絵画の数々がそれに色を添えていいる。
「西」MAPLay.3J
 
鏡の回廊から平和の間への入口 (15:25)
右手に見えるのが、平和の間 [Salon de la Paix] 。
「南」MAPLay.3K
鏡の回廊 [La galerie des Glaces] (15:35)
「北東」MAPLay.3K
平和の間 [Salon de la Paix] (15:37)
平和の間は、左右対称になっている戦争の間と同じように、大理石パネルと、彫刻細工された金箔青銅の武具で装飾されている。 しかしながら、丸天井とヴォールトには、ル・ブランにより、フランスがヨーロッパにもたらした平和の恩恵が描かれている。 ルイ14世の治世の終わりになると、この広間は可動式の仕切りで鏡の回廊と隔てられ、王妃の大居室の一部を成す最後の部屋となった。 ルイ15世の治世下、マリー・レクザンスカ (ルイ15世の王妃) はこの広間で、毎週日曜日に世俗音楽会や宗教音楽会を開き、これらの音楽会はヴェルサイユ宮殿の音楽生活に重要な役割を果たした。 次のルイ16世治世下にはマリー・アントワネットがその後を引き継いでいる。 (見取り図)
「東南東」MAPLay.3L
平和の間 [Salon de la Paix] (15:38)
左手は、鏡の回廊、右手の入口は、王妃の寝室 [La chambre de la Reine] 。 (見取り図)
「北東」MAPLay.3L
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La chambre de la Reine] (15:39)
寝室は居室の中心をなす部屋で、王妃はその部屋で大半の時間を過ごし、ここで眠り、たびたび王が訪れた。 朝は、身づくろいの間とその後、人々の訪問を受けましたが、この身づくろいは王の起床と同じくらい礼儀作法に縛られたものだった。 またこの部屋で、いわば公開の出産が行われ、19人の「フランスの子」が生まれた。
「南東」MAPLay.3M
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La chambre de la Reine] (15:40)
1789年10月6日に暴徒が宮殿内に侵入した時、マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) はアルコーブの左にある小さな扉から逃げ出すことができた。 この扉は廊下を通って、王妃の私的な生活と勤めのために使用されていた12ほどの小部屋に通じていた。 革命でヴェルサイユ宮殿は略奪はされなかったが、家具類はほぼ1年間におよぶ競売にかけられ散逸した。 一部のものは寝台の左側にあるシュベールトフェーガーの宝石箱のように、あるいは暖炉の衝立のように、後年になって見つかったものもあれば、同様のもので置き換えられたものもある。 (参考写真)
「東北東」MAPLay.3M
王妃の寝室 (王妃のアポロンの間) [La chambre de la Reine] (15:41)
装飾はこの部屋で寝起きした3人の王妃の面影を残している。 天井の仕切りはマリー・テレーズ・ドートリッシュ (ルイ14世の王妃) の時代に実現され、フランソワ・ブーシェ [François Boucher] によるグリザイユ [Grisaille] ( モノクロームで描かれた絵画) の絵木工細工はマリー・レクザンスカ (ルイ15世の王妃) のために実現されたもので、マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) の時代にはこれらの全ての装飾が保存され、新たに持ち込まれたのは家具と暖炉だけだった。
「東」MAPLay.3M
貴人の間 [Le salon des Nobles] (15:42)
王妃マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) の時代には控えの間だったこの部屋で、天蓋の下に座ったマリー・レクザンスカ (ルイ15世の王妃) は厳粛な謁見を行っていた。 彼女はまた、サークルと呼んでいた集まりをもち、宮廷の女性たちとの会話を楽しんだ。
「東」MAPLay.3N
貴人の間 [Le salon des Nobles] (15:43)
王妃マリー=アントワネット (ルイ16世の王妃) は天井の絵画を除いて全ての装飾を作り変えさせ、壁には幅広い金色の飾り紐で縁取った青りんご色のダマスク織りを張り巡らせた。 新しく持ち込まれた家具は、大変近代的で繊細なものだった。 王妃お気に入りの高級家具職人 ジャン=アンリ・リーズネル [Jean-Henri Riesener] は、この部屋用の壮麗なたんすと角の戸棚について、 最新のイギリス様式を採用し、従来の花模様の寄木細工の代わりに模様なしのマホガニーを使用した。  また、この豪華な家具の一部をなす金張りのブロンズと濃青色の大理石のプレートは、やはり新調された暖炉と調和するよう考えられていた。
「東」MAPLay.3N
貴人の間 [Le salon des Nobles] (15:43)
「北」MAPLay.3N
グラン・クヴェールの控えの間 [L’antichambre du Grand Couvert] (15:45)
公式晩餐 (グラン・クヴェール) は王妃の控えの間で行われ、その豪華な儀式は多くの人を集めた。 王家の家族のみがテーブルに着くことを許され、その前に公爵夫人、王女、国の要職者がスツールに座る恩恵にあずかった。 その他の婦人たちや人々は、身分に応じて、あるいは守衛の許可により入室を許されたが、座ることはできなかった。 ルイ14世は、毎晩このような儀式に余儀なく従ったが、ルイ15世は、内輪の夕食を好み、ルイ16世とマリー=アントワネットに関しては、以下のような話が伝えられている。 「王妃が王の左側に座り、二人は暖炉を背にしていた。  王は食欲旺盛だったが、王妃は手袋を脱ぐことはなく、ナプキンを広げることもなかった。」このような退屈をしのぐために、マリー=アントワネットはグラン・クヴェールの夕食に音楽を要求し、そのために部屋の中に演奏者用の舞台が設置された。 (後年訪問した時の写真 )
「東」MAPLay.3O
アンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre] の大庭園 (16:11)
右手に見える棟は、南翼棟。 左手の棟は、新城館南棟 (王妃のアパルトマンの在るところ) 。
「東」MAPLay.3P
オランジュリー [L'Orangerie] の花壇 (16:13)
オランジュリーの花壇は3ヘクタールにもおよぶ広さを誇り、この花壇は、ルイ14世時代には彫刻(現在はルーブル美術館所蔵)で装飾されていた。4つの芝生部分と円形の池からなる花壇では、夏には植木箱に入った1055本の樹木(ヤシ、キョウチクトウ、ザクロ、ユーゲニア、オレンジなど)が配置され、冬にはこれらの木は室内に戻さる。
「南」MAPLay.3Q
オランジュリー [L'Orangerie] (16:15)
実は、この下には、偉大な建築家としての手腕をよりよく発揮できた建造物のひとつである、アルドゥアン=マンサール [Hardouin-Mansart] の造ったオランジュリー*がある。 ポルトガル、スペインあるいはイタリアからのオレンジの木、レモンの木、ざくろの木など中には樹齢200年を越えるもの、その他、キョウチクトウ、ヤシなどが冬に建物内に入れられ、夏は花壇に出される。

 ルネサンスの庭園において,東方の植物として珍重されたオレンジやシトロンなどの樹木を寒い季節の間養成するためにつくられた温室の原型。
「南」MAPLay.3R
アンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre] の大庭園 (16:15)
「南」MAPLay.3R
オランジュリー [L'Orangerie] (16:15)
実は、この下には、偉大な建築家としての手腕をよりよく発揮できた建造物のひとつである、アルドゥアン=マンサール [Hardouin-Mansart] の造ったオランジュリー*がある。 ポルトガル、スペインあるいはイタリアからのオレンジの木、レモンの木、ざくろの木など中には樹齢200年を越えるもの、その他、キョウチクトウ、ヤシなどが冬に建物内に入れられ、夏は花壇に出される。

 ルネサンスの庭園において,東方の植物として珍重されたオレンジやシトロンなどの樹木を寒い季節の間養成するためにつくられた温室の原型。
「南」MAPLay.3Q
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:15)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3Q
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:18)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3S
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:18)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3S
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:18)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3T
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:19)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3U
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:20)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3V
南花壇 [Le Parterre du Midi] (16:21)
かつては「草花の花壇」あるいは「愛の花壇」と呼ばれていたこの花壇は、ジュール・アルドゥアン=マンサール設計のオランジュリーの上側にある。
「北東」MAPLay.3V
水庭 [Le Parterre d’Eau] (16:24)
長方形の泉水は、光を反映して鏡の回廊のファサードを明るく照らしている。 アンドレ・ル・ノートル [André Le Nôtre]にとって、光は緑と同じ装飾のひとつの要素として考え、光と影のボリュームのバランスがとられている。
「南東」MAPLay.3W
大水路 [Le Grand Canal] (16:26)
遠方に見える、大水路は、アンドレ・ル・ノートルが設計した最もオリジナルなもので、ル・ノートルは、大水路により東西に長く広がる明るく開けた眺望を実現した。 1668年から1679年まで、その完成に11年の歳月がかけられた、全長1670メートルの大水路では、数多くの水上の祭典が行われた。 1669年にはすでに、ルイ14世によって大型ボートや軍艦の縮小モデルが運び込まれ、1674年には、ヴェネツィア共和国から王のもとにゴンドラ二隻とその船頭四人が送られている。 彼らが泊まった大水路の入り口付近の建物は、その後「プティット・ヴニーズ」と呼ばれるようになった。 この大水路では、夏には王の船団が水しぶきを上げ、冬には凍った水の上をスケートやそりの音がこだましていた。 手前にある泉水は、オヴィデウスの「変身物語」に着想を得たラトナの泉水 [Le bassin de Latone] で、リュキアの農民たちの罵りから子供たちを守ろうとし、ジュピターに仕返しを要求するアポロンの母とディアナの伝説を描いている。 ジュピターはそれを聞き入れ、農民たちを蛙とトカゲに変身させてしまう。
「北西」MAPLay.3X



エッフェル塔 [La Tour Eiffel]
パリのシンボルとも言えるエッフェル塔は、フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。 まず、建設に先立ちコンペティションが開かれ、ここで、アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル [Alexandre Gustave Eiffel] ほか2者の案が採用になった。 設計者がステファン・ソーヴェストル [Stephen Sauvestre] 、モーリス・ケクラン [Maurice Koechlin] とされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。 最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。 建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。 建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年にニューヨークにクライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。 現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。 使用鉄製材は鋼製ではなく錬鉄製の塔で、塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。 また、総重量、約9700t から10,000t とされる塔を支える基礎には大きな荷重が掛かっており、 特に軟弱な地盤であるセーヌ川に面する2脚の基礎工事には、 潜函工法(ニューマチック・ケーソン)が採用されている。
グルネル橋 [Pont de Grenelle] からの眺め (22:14)
前方の橋は、メトロ [métro] が走るビル=アケム橋 [Pont de Bir-Hakeim] 。
「北東」MAPLay.4A
白鳥の島 [L'île aux Cygnes] からの眺め (22:17)
「北東」MAPLay.4B
白鳥の島 [L'île aux Cygnes] からの眺め (22:19)
「北東」MAPLay.4B
白鳥の島 [L'île aux Cygnes] からの眺め (22:17)
「南東」MAPLay.4B
グルネル橋 [Pont de Grenelle] からの眺め (22:22)
「北東」MAPLay.4C
グルネル橋 [Pont de Grenelle] にて (22:23)
左端に写っている表示灯のあるホテルが、宿泊している ノボテル パリ サントル トゥール エッフェル [Novotel Paris Centre Tour Eiffel] (嘗ての日航ホテル) 。
「南東」MAPLay.4C
 グルネル橋 [Pont de Grenelle] からの眺め (22:24)
「北東」MAPLay.4C


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