旅の栞(トルコ)

6月27日

イスタンブール [İstanbul]
『ブルーモスク、ヒッポドローム、イェレバタン地下貯水池』

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/turkey/newpage13.html

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イスタンブール[İstanbul]
イスタンブールはボスポラス海峡を挟みアジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる都市で、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルとして再建されて以降、およそ16世紀の間、ローマ帝国 (330-395)、ビザンティン (395-1204, 1261-1453)、ラテン帝国 (1204-1261)、オスマン帝国 (1453-1922) と4つの帝国の首都であった。 1453年にオスマン帝国により都市が征服され、コンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティン時代は、キリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった。  トルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、嘗て首都であったイスタンブールには、多くの宮殿やモスクが世界遺産として残されている。 因みに、モスクの中には、嘗てのキリスト教大聖堂を改造した建物もある。

 飛んでイスタンブール/庄野真代
ドルマバフチェ宮殿の時計塔 [Dolmabahçe Sarayı Saat Kulesi] (00:06)
ドルマバフチェ宮殿の正面玄関前に位置する時計塔。 スルタン アブデュルハミト2 [Sultan II.Abdülhamit] によって建てられた時計塔で、建設は、1890年に始まり、5年後の1895年に完成した 。 二階には温度計、気圧計があり、最上階の各壁面にはフランス製の時計が配置されている。 また、装飾的な屋根の上にはコンパスもある。
「東」MAPLay. 1 A
財務省ドルマバフチェ宮殿の門 (陸の門) [Dolmabahçe Sarayı'nın Hazine Kapısı] (00:15)
ドルマバフチェ宮殿 [Dolmabahçe Sarayı] は、 トルコのイスタンブルにある宮殿。 新市街の北東郊外ベシクタシュ地区のボスポラス海峡に面した埋立地に位置する。 ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」と言う意味。 イスタンブルを征服したオスマン帝国のメフメト2世によって造成された庭園に、1843年にアブデュルメジト1世の命によって宮廷に仕えるアルメニア人建築家が設計、従来あった木造宮殿を取り壊して建てられた。 1843年に着工され1856年に完成。 以降、1922年に最後の皇帝メフメト6世が退去するまで、トプカプ宮殿にかわってオスマン帝国の王宮として利用された。
「南南東」MAPLay. 1 B
財務省ドルマバフチェ宮殿の門 (陸の門) [Dolmabahçe Sarayı'nın Hazine Kapısı] (00:18)
ドルマバフチェ宮殿は、ヨーロッパから取り入れたバロック様式と伝統のオスマン様式を折衷した豪華な宮殿で、外観や装飾は近代西洋風であるが、建物の内部は男性向けの空間 "セラームルク" [Selamlık] と女性のみの空間 "ハレム" [Harem] に二分割され、ハレム*には多くの侍女や宦官も勤務した。ボスポラス海峡に向かう面は海側に門と桟橋を備え、宮殿から公道に出ずに船でイスタンブル市内を自由に行き来できるようになっている。 建築年:1843 ~ 56、建設者:アブデュルメジト1世、建築家:ガラベト・アミラ・バルヤンとニゴーオス・バルヤン。 因みに、ガラスは全てバカラのクリスタルが使用されており、最大のシャンデリアは 4.5t もある。 また、4t の金が装飾に使用されている。 (下図参照)

ハレムとは、男性はその場所にいる女性の夫・子や親族以外、立ち入りが禁じられていたことから生まれた名称。
「南南西」MAPLay. 1 C
ドルマバフチェ宮殿の見取り図
オスマン帝国の皇帝がいなくなった後も、政府の迎賓館として使われており、現在は観光客の見学に開放されている。
財務省ドルマバフチェ宮殿の門 (陸の門) [Dolmabahçe Sarayı'nın Hazine Kapısı] (00:19)
初代トルコ共和国大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、このドルマバフチェ宮殿のハレムだった居室で執務し、そこで没した。 現在も「アタテュルクの部屋」として、そのときのまま保管され、公開されている。 遺体はアンカラに運ばれ、アタテュルク廟 [Anıtkabir] に安置されている。
「南東」MAPLay. 1 D
Conrad Istanbul での朝食風景 (07:38)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
MAPLay. 1 E
Conrad Istanbul での朝食風景 (07:43)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
MAPLay. 1 E
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] のエントランス (07:45)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
「南東」MAPLay. 1 F
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:47)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
「南」MAPLay. 1 G
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:49)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
「南」MAPLay. 1 G
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:50)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
「東南東」MAPLay. 1 H
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] のエントランス (07:51)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul の二日目の朝。
「北」MAPLay. 1 I
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:54)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul から眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の朝)
「南南西」MAPLay. 1 J
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:54)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul から眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の朝)
「南南西」MAPLay. 1 J
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (07:55)
宿泊ホテル・Conrad Istanbul から眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の朝)
「南南西」MAPLay. 1 J
ドルマバフチェ宮殿 [Dolmabahçe Sarayı] の "ガラス張りのパビリオン" [Camli Köşk] (08:45)
ドルマバフチェ通り [Dolmabahçe Caddesi] を走るバスの車窓から。 この辺りは、嘗て海であった。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「南東」MAPLay. 1 K
財務省ドルマバフチェ宮殿の門 [Dolmabahçe Sarayı'nın Hazine Kapısı] (08:46)
ドルマバフチェ通り [Dolmabahçe Caddesi] を走るバスの車窓から。 この辺りは、嘗て海であった。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「南東」MAPLay. 1 L
ガラタ橋 [Galata Köprüsü] からの眺め (09:00)
ガラタ橋を走るバスの車窓からの眺め。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「南東」MAPLay. 1 M
ガラタ橋 [Galata Köprüsü] からの眺め (09:00)
ガラタ橋は、トルコのイスタンブルの金角湾に架かる可動橋(跳ね橋)で、初代の橋は1845年に開通した。 現在の橋は1994年12月に開通した5代目である。 長さ490m、主橋脚間80m、幅42mで片側3車線と歩道を備え、市街電車も通る。 船が通行する中央部以外は上下二層になっており、上層が車道、下層がレストラン街となっている。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「南南東」MAPLay. 1 N
ガラタ橋 [Galata Köprüsü] からの眺め (09:00)
ガラタ橋を走るバスの車窓からの眺め。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「西南西」MAPLay. 1 O
ガラタ橋 [Galata Köprüsü] からの眺め (09:00)
ガラタ橋を走るバスの車窓からの眺め。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「西」MAPLay. 1 P
イェニ・ ジャーミ [Yeni Cami] (09:01)
エミノニュ [Eminönü] の桟橋近くに建設されたキュッリエ*のモスク。 商業施設に隣接し、アジア側と行き来する船が発着する桟橋やバスターミナルの近くにあるため、市民に最も親しまれているモスク。 建設年:1597 ~ 1603、1651 ~ 64 (途中、工事は48年間中断されていた)

モスクを中心とした大学、図書館、寮、食堂、病院などを含む総合施設。
「南南東」MAPLay. 1 Q
旧市街から新市街側を望む (09:01)
エミノニュ [Eminönü] の桟橋近くを走るバスの車窓から。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「北」MAPLay. 1 R
旧市街から新市街側を望む (09:01)
エミノニュ [Eminönü] の桟橋近くを走るバスの車窓から。 (雨天のため車窓には水滴が付いている)
「北東」MAPLay. 1 S
ケネディ・ストリート [Kennedy Caddesi] (09:15)
この大通りは、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディにちなんで命名された 。 ケネディ大統領の暗殺 (1963年11月22日) 後、彼の非業の死を痛み、業績を讃える意味で、アメリカはもとより、世界の各国でケネディの名を冠した場所が誕生している。 嘗て、ビザンチン時代には、コンスタンティノープルを囲む様に城壁が巡らされており、この辺りの海岸線には陸のテオドシウス (2世) の三重城壁とは違い一重の城壁が巡らされていた。 その遺跡が所々に残されている。 (下図参照)
「南西」MAPLay. 1 T
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
海の壁 [Deniz Surları] (09:15)
ケネディ・ストリート [Kennedy Caddesi] に沿って、マルマラ海 [Marmara Denizi] 側にはテオドシウス (2世) の三重の城壁とは違い、一重の城壁が残されている。
「南南西」MAPLay. 1 U
ケネディ・ストリート [Kennedy Caddesi] (09:15)
ビザンチン時代から残る、コンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁。 海の城壁は陸の城壁と比べ、外敵に対する安全性が高いため、一重の城壁で守られていた。
「南」MAPLay. 1 V
ケネディ・ストリート [Kennedy Caddesi] (09:15)
ビザンチン時代から残る、コンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁。
「南」MAPLay. 1 W
ビザンチン時代から残る、コンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁 (09:17)
城壁には、要所要所に見張りのための塔が設けられている。
「南南西」MAPLay. 1 X
ビザンチン時代から残る、コンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁 (09:17)
城壁には、要所要所に見張りのための塔が設けられている。
「南」MAPLay. 1 Y
ビザンチン時代から残る、コンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁 (09:17)
城壁には、要所要所に見張りのための塔が設けられている。
「東南東」MAPLay. 1 Z
クルジュラル [KIRCILAR] (09:20)
株式会社クルジュラルは、1945年創業の羊革と子羊革を使ったジャケット専門店。 一年で400万ジャケットが生産され、40%はヨーロッパへ、60%は東南アジアやそのほかの国へ輸出されている。 そして、ヨーロッパに輸出された物の殆どが、ブランド物になると言う。
「北西」MAPLay. 1 a
株式会社クルジュラルでのファッションショー (09:34)
このお店では、羊革と子羊革(ラムとベビーラム)を使っていて、ベビーラムは、シープ革と呼ばれ世界中で有名。 特徴としては、薄い、柔らかい、軽い、丈夫、匂いがない、カビないなどがある。 子羊の方が少し高く、リバーシブルのものはだいたい子羊のを使っている。
MAPLay. 1 b
クルジュラル店内 (09:50)
MAPLay. 1 b
クルジュラル店内 (10:24)
MAPLay. 1 b
株式会社クルジュラル [KIRCILAR] (10:25)
トルコ人は、もともと遊牧民族であったため、伝統を活かした革製品の製造には強みがある。
「北西」MAPLay. 1 a
マルマラ海 [Marmara Denizi] (10:48)
「東南東」MAPLay. 1 c
マルマラ海 [Marmara Denizi] (10:49)
マルマラ海沿いには、嘗てコンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁が残されている。
「南東」MAPLay. 1 d
嘗ての城壁 (10:50)
マルマラ海沿いには、嘗てコンスタンティノープルを囲んでいた一重の城壁が残されている。
「南東」MAPLay. 1 e
イェニカプフェリーターミナル [Yenikapı Feribot İskelesi] 近くの交差点 (10:53)
「東」MAPLay. 1 f
イェニカプフェリーターミナル [Yenikapı Feribot İskelesi] 近くの交差点 (10:53)
「東」MAPLay. 1 f
ヴァレンス水道橋 [Valens Kemeri] (10:56)
ローマ帝国時代の水道橋の遺構。 水道橋はイスタンブルの前身となるコンスタンティノポリスを建設 (330年) したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の時代に、現イスタンブル旧市街地区東部に新鮮な水を渡すために建設が始まり、ヴァレンス帝がコンスタンティノポリスを統治していた378年に完成したため、皇帝の名をとってヴァレンス水道橋と呼ばれている。
「北東」MAPLay. 1 g
アタテュルク橋 [Atatürk Köprüsü]/Unkapanı橋からの眺め (10:58)
アタチュルク橋 (別名:Unkapanı橋) は 、金角湾 [Altın Boynuz] 上に架かる道路橋で、トルコ共和国の初代大統領であるムスタファ・ケマル・アタチュルクにちなんで命名されている。 現在の橋は1936年 ~1940年の間に建設された。
「南東」MAPLay. 1 h
アタテュルク橋 [Atatürk Köprüsü]/Unkapanı橋からの眺め (10:59)
「北北東」MAPLay. 1 i
アタテュルク橋 [Atatürk Köprüsü]/Unkapanı橋からの眺め (10:59)
「北西」MAPLay. 1 j
ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:04)
ジェノヴァ人居住区を囲んでいた外壁に建てられた巨大な物見台。 コンスタンティノープル攻略 (1453年) 後、メフメット2世 [Mehmet II] は塔の高さを7mほど低くして捕虜収容所に、ムラト3世の時代には気象観測所に使われた。
「南東」MAPLay. 1 k
ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:04)
嘗て、ガラタのこの居住区は、ジェノヴァ通商の重要な拠点だった。 そのためガラタ塔は、通称を「ジェノヴァ人の塔」とも呼ばれていた。 ガラタ地区は、この塔を中心に、金角湾とボスフォロス海峡に降りる形に築かれた城壁に囲まれ、二百年も続いたジェノヴァ人だけの居住区であった。
 「南東」MAPLay. 1 l
Büyük Hendek道 [Büyük Hendek Caddesi] (11:05)
「南東」MAPLay. 1 m
Büyük Hendek道 [Büyük Hendek Caddesi] (11:05)
「南東」MAPLay. 1 n
Büyük Hendek道 (11:06)
「南東」MAPLay. 1 o
Büyük Hendek道 (11:06)
「南東」MAPLay. 1 p
ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:07)
「南東」MAPLay. 1 q
ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:08)
「南東」MAPLay. 1 r
1453年5月29日火曜日

の朝ジェノヴァ人の居住

区の鍵は征服王・スルタ

ン・マホメッドに差し出さ

れた。 ガラタ地区の降

伏は6月1日金曜、その

1日の間に全て完了した

ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:08)
「南東」MAPLay. 1 s
ガラタ塔 [Galata Kulesi] (11:09)
「南東」MAPLay. 1 s
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:20)
この塔の高さは67m。 バルコニーからは、イスタンブール中心部のパノラマが楽しめる。 南側は旧市街、北側は新市街、東側はボスフォラス海峡とアジア側、西側は金角湾などの眺望が楽しめる。
「北西」MAPLay. 1 t
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:20)
左手に見える湾は、金角湾 [Altın Boynuz] 。
「北西」MAPLay. 1 t

イスタンブールの街は、元来は紀元前7世紀頃にギリシア人によって建設され、ビザンティオンと呼ばれた。 しかし、西暦330年に、コンスタンティヌス大帝が、ローマ帝国の首都をローマからここに移した後は、コンスタンティノポリス、すなわち「コンスタンティヌスの町」の名前で知られるようになった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:20)
「北」MAPLay. 1 t

この町は、ビザンティオンコンスタンティノポリス、そしてイスタンブールという、3つの名をもった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:21)
左手はの湾は、ハリチュ [Haliç] 。
「西北西」MAPLay. 1 t

イスタンブールの名は、1453年に、オスマン帝国がこの町を征服した後に、広く用いられるようになった。 イスタンブールの名はトルコ語に由来するのではなく、ギリシア語の "イス・ティン・ポリン" [ Istinpolin] (町へ) という、表現に由来していた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:22)
右手の海峡は、ボスポラス海峡 [Bosporus] 。  トルコのヨーロッパ部分 "オクシデント" [Occident] とアジア部分 "オリエント" [Orient] を隔てる海峡。
「北東」MAPLay. 1 t

ボスフォラス海峡西岸の一ギリシア都市ビザンティオンが、ローマの帝都への道を歩み始めたのは、西暦324年である。 この年、ライバルのリキニウスを破り、ローマ帝国の支配権を完全に掌握したコンスタンティヌスは、勝利を機に、この町の大々的再構築計画を練り始め、326年には新市域を定め、新都市建設に着手した。 そして、330年5月11日、ローマ帝国の首都をローマからこの町に移した。 まもにく新帝都は、コンスタンティノポリス*と呼ばれ始めた。
コンスタンティノポリスは「東ローマ帝国」あるいは「ビザンチン帝国」とも呼ばれる。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
右手の海峡は、ボスラス海峡 [Bosphorus] 。 トルコ語では 「海峡の内」 を意味する "ボアジチ" [Boğaziçi] という名で呼ばれる。
「東北東」MAPLay. 1 t

ローマ帝国は、395年、東西に分裂し、476年には、西ローマ帝国が滅亡した。 しかし、コンスタンティノープル*の町づくりは、これらの事件をのりこえ、着々と進められた。 410年に、ローマが西ゴート人に蹂躙されたのをきっかけに、412年にはテオドシウス帝が、市の西郊を守る大城壁建設に着手した。 413年にはこれが完成し、帝都の守りは殆ど万全になった。 6世紀には、市民の反乱で焼け落ちたアヤ・ソフィア大聖堂を、ユスティニアヌス大帝が再建し、現在のアヤ・ソフィアが成立した。 アヤ・ソフィアのすぐ西隣りにあり、今日では地下宮殿と呼ばれている巨大な地下貯水池も、ユスティニアヌス帝が建設した物である。
コンスタンティノポリスの英語式発音。
出典: コンスタンティノープルの陥落 (塩野 七生 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
三つ叉に分かれた水路。 左手は、ボスポラス海峡 (イスタンブル海峡) 。 右手の向こう側は、マルマラ海。 右手の手前は、金角湾。
「南東」MAPLay. 1 t

7世紀に入ると、ビザンチン帝国にとって、東方で新たな脅威が生じた。 7世紀前半にアラビア半島で、予言者ムハンマドが創始したイスラムが、7世紀中期以降、東西に急速に拡大し始め、この大征服によって、ビザンチン帝国は、シリア、エジプト、北アフリカなどを失った。 しかし、その後、新興のイスラム勢力と対峙し、10世紀後半から11世紀前半にかけては再び活性化し、勢力域をかなり回復した。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
三つ叉に分かれた水路。 左手は、ボスポラス海峡 (イスタンブル海峡) 。 右手の向こう側は、マルマラ海。 右手の手前は、金角湾。
「南東」MAPLay. 1 t

しかし、11世紀後半に入ると、新たなイスラムの脅威にさらされることになった。 今度のイスラムの攻勢の担い手は、トルコ人たちであった。 中央アジアの遊牧民であったトルコ人は、10世紀以降になると、あるいは奴隷として、あるいは独自の集団として、イスラム世界内に大々的に流入し始めた。 11世紀前半には、ムスリム化したトルコ人の一派が、イラン高原で大セルジューク朝を樹立した。 11世紀後半には、ビザンチン領のアナトリア (小アジア) への侵攻を開始し、1071年には、マンズィケルトの戦いでビザンチン軍を大破し、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネス皇帝を捕虜にした。 1077年には、大セルジューク朝の王族の一人が、アナトリアにルーム・セルジューク朝を樹立し、一時は同地を殆ど席巻した。 ルーム・セルジューク朝は、まもなくニケア (イズニク) を都とし、コンスタンチノープルの間近にまで迫った。
中央アジアの位置
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
右手の橋は、ガラタ橋 [Galata Köprüsü] 。
「南南東」MAPLay. 1 t

この危機は、ビザンチン帝国の人々のみならず、西欧世界にも衝撃を与えた。 これをきっかけに結成された第一次十字軍 (1096年 – 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動で、まずアナトリアに赴き、ルーム・セルジューク朝を襲い、一旦はアナトリア東部まで押し戻し、聖地エルサレム奪還した。 しかし、ルーム・セルジューク朝は、盛り返し始めた。 西欧のキリスト教勢力とオリエントのイスラム教勢力がぶつかったこの時代、教理問題でカトリックと分離したギリシア正教(PDF)の本拠地となっていたビザンチン帝国は、この両新興勢力の間で、旗色の判然としない中間の国になっていた。 この様な事情も影響し、戦争目的や東西貿易をめぐり、ビザンチン帝国と十字軍との間で対立が目立ち始めた。 1204年、第4次十字軍は、東西交易に野心をもつヴェネツィアにそそのかされ、コンスタンティノープルを襲って占領し、ラテン帝国を樹立した。 ビザンチン側は、アナトリア岸のニケア (イズニク) に拠って対抗し、1261年には、コンスタンティノープルの奪回に成功した。 しかし、この間にビザンチン帝国は決定的に弱体化し、コンスタンティノープルの街の荒廃も進んでいた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
金角湾の向こう側は、旧市街、こちら側は新市街。
「南西」MAPLay. 1 t

アナトリアでは、13世紀前半に、ルーム・セルジューク朝が最盛期を迎えたが、ユーラシア全域を脅かしたモンゴルの進攻が、アナトリアにも及び、1243年にルーム・セルジューク朝はモンゴルの属国になり、衰退していった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
金角湾の向こう側は、旧市街、こちら側は新市街。 中央の橋は、ガラタ橋 [Galata Köprüsü] 。
「南」MAPLay. 1 t

13世紀後半のアナトリアは、ムスリム・トルコ系の君侯国 (ベイリク) や、ガーズィー*と呼ばれるムスリム・トルコ系の戦士たちの割拠するところになっていた。

非ムスリム人民への財産狩りや奴隷狩りなどの掠奪遠征に従事とする者、「聖戦に参加する者」を意味する。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:23)
「南南東」MAPLay. 1 t

13世紀末、ビザンチン世界とイスラム世界の境界に位置するアナトリア西北端に、オスマン*という名の指導者に率いられたムスリム・トルコ系のガーズィーの集団が現れ、他のムスリム・トルコ系の諸勢力とも争いながら、最辺境の地の利を生かして、キリスト教徒の土地であるビザンチン帝国領に対し、活発に 「イスラムの聖戦」 (ジハード) を敢行し、征服地を拡大していった。

アナトリア西北端内陸部のソウト [Söğüt] を本拠とするムスリム・トルコ系の戦士集団の長、エルトゥールル[Ertuğrul] (1198年 - 1281年)の子であったと伝えられている。 因みに、 1890年に日本を訪問した帰路に、和歌山県串本町沖で座礁し、沈没したオスマン帝国海軍の木造フリゲート艦 "エルトゥールル" は、 オスマン1世の父であるエルトゥールルに因んだ名である。
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「南東」MAPLay. 1 t

オスマンの後を継いだオルハンは、1326年にブルサの町を征服して首都とし、君侯国 (ベイリク) としての基礎を固めた。 その子ムラト1世はバルカンに進出し、アドリアノーブル (エディルネ) を征服し、西方の領土を広げた。 ムラトを継いだ第4代バヤズィット1世は、アナトリアとバルカンの大半を一時席巻し、スルタンとして広大な帝国を支配し、数度にわたりコンスタンティノープルを包囲した。 しかし、1402年、彼はアンカラの戦いでティムールに敗れ、帝都は救われた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「東」MAPLay. 1 t

イスタンブール旧市街は、西欧人が金角湾 [Golden Horn]* と呼ぶ細長い河口のような湾 [Haliç] によって北側の陸地から隔てられ、東はボスポラス、南はマルマラ海に面している。 このため、海に守られた北、東、南の三方面は、守りやすく、一重の城壁が巡らされているのみであった。 これに対し、町の西側のみは、その西方にひろがるトラキアの地と陸続きであり、陸上からの大規模な攻撃にさらされやすかった。 このため、最大の弱点たる市の西側の防衛のために、コンスタンティヌス大帝時代以来、次々と城壁が設けられた。 とりわけ413年に完成したテオドシウス帝の三重の城壁は、それらのなかで最大のものであった。 (延長約 5.6km)

*金角湾 : 英語では、Golden Horn 、トルコ語では Altın Boynuz 、 ギリシア語では、Χρυσόν Κέρας と呼ばれ、いずれも湾が夕陽に照らされ金色に輝く姿が、牛の角に似ていることから名付けられた。 しかし、通常トルコ語では「入り江」を意味する "ハリチュ" [Haliç] で呼ばれている。
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「南東」MAPLay. 1 t

大城壁に守られたコンスタンティノープルは、15世紀中期に最後の危機を迎えた。 かつて、この都を数回にわたって脅かしたムスリム・トルコ系のオスマン帝国は、バヤズィット1世がアンカラの戦いに敗れたのち、分裂と消滅の危機にさらされた。 しかし、バヤズィトの子のメフメット1世が、漸く再統一に成功し、コンスタンティノープルの西方、約200kmのエディルネを根拠地に、帝国再建に取りかかった。 しかし、再建は手間どり、メフメット1世の子で、オスマン朝代6代のムラト2世の時代までは、ほとんど失地回復に費やされた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「南」MAPLay. 1 t

コンスタンティノープルにとっての最後の危機は、ムラト2世の子メフメット2世 [Mehmet II] が、1451年2月18日に、オスマン朝代7代スルタンとして、最終的にエディルネで即位したときに始まった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
中央やや右手に見える橋は、アタチュルク橋 [Atatürk Köprüsü] 。
「南西」MAPLay. 1 t

当初、少年のスルタンを侮り、中南部のコンヤを中心に勢力をはっていた、同じくムスリム・トルコ系のライバル、カラマン君侯国* (ベイリク) が、進攻してきた。 時のビザンチン帝国コンスタンティヌス11世も、コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。 メフメット2世 [Mehmet II] はビザンチンのコンスタンティヌスの要求を忌々しく思ったが、カラマンの攻撃に対処するために怒りを抑えてビザンチンの使者を帰し、アナトリアに渡ってカラマン軍を打ち破った。 その帰途、1452年3月末、彼はコンスタンチノープル郊外に姿を現した。

アナトリア・セルジューク朝が滅びたとき,1256年カラマンオウル・メフメット・ベイによって建てられた一侯国。 最初カラマンが中心地であったが,後に都をコンヤに移し,木材の輸出や良馬の飼育で知られた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「南」MAPLay. 1 t

メフメット2世 [Mehmet II] は、曾祖父バヤズィット1世が築いたアナドル・ヒサーリ (アジアの砦) を補修するとともに、その向かい側のヨーロッパ岸に、新たにルメリ・ヒサーリ (ヨーロッパの砦) の建設を始めた。 ビザンチン皇帝の再三の抗議にもかかわらず工事は進められ、7月には砦が完成した。 これにより、ボスポラス海峡封鎖体制が整った。
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
中央に見える橋は、アタチュルク橋 [Atatürk Köprüsü] 。
「西南西」MAPLay. 1 t

メフメット2世 [Mehmet II] は、その冬から翌1453年春にかけて、エディルネでコンスタンチノープル征服の準備に没頭した。 メフメットは、コンスタンチノープルの絵図を入手し、攻撃策を工夫した。 攻略の最大の障害は、大城壁であった。 しかし、ビザンチン側への売り込みに失敗したハンガリー人技術者ウルバンが、巨砲制作技術の提供を申し出たことで、最大の難問も、解決の目途がついた。 ウルバンの巨砲と呼ばれるこの大砲は、砲身がが8m余りも有り、600kg近い石の巨丸を1.6kmも飛ばすことが出来た。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:24)
「南南東」MAPLay. 1 t

1453年に入り、メフメットは、帝国各地に、兵員と物資の動員令を次々と送った。 ダーダネルス海峡ヨーロッパ岸のゲリボリのドックからは、300隻をこえる艦隊が出動した。 巨砲は60頭の牛にひかれ、左右各200人の人員にバランスをとらせながらエディルネから送り出された。 そして、3月23日、エディルネを発ったメフメット2世 [Mehmet II] とその本体も、4月5日、コンスタンチノープルの西郊の大城壁外に到着した。 その兵力は、正規軍8万、不正規軍2万から4万、合わせて10万から12万くらいであったと言われている。
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:25)
中央やや右手に見える橋は、アタチュルク橋 [Atatürk Köprüsü] 。
「南西」MAPLay. 1 t

メフメットは、直ちに包囲にかかり、翌1453年4月6日には、配置を完了した。 主力は、大城壁の前に配置された。 ロマヌス門 (トプカプ*) の向かいには、巨砲がすえられ、その後方に、メフメットは、常備歩兵イェニチェリらと共に布陣した。 その北側にはルメリ、南にはアナドルの正規騎兵軍が陣取った。 金角湾北岸のガラタ地区の西側には、別に一軍が配置された。 ルメリとアナドルの両砦には大砲がすえられ、海峡封鎖態勢をとった。』

トプカプは、トルコ語で「大砲の門」を意味する。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:25)
「南南東」MAPLay. 1 t

ビザンチン側は、弱体化著しく、包囲直前の1453年3月末時点で、戦闘可能なな男子は、ビザンチン臣民4983人、外国人2000人弱であった。 この少ない兵員は、大城壁を中心に配置された。 金角湾口には、旧市街側からガラタ側に、敵船の侵入を防ぐための巨大な鉄鎖が張られた。 湾内には、小規模だが優秀なビザンチン艦隊が陣取った。
出典: コンスタンティノープルの陥落 (塩野 七生 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:25)
「南東」MAPLay. 1 t

攻防は長びいた。 オスマン側は、何回か降伏勧告の使者を送ったが、拒絶された。 ビザンチン側への西欧からの本格的援軍も、到着しなかった。 ただ、1453年4月20日、西欧からの援助の一部を載せた数隻の船団が、オスマン艦隊を退けて無事入港した。 これを見て激怒したメフメット2世 [Mehmet II] は、オスマン艦隊の一部をガラタ後方から山越えさせて、金角湾西側に送り込むという奇策を実行に移し成功した。 ビザンチン艦隊は、東側に追い込まれ、金角湾側からの攻撃も激化した。
オスマン艦隊の山越え (推定ルートとイメージ図)
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「南南西」MAPLay. 1 t

しかし、ビザンチン側の防備は固く、攻城車 (攻城塔) による攻撃や、地下からの坑道による侵入*1作戦も撃退された。 巨砲による砲撃にも拘わらず、大城壁も健在だった。 オスマン側では、メフメット2世を始めとする主戦派と、カリル・パシャ*2らの平和派の論争が再燃した。 ハンガリーを始め、ヨーロッパのキリスト教徒勢力も、介入の構えを見せ始めた。

*1地下からの坑道作戦には、地下道を通って侵入する方法と、地下道を城壁の下まで掘り進み、そこで坑道を支えている木製の支柱を燃やし、坑道を落磐させると同時に、その上にある城壁を崩壊させるといった方法もある。
*2カリル・パシャは、メフメット2世の父ムラードの時代から仕えていた老宰相で、信頼のおける重鎮であった。 メフメット2世 [Mehmet II] が12歳の年に父親から位を譲られたとき、父親から、カリル・パシャを師と思って彼の忠告を聞くようにと伝えられていた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「西南西」MAPLay. 1 t

この様な情勢のなかで、メフメットは攻撃を強めた。 とりわけ、大城壁に対する巨砲の砲撃が強化され、損傷も拡大し始めた。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「西」MAPLay. 1 t

1453年5月29日未明、メフメットは最後の総攻撃を開始した。 大城壁を中心に、激しい攻防が続いたが、ビザンチン側が閉め忘れた皇城近くの大城壁の小門から、一団のオスマン兵士が場内に入り込み、塔に登って旗を掲げたため、混乱が生じた。 この隙をついて、砲撃で大城壁に生じた穴からも、オスマン軍が場内に突入し、市中は乱戦の巷と化した。 これを見て、ビザンチン最後の皇帝、コンスタンティヌス11世は、皇帝の徽章をはぎ取り、戦闘に身を投じ、行方知れずとなった。 15世紀のビザンチン帝国をひきいる皇帝が、偶然にも、創立者と同じ名のコンスタンティヌス11世であった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「北西」MAPLay. 1 t

勝ちに乗じたオスマン軍は、市中の大略奪を開始した。 財貨は奪いつくされ、市民の多くは、奴隷とすべく捕らえられた。 この略奪から、アヤ・ソフィアを始め、聖堂も修道院も免れなかった。 大略奪が一応おさまった後、メフメット2世 [Mehmet II] は、代官たちを従え、威儀を正して、ビザンチン一千年の帝都に入城した。
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「南西」MAPLay. 1 t

メフメット2世 [Mehmet II] は、入城後、まず、アヤ・ソフィアに赴き、最初の礼拝を行った。 アヤ・ソフィアを始め、市中の聖堂、教会の多くは、モスクに転用された。 ビザンチンの帝都の、ムスリム・トルコ的な街としての再建が始まった。』 
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「西」MAPLay. 1 t

まだ自由の身で残っていた市民達は、身柄を保証された。 イスラム法 (シャリーア) にのっとり、彼らには、保護が与えられ、被保護民として、貢納の義務と一定の行動制限に従う限り、固有の信仰と法を保ち、自治生活を営むことが許された。 彼らのためにいくつかの教会が確保され、ギリシア正教徒の長として、新たな総主教が任命された。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「北西」MAPLay. 1 t

激減した人口の回復のためには、帝国各地から、ムスリムのみならず、各宗派のキリスト教徒やユダヤ教徒が、あるいは任意で、あるいは強制によって移住させられた。 市内には、スルタンの宮殿や大バザールが建設されるとともに、多くのモスクも新築され始め、ムスリムの都市らしい姿をととのえていった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「北西」MAPLay. 1 t

人口が減り、空き地がめだつ市内では、モスクを中心に諸施設が整備され、新しい街区が次々と創り出されてった。 モスクには、しばしば庶民教育用の初等学校や、イスラム諸学の高等教育のためのイスラム学院、さらに救貧給食施設や病院も併設されて、施設複合体の形をとり、街づくりの中心となった。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「東北東」MAPLay. 1 t

モスクをはじめとする、これらの非営利施設は、宗教寄進財産 (ワクフ) により、運営維持された。 ワクフの財源として、公共施設ではあるが、湯銭収入も入る公衆浴場や賃貸住宅、賃貸店舗、屋根付き市場や個室付き商人宿のような営利施設が設けられた。 この様な試みを通じ、イスタンブールは、新たな街として再生した。
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:27)
「東北東」MAPLay. 1 t
ガラタ塔 [Galata Kulesi] からの眺望 (11:28)
「北東」MAPLay. 1 t
ガラタ塔内 (11:32)
MAPLay. 1 t
ガラタ塔内 (11:32)
MAPLay. 1 t
Refik Saydam Caddesi (11:43)
前方に見える橋は、金角湾に架かるアタテュルク橋 [Atatürk Köprüsü]
「南西」MAPLay. 1 u
レフィク・サイダムストリート (11:43)
前方に見える橋は、金角湾に架かるアタテュルク橋 [Atatürk Köprüsü]
「南西」MAPLay. 1 u
レフィク・サイダムストリート (11:57)
「西北西」MAPLay. 1 v
レフィク・サイダムストリート (11:58)
「北西」MAPLay. 1 v
レフィク・サイダムストリート [Refik Saydam Caddesi] (11:58)
「西北西」MAPLay. 1 v
レフィク・サイダムストリート [Refik Saydam Caddesi] (12:00)
前方に見える湾は、金角湾。 金角湾は、 英語では、Golden Horn 、トルコ語では Altın Boynuz 、 ギリシア語では、Χρυσόν Κέρας と呼ばれ、いずれも湾が夕陽に照らされ金色に輝く姿が、牛の角に似ていることから名付けられた。 しかし、通常トルコ語では「入り江」を意味する "ハリチュ" [Haliç] で呼ばれている。
「西北西」MAPLay. 1 w
レフィク・サイダムストリート [Refik Saydam Caddesi] (12:00)
前方に見える湾は、金角湾。 金角湾は、 英語では、Golden Horn 、トルコ語では Altın Boynuz 、 ギリシア語では、Χρυσόν Κέρας と呼ばれ、いずれも湾が夕陽に照らされ金色に輝く姿が、牛の角に似ていることから名付けられた。 しかし、通常トルコ語では「入り江」を意味する "ハリチュ" [Haliç] で呼ばれている。
「西」MAPLay. 1 x
タルラパシュ大通り [Tarlabaşı Bulvarı] (12:03)
「北東」MAPLay. 2 A
タルラパシュ大通り [Tarlabaşı Bulvarı] (12:03)
「北東」MAPLay. 2 A
タルラパシュ大通り [Tarlabaşı Bulvarı] (12:06)
"タルラパシュ大通り" [Tarlabaşı Bulvarı] でバスを降り、食事のため "ザムバク通り" [Zambak Sokak] を経て "イスティクラル通り" [ İstiklal Caddesi] へ向かう。
「東」MAPLay. 2 B
ザムバク通り [Zambak Sokak] (12:06)
「南南東」MAPLay. 2 B
ザムバク通り [Zambak Sokak] (12:08)
「南南東」MAPLay. 2 C
日本食レストラン "Tokyo Restaurant istanbul のあるイペク通り [İpek Sokak] (12:10)
「南西」MAPLay. 2 D
Tokyo Restaurant istanbul (12:18)
MAPLay. 2 E
Tokyo Restaurant istanbul (12:29)
MAPLay. 2 E
Tokyo Restaurant istanbul (13:05)
イペク通り [İpek Sokak] にある、日本料理店前にて。
「南東」MAPLay. 2 F
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] (13:11)
「タクスィム」とは「分割、分配」を意味するアラビア語: تَقْسِيم, taqsīmに由来する。 当初、オスマン帝国のスルタンマフムト1世の時代、イスタンブル北部の水源から送られてきた水を都市の各方面に分配する設備が建設された場所であった。 この広場は新市街の中心的な観光地でもあり、また地下鉄を始め都市交通の拠点でもある。
広場の中心部には、1928年にトルコ共和国建国を記念して建設された共和国のモニュメント(トルコ語版)が建っている。また、広場に隣接して公園(Taksim Gezi Parkı)がある。 出典:Wikipedia
「南南東」MAPLay. 2 G
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] (13:11)
「タクスィム」とは「分割、分配」を意味するアラビア語: تَقْسِيم, taqsīmに由来する。 当初、オスマン帝国のスルタンマフムト1世の時代、イスタンブル北部の水源から送られてきた水を都市の各方面に分配する設備が建設された場所であった。 この広場は新市街の中心的な観光地でもあり、また地下鉄を始め都市交通の拠点でもある。
広場の中心部には、1928年にトルコ共和国建国を記念して建設された共和国のモニュメント(トルコ語版)が建っている。また、広場に隣接して公園(Taksim Gezi Parkı)がある。 出典:Wikipedia
「南南東」MAPLay. 2 G
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] (13:12)
共和国のモニュメントの向こう側に見える、横に長く伸びた石壁の左端 (写真には写っていない) に 、嘗ての、分水器の建物 (八角形の建物) がある。 (下図参照)
「西北西」MAPLay. 2 H
タクスィム広場の南側にある建物の内、左端にある建物が分水器の建物。 出典:Google Street View
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] (13:12)
「タクスィム」とは「分割、分配」を意味するアラビア語: تَقْسِيم, taqsīmに由来する。 当初、オスマン帝国のスルタンマフムト1世の時代、イスタンブル北部の水源から送られてきた水を都市の各方面に分配する設備が建設された場所であった。 この広場は新市街の中心的な観光地でもあり、また地下鉄を始め都市交通の拠点でもある。
広場の中心部には、1928年にトルコ共和国建国を記念して建設された共和国のモニュメント(トルコ語版)が建っている。また、広場に隣接して公園(Taksim Gezi Parkı)がある。 出典:Wikipedia
「北北東」MAPLay. 2 I
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] (13:13)
「タクスィム」とは「分割、分配」を意味するアラビア語: تَقْسِيم, taqsīmに由来する。 当初、オスマン帝国のスルタンマフムト1世の時代、イスタンブル北部の水源から送られてきた水を都市の各方面に分配する設備が建設された場所であった。 この広場は新市街の中心的な観光地でもあり、また地下鉄を始め都市交通の拠点でもある。
広場の中心部には、1928年にトルコ共和国建国を記念して建設された共和国のモニュメント(トルコ語版)が建っている。また、広場に隣接して公園(Taksim Gezi Parkı)がある。 出典:Wikipedia
「北北東」MAPLay. 2 I
タクスィム広場 [Taksim Meydanı] に面して建つ Food shop (13:17)
ドネルケバブを使ったハンバーガーショップが多く建つ。 ドネルケバブは、トルコ料理の中でも最もポピュラーな料理の一つ。 香辛料やヨーグルト、マリネなどで下味を付けた肉を大まかにスライスして積み重ね、特別な垂直の串に刺し、あぶり焼きにしてから外側の焼き上がった褐色の層を大きなナイフで薄くそぎ落とした肉料理。
「南西」MAPLay. 2 J
イスティクラル (独立) 大通り [ İstiklal Caddesi] (13:35)
イスタンブル銀座とでも言える古くからの繁華街。 都市の郊外への発展で一時沈滞ぎみだったが、昨今は再び賑わいを取り戻し、トルコ・ブランドの殆どが、この通りに店を開いている。
「北東」MAPLay. 2 K
イスティクラル* (独立) 大通り [ İstiklal Caddesi] (13:35)
トルコ・ブランドの衣類や靴は、ヨーロッパ・ブランドの下請け制作をしているだけに、驚くほど洗練された製品がある。 ヨーロッパ・ブランドを購入するよりも、お買い得かも?
イスティクラルは、アラビア語で「イスティクラール」 استقلال istiqlāl といい、「独立」を意味する。
「西南西」MAPLay. 2 K
ドルマバフチェ・ガス工場通り [Dolmabahçe Gazhane Caddesi] (14:06)
前方の海は、ボスポラス海峡 [Bosporus] 。 ボスポラスとは「牝牛の渡渉 (徒渉)」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。 出典:Wikipedia
「南東」MAPLay. 2 L
ドルマバフチェ・ガス工場通り [Dolmabahçe Gazhane Caddesi] (14:06)
前方の海は、ボスポラス海峡 [Bosporus] 。 ボスポラス海峡は、トルコ語では「海峡の内」を意味するボアジチ [Boğaziçi] という名で呼ばれる。 イスタンブル海峡としても知られる。 出典:Wikipedia
「南東」MAPLay. 2 M
オルタキョイ [Ortaköy] (14:22)
左端に見える、建築用のシートが掛かった建物は、オルタキョイ・ジャーミイ [Ortaköy Camii] 。 新バロック様式、建設年:1853年、建設者:アブドゥル・メジト1世 (在位1839-61) 、建築家:ガラベトの息子のニゴーオス・バルヤン
「南東」MAPLay. 2 N
オルタキョイ [Ortaköy] (14:22)
眼前にはボスポラス海峡 [Bosporus] があり、その向こうにはアジア岸を見ることが出来る。
「南」MAPLay. 2 N
オルタキョイ [Ortaköy] (14:22)
手作りアクセサリーにおしゃれな靴、画材店に雑貨店、帽子に古いおもちゃ。 個性を持った店が多く、他では手に入りにくいと思われる商品が並んでいる。
「東」MAPLay. 2 N
オルタキョイ [Ortaköy] (14:23)
眼前にはボスポラス海峡 [Bosporus] があり、その向こうにはアジア岸を見ることが出来る。
「南東」MAPLay. 2 N
オルタキョイ [Ortaköy] (14:24)
左は、ボスポラス海峡 [Bosporus] 。 右は、ヨーロッパ岸。
「西」MAPLay. 2 O
オルタキョイ [Ortaköy] (14:26)
イスタンブールボスポラス橋 (第一ボスポラス大橋) [İstanbul Boğaziçi* Köprüsü] 。
ボスポラス橋は、イスタンブルでボスポラス海峡に架かる吊り橋。 ボスポラス海峡に架かるもう一つのボスポラス橋 (北側にある) と区別するため、第一ボスポラス橋と呼ばれることもある。
「南東」MAPLay. 2 P

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
オルタキョイ [Ortaköy] (14:26)
ボスポラス海峡沿いの街で、開放感にみち、若者達のパワーがあふれている。 0時過ぎ夜景を撮りに、この辺りに来たが、若者達は大勢でダンス (フォークダンス) を楽しみ、周りでは多くの店が営業を続けていた。 結局お祭り騒ぎのような人混みに圧倒され、撮影は出来なかったが、若者達の健全なパワーは印象に残っている。
「南東」MAPLay. 2 Q
オルタキョイ [Ortaköy] (14:27)
ボスポラス海峡に架かる、 第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。 別名ボアズィチ*大橋 [Boğaziçi Köprüsü] 全長:1,510m 、中央支間長:1,074m 、幅員:39m(6車線)、高さ:64m 、主塔の高さ: 105m 。
「東南東」MAPLay. 2 R

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
オルタキョイ [Ortaköy] (14:28)
ボスポラス海峡に架かる、 第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。 別名ボアズィチ*大橋 [Boğaziçi Köprüsü] 全長:1,510m 、中央支間長:1,074m 、幅員:39m(6車線)、高さ:64m 、主塔の高さ: 105m 。
「東」MAPLay. 2 S

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
オルタキョイ [Ortaköy] (14:28)
ボスポラス海峡に架かる、 第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。 別名ボアズィチ*大橋 [Boğaziçi Köprüsü] 全長:1,510m 、中央支間長:1,074m 、幅員:39m(6車線)、高さ:64m 、主塔の高さ: 105m 。
「東」MAPLay. 2 S

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
オルタキョイ [Ortaköy] (14:29)
左手の一段高くなったステージでは、夜になるとダンスパーティーが繰り広げられる。 とは言っても、私の見たのはフォークダンスだった。
「東南東」MAPLay. 2 T
オルタキョイ [Ortaköy] (14:29)
ボスポラス海峡に架かる、 第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。 別名ボアズィチ*大橋 [Boğaziçi Köprüsü] 全長:1,510m 、中央支間長:1,074m 、幅員:39m(6車線)、高さ:64m 、主塔の高さ: 105m 。
「東」MAPLay. 2 U

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
オルタキョイ [Ortaköy] (14:29)
ボスポラス海峡に架かる、 第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。 別名ボアズィチ*大橋 [Boğaziçi Köprüsü] 全長:1,510m 、中央支間長:1,074m 、幅員:39m(6車線)、高さ:64m 、主塔の高さ: 105m 。
「南東」MAPLay. 2 V

ボアズィチ [Boğaziçi] はトルコ語でボスポラス海峡を意味する。
ドルマバフチェ・ジャーミイ [Dolmabahçe Camii] 前 (14:59)
右端に少し見えているのが、ドルマバフチェ・ジャーミイ。 左に見える時計塔は、ドルマバフチェ宮殿の時計塔 [Dolmabahçe Sarayı Saat Kulesi] 。
「東」MAPLay. 2 W
ドルマバフチェ・ジャーミイ [Dolmabahçe Camii] (14:59)
新古典主義様式のモスク。 建設年:1852~55年、建設者:ベズミアーレム・ヴァーリデ・スルタンと息子のアブデュルメジト1世 (在位1839-61) 、建築家:クリコルの息子のガラベト・バルヤン。
「南東」MAPLay. 2 X
Dentur Avrasya桟橋 [Dentur Avrasya İskelesi] (15:05)
「南」MAPLay. 2 Y
Dentur Avrasya桟橋 [Dentur Avrasya İskelesi] (15:05)
「南」MAPLay. 2 Z
Budo Kabataş 桟橋 [Budo Kabataş İskelesi] (15:06)
「南」MAPLay. 2 a
Budo Kabataş 桟橋 [Budo Kabataş İskelesi] (15:07)
「東南東」MAPLay. 2 b
歴史の泉 [Tarihi Çeşme] (15:07)
チェシメ [Çeşme] は、オスマン帝国時代の人工の泉で、飲料水や生活用水の供給施設。 18世紀前半に、人々が集まる広場を飾る建物として、町中に多く建設された。 水質の良くないイスタンブールでは、水、特に飲料水の確保が、古くから大問題で、すでにローマ・ビザンチン時代から、有名なヴァレンス帝の水道橋や、地下貯水池のような大規模な諸施設が、造られてきた。 征服者メフメッド2世も、ビザンチン以来の水道施設を受け継ぎ、大切に修理して利用するとともに、新たに市外に水源を求め、水道施設の建設にも力をいれた。 スレイマン大帝時代には、さらに人口の急増に対応すべく、金角湾を越えて、黒海に近いベオグラードの森と呼ばれる森林地帯にまで水源を求め、ここの水を市街にまで引くための水道建設さえ行った。 市内の各街区に水道網がつくられ、この水の供給場所として、要所にチェシメ [Çeşme] が造られた。 人々はその蛇口から水を汲み、生活に用いた。
「南」MAPLay. 2 c
歴史の泉 [Tarihi Çeşme] (15:07)
チェシメ [Çeşme] は、オスマン帝国時代の人工の泉で、飲料水や生活用水の供給施設。 18世紀前半に、人々が集まる広場を飾る建物として、町中に多く建設された。
「南東」MAPLay. 2 d
モーラ・チェレビ・ジャーミ [Molla Çelebi Cami] (15:09)
「南」MAPLay. 2 e
Kemeralt 通り [Kemeraltı Caddesi] (15:27)
「南南西」MAPLay. 2 f
ガラタ橋 [Galata Köprüsü] (15:28)
金角湾*に架かる可動橋 (跳ね橋) 。 初代の橋は1845年に開通し、現在の橋は1994年12月に開通した5代目である。 長さ490m、主橋脚間80m、幅42mで片側3車線と歩道を備え、市街電車も通っている。 船が通行する中央部以外は上下二層になっており、上層が車道、下層がレストラン街となっている。
「南南東」MAPLay. 2 g

*金角湾 : 英語では、Golden Horn 、トルコ語では Altın Boynuz 、 ギリシア語では、Χρυσόν Κέρας と呼ばれ、いずれも湾が夕陽に照らされ金色に輝く姿が、牛の角に似ていることから名付けられた。 しかし、通常トルコ語では「入り江」を意味する "ハリチュ" [Haliç] で呼ばれている。
ガラタ橋を渡り終えた旧市街側 (15:29)
前方に見えるモスクは、イェニ・ジャーミ [Yeni Cami] 。  エミノニュ [Eminönü] の桟橋近くに建設されたキュッリエ*のモスク。 商業施設に隣接し、アジア側と行き来する船が発着する桟橋やバスターミナルの近くにあるため、市民に最も親しまれているモスク。 建設年:1597 ~ 1603、1651 ~ 64 (途中、工事は48年間中断されていた)
「南」MAPLay. 2 h

モスクを中心とした大学、図書館、寮、食堂、病院などを含む総合施設。
路面電車、Eminönü Çarşısı駅前 (15:29)
「東北東」MAPLay. 2 i
カドゥキョイ桟橋 [Kadıköy İskelesi] (15:30)
「東」MAPLay. 2 j
İDO Feribot (15:31)
「北東」MAPLay. 2 k
İDO Feribot (15:31)
「北東」MAPLay. 2 l
İDO Feribot (15:31)
「北」MAPLay. 2 m
İDO Feribot (15:31)
「北」MAPLay. 2 n
İDO Feribot (15:31)
「北東」MAPLay. 2 o
金角湾越しに、ベイオール [BEYOĞLU] 方向を望む (15:32)
「北東」MAPLay. 2 p
ボスポラス海峡越しに、ユスキュダル [Üsküdar] 方向を望む (15:35)
「東北東」MAPLay. 2 q
ボスポラス海峡越しに、ユスキュダル [Üsküdar] 方向を望む (15:35)
「東」MAPLay. 2 r
ボスポラス海峡 [Boğaz] (15:35)
左手の奥に見える橋は、第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。
「北東」MAPLay. 2 s
ボスポラス海峡 [Boğaz] (15:35)
左手の奥に見える橋は、第一ボスポラス大橋(1973年建設) 。
「北東」MAPLay. 2 t
ボスポラス海峡 [Boğaz] とマルマラ海 [Marmara Denizi] の境界付近 (15:36)
左手が、ボスポラス海峡、右手が、マルマラ海。
「南南東」MAPLay. 2 u
ボスポラス海峡 [Boğaz] とマルマラ海 [Marmara Denizi] の境界付近 (15:37)
左手が、ボスポラス海峡、右手が、マルマラ海。
「南東」MAPLay. 2 v
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (ブルー・モスク) (15:42)
トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブルの歴史地区の歴史的建造物群のひとつ。 オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世 [Ahmed I] によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて、ビザンチン帝国の宮殿跡地に建設された。 設計はメフメト・アー。 『世界で最も美しいモスク』と評される。
「北北東」MAPLay. 2 w
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (ブルー・モスク) (15:42)
ムスリムは金曜日にモスクに集まって、皆で一緒に礼拝するため、金曜日はアラビア語で「集まる」を意味する動詞 جَمَعَ‎ jama`a に由来する جُمْعَة‎ jum`a と呼ばれる。 このため、特にその地区や地域で重要であったり大きなモスクを "ジャーミ" または "ジャーミイ" جامع‎ jāmi` と呼ばれ、トルコ語では、ジャーミ [Cami] または ジャーミイ [Camii] と表記される。
「北北東」MAPLay. 2 x
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] への通路 (15:42)
もしかして、セヴェルスの城壁跡?

イスタンブールは、ローマ帝國時代、帝國の支配下に置かれた後、BC.7世紀頃ギリシア人によりビュザンティオンを建設する。 だが、ローマ皇帝セプティミウス・セヴェルス (在位:193-211) とシリア総督スペケンニウス・ニゲルとの戰いで、ビュザンティオンは皇帝の敵を支援したため、193年皇帝はビュザンティオンの包囲を開始する。 196年ビュザンティオンは3年間籠城した末、セヴェルス軍により占領され、徹底的に破壊される。 その後セヴェルスは、この地に宮殿、劇場、浴場、競馬場 (ヒッポドローム) を建て、セヴェルスの城壁を築く。 因みに、ブルー・モスクはこの頃の宮殿跡地に建っている。 (下図参照)
「北東」MAPLay. 2 y
出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:43)
イスラム教の五つの義務の内、礼拝は、毎回モスクに来ることは義務ではなく、金曜日の昼の礼拝と、ラマダン際の礼拝の時だけモスクに来ることが義務になっている。 モスクは都市の各街区、各村ごとに設けられるが、都市の中心には金曜礼拝を行うための大きなモスクが置かれ、金曜モスク (マスジド・ジャーミ مسجد جامع‎ masjid jāmi` 、略してジャーミ جامع‎ jāmi` ) と呼ばれている。
「北」MAPLay. 3 A
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:43)
イスタンブールでただ一つ、六つの尖塔 (ミナーレ*) を備えたこのモスク*は、オスマン朝第14代スルタン、アフメッド1世の命により1609年に着工し、ビザンチン帝国の宮殿跡地に完成した。 (1616年)
「北北西」MAPLay. 3 B

トルコ語では ミナーレ [Minare] 、英語では ミナレット [Minaret] と呼ばれ、塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。
モスク(英語:Mosque)は、欧米や日本におけるイスラム教の礼拝堂の呼び名で、トルコでは、金曜日に集団礼拝を行う礼拝所をジャーミ (ジャーミイ) といい、集団礼拝を行わない小さな礼拝所をメスジット [Mescidi] という。

 アザーン
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] への通路 (15:43)
Eゲートから入る。
「北西」MAPLay. 3 C
ブルー・モスク [Blue Mosque] (15:43)
内部の壁が美しい青と白のイズニックタイルで飾られていることから、 ブルー・モスク [Blue Mosque] という名で広く知られている。 ブルー・モスク [Blue Mosque] は、欧米や日本における呼び名で、正式呼称は "スルタン・アフメット・ジャーミイ" [Sultanahmet Camii] 。
「北」MAPLay. 3 D
ブルー・モスクの南側 (15:44)
「北」MAPLay. 3 E
ブルー・モスクの南側 (15:44)
礼拝室への脇入口。
「東」MAPLay. 3 E
脇入口の天井装飾 (15:44)
MAPLay. 3 F    平面図
礼拝室への通路 (15:44)
MAPLay. 3 G    平面図 ②→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:47)
主ドームから見て、南東方向。
MAPLay. 3 G    平面図 ③→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] 見取図
シャドゥルヴァン [Şadırvan] :礼拝前の清めのために設けられた水場。 ソン・ジェマアト・イェリ [Son cemaat yeri]:礼拝に遅れてきた人達のために設けられた礼拝室の入口前の柱廊部分。 ミフラーブ:礼拝の方向 (メッカの方向) を示すため壁に造られた龕。  エクセドラドーム:室内平面を矩形に広げるため、半ドームの両肩に追加した小半ドーム。 ペンデンティブ:正方形の部屋にドームを架ける手法の一つ。 ミナーレ:集団礼拝を行うモスクに付属する塔。

出典: トルコ・イスラム建築紀行 (飯島 英夫薫 )
ブルーモスクの平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:50)
主ドームから見て、南方向。 主ドームを支える "象の足" と言われる4本の柱があり、その上に直径26.5mの主ドームが載っている。 ドームまでの高さは43m 。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:50)
主ドームから見て、南方向。 ブルー・モスクの特色の一つは、採光のために設けられた260の窓からの光で、内部が満たされることである。 イスラムでは偶像崇拝を禁じているため、モスクのステンドグラスには、チューリップやカーネーションなどの植物や幾何学的な文様が用いられている。 陽光が差すとき、ステンドグラスの色が投写され、赤、緑、黄色、そして微妙に異なる様々な色の光が、モスク内に交錯する。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:50)
主ドームから見て、北東側方向。 柱や壁に、アラビア語で書かれたコーランの戒律やイスラム教聖人の名前がある。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:50)
ブルーを基調とした主ドームを中心に、四つの半ドームが囲む。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:51)
ブルーを基調とした主ドームと、その周りを囲む半ドームと隅ドーム。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:51)
主ドームから見て、北西方向。 天井から吊り下げられたモスクランプ。 嘗ては、オイルランプを使っていたが、現在は電球になっている。 因みに、ブルーモスクに吊るされているランプが "トルコランプ" の原型とされている。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:51)
ブルーを基調とした主ドームを半ドームが囲む。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:51)
主ドームから見て、南西方向。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:52)
主ドームから見て、南東方向。 モスクのシャンデリア [Cami Avizeleri] 。 右に見える小部屋は、一般の礼拝席とは分離された特別席で、マフフィル [Mahfil] と呼ばれ、来賓などの特別席として使用されていた。 トルコでは、かつて、マクスーラ [Maqsurah] と呼んでいたが、14世紀以降は、マフフィル [Mahfil] と呼んでいる。
MAPLay. 3 G    平面図 ③→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:56)
主ドームから見て、東方向。
MAPLay. 3 G    平面図 ④→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:56)
主ドームから見て、東方向。 右に見える小部屋は、一般の礼拝席とは分離された特別席で、マフフィル [Mahfil] と呼ばれ、来賓などの特別席として使用されていた。 トルコでは、かつて、マクスーラ [Maqsurah] と呼んでいたが、14世紀以降は、マフフィル [Mahfil] と呼んでいる。
MAPLay. 3 G    平面図 ④→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:56)
主ドーム、半ドーム、隅のドーム。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:57)
主ドームから見て、南方向。 ステンドグラスはオスマン時代の花柄が多く、色調はタイルと同じブルーを基調としている。 トルコを愛したフランス人作家、Piyer Loti [ピエール・ロティ] は、このモスクを見てブルーモスクと名付けている。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:57)
主ドームから見て、東方向。
MAPLay. 3 G    平面図 ④→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:57)
主ドーム、半ドーム、隅のドーム。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:57)
主ドームから見て、南東方向。 正面に見える小部屋は、一般の礼拝席とは分離された特別席で、マフフィル [Mahfil] と呼ばれ、来賓などの特別席として使用されていた。 トルコでは、かつて、マクスーラ [Maqsurah] と呼んでいたが、14世紀以降は、マフフィル [Mahfil] と呼んでいる。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:58)
主ドームから見て、東方向。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:58)
礼拝室正面入口から見て、北東方向。
MAPLay. 3 G    平面図 ⑤→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:58)
礼拝室正面入口から見て、北東方向。
MAPLay. 3 G    平面図 ⑤→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:58)
礼拝室正面入口から見て、南東方向。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:59)
礼拝室正面入口の上部。
MAPLay. 3 G    平面図 ⑥→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:59)
礼拝室正面入口から見て、北東方向。
MAPLay. 3 G    平面図
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:59)
右は主ドーム、その左は半ドーム、半ドームの左を取り囲む3つの小さい半ドームはエクセドラドーム*
*エクセドラドーム:室内平面を矩形に広げるため、半ドームの両肩に追加した小半ドーム。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (15:59)
主ドームを中心に、半ドームが取り囲み、その半ドームを3つの小ドームが取り囲んでいる。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (16:01)
主ドームから見て、南方向。 見えにくいが、左側にはミフラーブミンバルがある。 ミフラーブはメッカの方向を示す壁龕で、礼拝はこの方向に向かって行われる。 礼拝室の真ん中は男性用、壁際と2階席は女性用の席になっている。 これは、礼拝の時の姿勢から想像できるように、男性は礼拝に集中出来なくなるため、習慣的に定まっている。
MAPLay. 3 G    平面図 ⑦→
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (16:01)
主ドームを中心に、半ドームが取り囲み、その半ドームを3つの小ドームが取り囲んでいる。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (16:01)
主ドームを中心に、半ドームが取り囲み、その半ドームを3つの小ドームが取り囲んでいる。
MAPLay. 3 G
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Sultanahmet Camii] (16:01)
白地にブルーを基調とした、緑や赤を交えた彩りの華やなタイルが壁面全体に貼られている。 唐草模様に花柄を交えたこのタイルは、オスマン朝盛期のタイルの主産地、イズニク・タイルの優品を使用している。 この後、17世紀初頭以降、イズニク・タイルは衰えたため、後世に光輝を伝える数少ない作品となっている。 ブルー・モスク [Blue Mosque] という通称は、この装飾タイルの基調をなす青色に由来する。 右壁面のブルーを基調としたタイルの中に散りばめられた赤色は、トルコ人のルーツである中央アジアから伝来したチューリップの原種を象っている。 因みに、トルコの国花はチューリップで、チューリップは、「トルコ人の唇」 を意味する ”テュルク・リップ” [Turkey's lips] から名付けられた。 (下図参照)
MAPLay. 3 G    平面図
チューリップの原種の一例
カザフスタンのアクスジャバグリ自然保護区で咲いていたチューリップの原種。 品種改良された現代のチューリップと比べ、花びらの形状が違う。   出典:http://yksilkroad.exblog.jp/19679147
スルタン・アフメット・ジャーミイの北側 (16:04)
「南東」MAPLay. 3 H
スルタン・アフメット・ジャーミイの北側 (16:04)
「西北西」MAPLay. 3 H
スルタン・アフメット・ジャーミイ北側の礼拝室からの出口 (16:06)
「南」MAPLay. 3 I
スルタン・アフメット・ジャーミイ 北側のミナレット (16:07)
英語では ミナレット [Minaret] 、トルコ語では ミナーレ [Minare] と呼ばれ、塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。
「南」MAPLay. 3 I

 アザーン
シャドゥルヴァン [Şadırvan] (16:10)
中庭外側の柱廊の下にある、礼拝前の清めのために設けられた水場 "シャドゥルヴァン" [Şadırvan] 。
「北西」MAPLay. 3 J
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Camii] の正門側のファサード (16:11)
「南」MAPLay. 3 K
ブルー・モスク [Blue Mosque] の正門 (16:11)
「南」MAPLay. 3 K
ブルー・モスク [Blue Mosque] の正門 (16:11)
「南東」MAPLay. 3 L
スルタン・アフメット・ジャーミイ [Camii] のCゲート (16:11)
Cゲートから出た所が、ローマ競技場跡 [ヒッポドローム] に通じている。 ビザンチン時代の "ヒッポドローム" は、石の桟敷席で囲まれた長円形の大施設で、大宮殿とも通路で直結していた。 しかし、オスマン時代には、この囲いと大宮殿は失われ、その大宮殿跡に "スルタン・アフメット・ジャーミイ" (ブルー・モスク) が建てられた。 (下図参照)
「南東」MAPLay. 3 M
左図:コンスタンティノープル大宮殿は文献などから下方の網掛け部分にあったとされている。 現存する部分は濃い黒で描かれている。 (出典:Wikipedia)   右図:ヒッポドローム [Hippodrome] の想像図。
ビザンチン時代のイスタンブール
画家 "Antoine Helbert" の想像画。
アト・メイダヌ [At Meydanı] (ヒッポドローム) (16:12)
トルコ語で「馬の広場」(アト・メイダヌ) と呼ばれる広場。 ローマ時代の203年に皇帝 "セプティミウス・セヴェルス" によって創設されたこの広場は、後に "コンスタンティヌス大帝" によって拡張された。 ローマ、ビザンチン時代の "ヒッポドローム" は、馬に引かせた戦車の競技場であり、同時に、他の諸競技も行われていた。 また、皇帝専用席 (Kathisma) が大宮殿と直接繋がっていたため、政治的会談や皇帝と一般市民が同じ場所に会するまれな機会を提供していた。 広場に立つ2本の巨石も、ビザンチン以来の遺産で、手前の巨石は、トトメス3世のオベリスクで、これはエジプト第18王朝の王トトメス3世が紀元前16世紀にルクソールのカルナック神殿に建てたものを移送 (3分割して) したもので、西暦4世紀に、テオドシウス帝により、現在の位置に据えられた。 そのため、テオドシウスのオベリスク とも呼ばれる。 その向こうに見える巨石は、コロッススと呼ばれ、西暦4世紀頃に、ここで造られた。 その後10世紀に、コンスタンティノス7世がこれを修復してからは、コンスタンティノス7世のオベリスクとも呼ばれている。 元々は金メッキされた青銅製の板で覆われていたが、第4回十字軍に略奪されたれ、中核部分の石積のみが残っている。 そのため "城壁オベリスク" [Örme Dikilitaş] とも呼ばれている。
「南西」MAPLay. 3 N
スルタンアフメト・メイダヌ [Sultanahmet Meydanı] / アト・メイダヌ [At Meydanı] (16:12)
ブルー・モスク西の広場は、203年に建造*された競技場跡で、現在、トルコでは "スルタンアフメト広場" または "馬の広場" と呼ばれている。 単に "ヒッポドローム" とも呼ぶ。
「北東」MAPLay. 3 N

実際は、それ以前から存在していて、最初の競馬場はこの都市が "ビュザンティオン" と呼ばれていたころに建設されていた。 当時はローマ帝国内でも中規模程度の地方都市だったが、203年に皇帝 "セプティミウス・セヴェルス" が都市を再建する時、戦車競走などの競技場として、この競馬場も再建されている。 この頃、宮殿、劇場、浴場、城壁なども "セヴェルス" によって築かれ、城壁は "セヴェルスの城壁" と呼ばれている。
ヒッポドローム [Hippodrome] (16:13)
"Hippodrome" は、ギリシア語の "ウマ" を意味する "hippos" と "道" を意味する "dromos" を組み合わせた語で、古代の競馬場を意味する。 中央に立つ巨石は、トトメス3世のオベリスクで、これはエジプト第18王朝の王トトメス3世により紀元前16世紀にルクソールのカルナック神殿に建てられていたものが分割され、移送されたもので、西暦4世紀に、テオドシウス1世が作らせた大理石の台座の上に、オベリスクの上の部分のみが据えられた。 そのため、テオドシウスのオベリスク とも呼ばれている。 (オベリスク自体は花崗岩で出来ていて、下の部分の所在は不明)
「北北東」Lay. 3 O
トトメス3世のオベリスク [III. Thutmose Dikilitaşı / テオドシウスのオベリスク [Theodosius Dikilitaşı] (16:13)
現存するオベリスクの高さは 19.6m 。 カルナック神殿に建てられていた時は、30mを超えていたと推定される。 四面に象形文字で碑文が彫られている。 このオベリスクは 390年に建てられて以来、ずっとここに立っている。 その間、第4次十字軍がコンスタンチノープルを攻め、文化的財産は破壊・強奪されたが、オベリスクは無事だった。 また、15世紀にはトルコ軍によってコンスタンチノープルが陥落し、ビザンチン帝国が滅ぶという大事件があったが、このときもオベリスクは無事だった。 オベリスクの台座には当時の様子がレリーフとして残されている。 (下図参照)
「北東」MAPLay. 3 P
トトメス3世のオベリスクの台座
皇帝テオドシウスが競馬場の観覧席から、勝者に月桂冠を与えているところ。 出典:Wikipedia
プラタイアの三脚台 [Plataea tripod] (16:18)
手前の左手に見える捻れた青銅柱は、かつては、3匹の海蛇をかたどった青銅柱があった。 元々は紀元前479年にペルシア戦争の一部であるプラタイアの戦いでの戦勝を記念してギリシアで造られ、デルフォイのアテネ神殿に奉納されていたものを、コンスタンティヌス1世が持ち帰り、競馬場トラックの障壁に設置した。 これは、戦争に負けたペルシア人の楯を熱で溶かし、造ったものだと言われている。 3匹の海蛇の頭は、1700年頃に失われたが、その後、一部が発見され、今は考古学博物館に展示されている。 (下図参照)
「北東」MAPLay. 3 Q
祝祭の行列
1582年の割礼の祝祭の時の同業者団体の行列。 左ページの右下には、"プラタイアの三脚台" が描かれている。 この頃には、まだ海蛇の頭は存在していた (右写真) 。 出典:祝祭の書
考古学博物館に展示されている海蛇の頭
嘗て、「蛇の柱」と呼ばれている記念碑の柱 (プラタイアの三脚台) の頂上部には、3匹の蛇の頭に支えられた金のボウルがあって、このボウルは第4回十字軍の最中に破壊または略奪されたと言われている。 出典:Wikipedia
ヒッポドローム [Hippodrome] (16:19)
「北東」MAPLay. 3 R
ヒッポドローム [Hippodrome] (16:20)
「北東」MAPLay. 3 S
ドイツの泉 [Alman Çeşmesi] (16:21)
チェシメ [Çeşme] は、オスマン帝国時代の人工の泉で、飲料水や生活用水の供給施設。 18世紀前半に、人々が集まる広場を飾る建物として、町中に多く建設された。 これは、ドイツ帝国ウィルヘルム2世 [Wilhelm II] が贈呈したもの。
「北東」MAPLay. 3 T
ドイツの泉 [Alman Çeşmesi] (16:22)
イスタンブールのスルタンアフメット広場の北端にあるドイツの泉。 19世紀末に、オスマントルコ帝国のアブドゥルハミト2世 [Sultan II. Abdülhamid] の王位就任15周年を記念してドイツ帝国ウィルヘルム2世 [Wilhelm II] が贈呈したもの。 ドーム天井の内側の金のモザイクは一見の価値あり。
黄色のところは、金箔。 中心を取り囲むように並んでいる円形の印は、緑はスルタンの花押 [Tughra] 。 青はウィルヘルム2世の紋章。 (下図参照)
「南東」MAPLay. 3 U
スルタン アブドゥルハミト2世の花押 [Tughra]
ドイツ皇帝 ウィルヘルム2世の紋章
アヤソフィア聖堂 (アヤソフィア博物館) (16:23)
アヤソフィアは、ギリシア語で "アギア・ソフィア" と呼ばれ、聖なる叡智を意味する。 嘗て、この聖堂は、ギリシア正教の本山だった。
「北東」MAPLay. 3 V
アヤソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi] (16:24)
嘗て、このアヤソフィア大聖堂 [Ayasofya] は、ギリシア正教の本山だったが、オスマン帝国がコンスタンチノープルを征服した後は、イスラム教のモスクになっていた。 その後、オスマン帝国が滅亡し、12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャーミイ [Ayasofya Camii] は世俗化され、翌年にアヤソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi] として公開された。 現在、建物はモスクや教会など宗教的行事の場として使う事が厳しく禁じられている。 しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられた。
「北東」MAPLay. 3 W
アヤソフィア聖堂/アヤソフィア・ジャーミイ/アヤソフィア博物館 (16:28)
大聖堂が、初めて建立されたのは、西暦360年。 その後、幾度か消失し、西暦537年に、ビザンチン帝国のユスティニアヌス大帝によって、本格的に再建され、今日の姿となる。
「北東」MAPLay. 3 X
Ayasofya/Ayasofya Camii/Ayasofya Müzesi (16:31)
嘗て、この大聖堂には、コンスタンティノポリス総主教庁が置かれていたが、1453年にモスクに転用され、1935年からは、博物館に改められた。
「北東」MAPLay. 3 Y
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:35)
実際には、3~4世紀にはすでに機能していたと言うが、火災に遭い、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス6世によって再建設されたものである。 かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルムのような空間があり、裁判や商業活動に利用されていた。 ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、この貯水槽を設置した。
MAPLay. 3 Z

 Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:35)
貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支えている。 これによって78,000m³の水を貯えることができた。
MAPLay. 3 Z
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:36)
この貯水池の水がどこからやってきたのかについては明確ではない。 おそらく街の北19kmにあるベルグラードの森から供給されたと考えられるが、現在残る水路はオスマン帝国によって作られたもので、「ユスティニアヌスの水道橋」と呼ばれるものも16世紀に創られたものであるが、関連性は不明。
MAPLay. 3 Z

 Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:36)
この貯水池は、ジェームズ・ボンドの映画 『007 ロシアより愛をこめて』 の撮影場所として使われた。 この貯水池に魚 (鯉?) が飼われているのは、見た目と水質を良くする (維持する) 目的で飼われている。
MAPLay. 3 Z
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:37)
地下宮殿という愛称は、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支える見事な列柱の姿が、宮殿に似ていたため、名付けられた。 キリスト教時代が始まると、不要になった多神教時代の神殿は壊され、神殿に使用されていた柱はアナトリア中から運ばれてきて、この地下貯水池建設に使用された。 そのため、柱には様々な模様が残っている。
MAPLay. 3 Z

 Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:37)
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設されたものである。 かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルムのような空間があり、裁判や商業活動に利用されていた。 ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、この貯水槽を設置した。 補修作業を行った後に1980年から一般公開されている。
 MAPLay. 3 Z
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:37)
水質の良くないイスタンブールでは、水、特に飲料水の確保が、古くから大問題で、すでにローマ・ビザンチン時代から、有名なヴァレンス帝の水道橋や、地下貯水池のような大規模な諸施設が、造られてきた。 イスタンブールの地下には、この様な貯水池が17施設ほどある。
MAPLay. 3 Z

 Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:39)
現存する東ローマ帝国の貯水池としては最大のものである。 現在は一般にも公開され、イスタンブルの歴史地区として世界遺産にも登録されている。 このような地下貯水池は市内各所に17施設ほど残っていて、なかでもビンビルディレキ貯水槽 [Binbirdirek Sarnıcı] は有名。
MAPLay. 3 Z
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:39)
すでにローマ・ビザンチン時代から、有名なヴァレンス帝の水道橋や、地下貯水池のような大規模な諸施設が、造られてきた。征服者メフメッド2世も、ビザンチン以来の水道施設を受け継ぎ、大切に修理して利用するとともに、新たに市外に水源を求め、水道施設の建設にも力をいれた。 スレイマン大帝時代には、さらに人口の急増に対応すべく、金角湾を越えて、黒海に近いベオグラードの森と呼ばれる森林地帯にまで水源を求め、ここの水を市街にまで引くための水道建設さえ行った。 市内の各街区に水道網がつくられ、この水の供給場所として、要所にチェシメ [Çeşme] が造られた。 人々はその蛇口から水を汲み、生活に用いた。
MAPLay. 3 Z

Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:44)
1985年の修復のとき、そこに溜まった泥をさらったところ、メドゥ-サの頭部が2つ見つかった。 どこから運ばれたか不明で、その意味は魔除け (メドゥーサ封じ) という説と、ただ単に土台として据わりが良かったため利用されたと言う説に分かれている。
MAPLay. 3 Z
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:45)
1985年の修復のとき、そこに溜まった泥をさらったところ、メドゥ-サの頭部が2つ見つかった。 どこから運ばれたか不明で、その意味は魔除け (メドゥーサ封じ) という説と、ただ単に土台として据わりが良かったため利用されたと言う説に分かれている。
MAPLay. 3 Z

 Movie 『007 ロシアより愛をこめて
イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:45)
女神の怒りにふれ蛇髪とされ、ペルセウスに退治されたギリシア神話の怪物メドゥーサの石像の頭部。
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イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:46)
女神の怒りにふれ蛇髪とされ、ペルセウスに退治されたギリシア神話の怪物メドゥーサの石像の頭部。
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イェレバタン地下貯水池 [Yerebatan Sarnıcı] / イェレバタン地下宮殿 [Yerebatan Sarayı] (16:46)
見学通路から一段下がったところにある、メドゥーサの石像頭部。 1985年の修復以前は、泥に埋まっていた。
MAPLay. 3 Z
陶器の店 "Fırça Ceramics" (17:03)
MAPLay. 3 a
陶器の店 "Fırça Ceramics" (17:04)
MAPLay. 3 a
陶器の店 "Fırça Ceramics" 前 (17:20)
ツアーバス待ちの一時。
「北」MAPLay. 3 b
グランド・バザール前から見る "Atik Ali Paşa Camii" (17:31)
「南西」MAPLay. 3 c
グランド・バザール前から見る "Nuruosmaniye Camii" (17:33)
「北」MAPLay. 3 d
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:37)
英語では、グランド・バザール [Grand Bazaar] と呼ばれる市場。 嘗ての、東西交易のセンターで、今もトルコ各地のみならず、世界各国から訪れた人々が行き交っている。 やや小高くなった、この敷地は、かつて征服者メフメット2世が、イスタンブール征服後、最初に宮殿を建てたところであったが、余りに、市場に近いため、その後、市の東端にトプカプ宮殿を建て、そこに居住を移したと伝えられている。
「北西」MAPLay. 3 e
出典: トルコ・イスラム建築紀行 (飯島 英夫薫 )
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:38)
カパル [Kapal] は "閉じた" を意味し、チャルシュ [Çarşı] は "市場" を意味する言葉で、カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] は屋根付き市場を意味する。 このグランド・バザールの起源は、征服者メフメット2世時代に遡ると言われており、屋根は大小とりどりのドームで覆われ、内部は迷路のような大路、小路が交差しいる。 この通路の両側に沿って4000をこえる店舗が建ち並んでおり、5世紀以上にわたり、イスタンブールの商業の中心となってきたグランド・バザールは、今もイスタンブールの市民はもちろんのこと、トルコ国内や世界各地からの観光客でごった返している。
MAPLay. 3 f
グランド・バザール [Grand Bazaar] (17:41)
グランド・バザール (カパルチャルシュ) は、嘗てイスタンブールの繁栄の象徴だった。 そして、その繁栄を支えたものは東西南北を結ぶ交易の道であった。 イスタンブールは、ユーラシアの東西を貫通する陸と海による大動脈と、バルト海と地中海を南北に結ぶ道との交点であったため、多くの物産がイスタンブールにもたらされた。 (下図参照)
MAPLay. 3 g
東西南北を結ぶ交易の道
赤線は 、シルクロードを通って、中央アジアを抜け、イラン高原を経て、アナトリアに入り、イスタンブールに到る、いわゆる絹の道 (Silk Road) 。 紺色青色緑色線は、中国南岸を起点に、海上路を経てイスタンブールへ到る道で、「香料の道」 あるいは 「陶磁の道」 と呼ばれ、運ばれた最大の商品は、東南アジアからの香料であった。 黒色線は、南北を結ぶ道で、道の北側は、バルト海からロシア平原を南下し、黒海を通り抜け、イスタンブールに到る道で、黒貂 (くろてん) 、琥珀、魚、蜂蜜、ウクライナの穀物等々がもたらされた。 南側はイスタンブールとエジプトを結ぶ東地中海の海上路で、エジプトの穀物、油、砂糖などの諸産物、ヌビアの黒人奴隷、アラビア半島のコーヒー、そして、「香料の道」 を経てカイロに到着した香料など、東方からの物産が、イスタンブールにもたらされた。

 シルクロード
グランド・バザール [Grand Bazaar] (17:42)
イスタンブールに通ずる交易路には、陸路の要所要所に宿泊施設として、ギャラヴァン・サライ [Kervansaray] 網が設けられ、交通の安全が図られていた。  この施設は、町の中のみならず、交易路沿いに一定間隔で設けられ、隊商や旅人に無料の宿を提供していた。 町々には、キャラバン・サライ (隊商の宮殿) とともに、より大規模で隊商宿や倉庫、及び営業所を兼ねた "ハン" と呼ばれる建物があった。 ハンは、2、3階建ての建物で、中庭をもち、各階は個室に分かれていた。
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嘗て、バザール内では、商売ごとにまとまって区画をつくり、店を並べていた。 そのため、バザール内の通り名には、商売の名に因んだ通り名が付けられている。 図出典: イスタンブル歴史散歩 (鈴木 薫 )
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:43)
「屋根で覆われた市場」 を意味する "Kapalı Çarşı" は欧米人は 「グランド・バザール」 と呼称している。 2棟のベデステン [Bedesten]*1 を核にして、周囲に縦横のアラスタ [Arasta]*2 が追加され、巨大な商店集団に発展した。 火災や地震で大被害を受け、19世紀末に現在の姿になった。 市場自体は1473年以前からあったが、メフメット2世が以後拡大し続けた。
MAPLay. 3 h

*1:ベデステンは、安全対策を厳重にして建てた商館。 主に高価な商品を扱う商店が入居する。 *2:アラスタは、1本の通りの両側に商店が並んでいる建物、または地区。
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:45)
MAPLay. 3 h
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:49)
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カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:55)
MAPLay. 3 h
カパルチャルシュ [Kapalıçarşı] (17:55)
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グランド・バザール前から見る "Nuruosmaniye Camii" (18:44)
「北」MAPLay. 3 i
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:12)
シルケジ駅通り [Sirkeci İstasyon Caddesi] 側から見るシルケジ駅。 この駅は、1890年、オリエント急行の始発駅として完成し、この年に、イスタンブールとパリ間の直通運転が開始された。 (1883年10月には、一応イスタンブールとパリ間は開通していたが、途中、黒海やドナウ川は船で渡り、また一部の路線は、他の鉄道を利用していた。)
「南西」MAPLay. 3 j
オリエント急行(青)と関連列車(第一次世界大戦前) オリエント急行(青)とシンプロン・オリエント急行(紫)
オーステンデ・ウィーン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行 第二次世界大戦後のオリエント急行
出典:Wikipedia
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:15)
1890年完成の駅舎はそのままの状態で保存されているが、ターミナルビル周辺のエリアは1890年の頃と比べると大きく変化している。 また、現在はアンカラ通り側に新しい出入口が作られ、切符売り場なども新出入口側に作られており、1890年完成の駅舎を一般の鉄道利用者が利用する機会は、レストランや鉄道博物館などを利用しない限り減少している。 こちら側は、1890年完成の駅舎を見ることが出来る、北側の シルケジ駅通り [Sirkeci İstasyon Caddesi] 側。
「東南東」MAPLay. 3 k
レストラン "Orient Express" (19:16)
ターミナル駅にある、このレストランは1950年代から1960年代にかけてジャーナリスト、作家そして他のメディア出身の著名な人々の待ち合わせ場所となった。 このレストランは、今日 "Orient Express" と呼ばれ、旅行者の間では人気のスポットとなっている。
「南西」MAPLay. 3 l
レストラン "Orient Express" (19:16)
北側の シルケジ駅通り [Sirkeci İstasyon Caddesi] 側から見る、駅舎内にある レストラン "Orient Express" 。
「南東」MAPLay. 3 l
レストラン "Orient Express" 内部 (19:19)
駅舎内にある レストラン "Orient Express" のウエーターさん。
MAPLay. 3 m
レストラン "Orient Express" 内部 (19:20)
このレストランは、1890年の完成時のままの状態で保存されている。 レストラン壁面には、完成当時の駅舎や、この駅で映画ロケされた時の資料写真などが展示されている。
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レストラン "Orient Express" 内部 (19:21)
レストラン内部から、ホーム側を撮影。
MAPLay. 3 m
レストラン "Orient Express" (19:21)
1890年の完成時のまま保存されている駅舎内にあるレストラン。 ホーム側から撮影。 この駅は、多くの小説や映画の舞台となっている。 
「東北東」MAPLay. 3 n

Movieオリエント急行殺人事件』        Movie 『007 ロシアより愛をこめて
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:22)
オリエント急行は、豪華な車両に、東洋への夢、西洋への憧れを抱いた東西の人々を乗せて、ヨーロッパ大陸の西端と東端の間を往還した。 とりわけ、欧米人にとって、ロンドン、パリ、イスタンブールを直結するオリエント急行は、東洋情緒の一つのシンボルであり、多くの小説や映画の舞台ともなった。 オリエント急行の名称は、終着駅イスタンブールがオリエントにあったことから名付けられたのだろう。 因みに、オリエントは、日の出ずるところを意味する。
「西」MAPLay. 3 o
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:22)
この駅舎では、『オリエント急行殺人事件』 のほか、『007 ロシアより愛をこめて』 の映画ロケが行われている。
「西北西」MAPLay. 3 o
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:22)
この駅で撮影された映画の一場面。
「西」MAPLay. 3 o

Movieオリエント急行殺人事件』        Movie 『007 ロシアより愛をこめて
レストラン "Orient Express" (19:22)
駅のホーム側から見た レストラン "Orient Express" 。
「北」MAPLay. 3 p
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (19:23)
レストラン "Orient Express" のホーム側。
「東南東」MAPLay. 3 p
レストラン "Orient Express" (19:28)
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レストラン "Orient Express" (19:34)
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レストラン "Orient Express" (19:34)
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映画 『オリエント急行殺人事件』 のロケ・シーン (19:35)
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レストランに貼られたアガサ・クリスティの写真 (19:35)
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レストランに貼られたアガサ・クリスティの写真 (19:35)
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映画 『オリエント急行殺人事件』 のロケ・シーン (19:36)
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映画 『オリエント急行殺人事件』 のロケ・シーン (19:36)
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映画 『オリエント急行殺人事件』 のロケ・シーン (19:36)
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レストラン "Orient Express" (19:37)
MAPLay. 3 q
レストラン "Orient Express" (20:18)
「北西」MAPLay. 3 r
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (20:24)
この駅舎では、『オリエント急行殺人事件』 のほか、『007 ロシアより愛をこめて』 の映画ロケが行われている。
「西」MAPLay. 3 s
シルケジ駅 [Sirkeci Garı] (20:27)
この駅で撮影された映画の一場面。
「東北東」MAPLay. 3 s

Movieオリエント急行殺人事件』        Movie 『007 ロシアより愛をこめて
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (21:44)
宿泊ホテル・コンラッドから眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の夜)
「南南西」MAPLay. 3 t
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (21:51)
宿泊ホテル・コンラッドから眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の夜)
「南西」MAPLay. 3 t
コンラッド イスタンブール ボスポラス [Conrad Istanbul Bosphorus] (22:01)
宿泊ホテル・コンラッドから眺めるイスタンブールの街。 (イスタンブール二日目の夜)
「南西」MAPLay. 3 t

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