旅の栞(トルコ)

6月22日

エフェス [Efes](トルコ語)
エフェソス[ Ἔφεσος](ギリシャ語)

(Ephesos/Ephesus はラテン文字表記)

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/turkey/newpage4.html

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エフェス遺跡 [Efes Örenyeri]
エフェソスの起源、一説によれば、紀元前20世紀頃すでに、アナトリアの地母神キベレの神殿をもつ集落があったが、紀元前16世紀になってアマゾネス [Amazónes] と言う女性部族によってこの都市は築かれたと言われている。 この頃、トルコの北にある黒海はアマゾン海と呼ばれており、その地方に住む女性部族は、アマゾネスと呼ばれていた。 この部族は極端な女性主導の社会で、男児が生まれた場合は障害を負わせて奴隷にするか、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたという。 その反面、女の子が生まれると、優秀な戦士になるための一連の武器の扱い方、馬術などが徹底的に教え込まれ、弓を引くのに邪魔にならないように、片方の乳房を切り取っていたと言われている。 アマゾネスは、勢力を拡大し、小アジア (トルコ共和国のアジア部分) 全体を占領して、無数の都市を築いていった。 紀元前16世紀頃、この地にやって来たアマゾネス達は、アルテミス神殿 [Artemis Tapınağı] の近くで都市を築いた。 その時のアマゾネスのリーダーの名前から、この地はエフェソスと呼ばれるようになった。 紀元前11世紀以降、ギリシアからの移民イオニア人の都市が、アルテミス神殿を中心に栄えたが、小メンデレス川の運んでくる土砂やマラリアの発生に悩まされ、都市の位置を何度か移している。 紀元前6世紀、リディアのクロイソス王が都市を支配した。 このリディア王国時代は、世界で 初めて金 (金と銀の合金) を用いた鋳造貨幣を導入したことで知られている。(エレクトロン貨)
その後、起源前5世紀、ペルシャ人が侵攻してきて都市は破壊され、ペルシャの属州となった。 紀元前356年、放火によりアルテミス神殿が焼け落ちた後にアレクサンドロスがやって来て、都市をペルシャから解放し、大王の死後はリシマコスがそれに代わり、神殿は再建された。 この時、神殿の近くにあったエフェソスの都市は、現在遺跡の発掘が進められている場所に移された。 この頃の人口は約10万人と推定されている。 アルテミス神殿は市民のよりどころであり、他の都市から神殿を訪れる者も多かった。 ローマ時代になり、収奪をうけて沿岸の町々が衰退する中で、エフェソスはアジア州の州都として繁栄を続けた。 1世紀、キリスト教がこの地方を中心に浸透し始めていた。 パウロも伝道のためこの都市を訪れており、彼が投獄されたという建物が、ビュルビュル山の中腹に残っている。 3世紀、ガリア人が侵入して神殿を破壊。 4世紀初め、キリスト教がローマ国教になり、エフェソスはキリスト教の中心地となる。 この頃の人口は約25万人で6世紀頃まで栄えた。 15世紀オスマン時代には、マラリアの恐怖から都市の人口が激減、もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により港は完全に埋まってしまい、衰退したエフェソスは建物まで埋没してしまった。 19世紀の末から発掘が進められているが、現時点では全体の10分の1しか発掘されておらず、全て発掘されるまで200年~300年かかると言われている。 現在は、エーゲ海域で最大の遺跡が眠る、エーゲ海地域随一の観光地となっている。
エフェス遺跡 (エフェソス遺跡) の入口は北と南に2つあり、ここは南入口 (11:32)
「北西」MAPLay. 2 b
エフェス遺跡 (エフェソス遺跡) の南入口 (11:32)
「北西」MAPLay. 2 b
南入口を入ってすぐ正面にあるヴァリウスの浴場 (各種の浴場) [Baths of Various] (11:34)
「北」MAPLay. 2 b
中央やや左はオデイオン (音楽堂) 、その右手はヴァリウスの浴場 (11:34)
「北北西」MAPLay. 2 c
内側から見た南入口 (11:34)
「南」MAPLay. 2 c
右前方は、上のアゴーラ (広場) [Agora] (11:35)
「西北西」MAPLay. 2 d
右前方は、上のアゴーラ [Agora] (ギリシヤ語で広場を意味する) (11:36)
「西北西」MAPLay. 2 f
左は上のアゴーラ (広場) [Agora] 、右はオデオン [Odeon] (11:36)
上のアゴーラは商業活動、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープン・スペースで、町の中枢部になっていた。 オデオンは300人程度の代表者会議やコンサートなどに使用されていた。
「北西」MAPLay. 2 g
正面はアゴーラ (広場) [Agora] 、右はオデオン [Odeon] (11:36)
「北西」MAPLay. 2 g
2世紀に建てられたヴァリウスの浴場 (各種の浴場) [Baths of Various] (11:36)
「東北東」MAPLay. 2 g
左はオデオン [Odeon] 、右はヴァリウスの浴場 (11:36)
「北北東」MAPLay. 2 g
左はオデオン [Odeon] 、右はヴァリウスの浴場 (11:36)
「北北東」MAPLay. 2 g
古代の落書き? (11:37)
「南」MAPLay. 2 h
バシリカ [Basilica] (11:38)
バシリカは建築様式のひとつで、中央の身廊を、側廊によって取り囲み、身廊と側廊は列柱によって分けられている。
「南東」MAPLay. 2 i
バシリカ [Basilica] (11:38)
バシリカは建築様式のひとつで、中央の身廊を、側廊によって取り囲み、身廊と側廊は列柱によって分けられている。
「西北西」MAPLay. 2 i
オデオン (音楽堂) [Odeon] (11:38)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「北北東」MAPLay. 2 i
オデオン [Odeon] (11:39)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「東北東」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] (11:39)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「北」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] (11:39)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「北北西」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] (11:39)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「北北西」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] (11:40)
かつて数百人が集まって政治議論を行った共同議会場跡で、音楽会なども行われた。 屋根があったため比較的保存状態が良い。
「北北西」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] (11:40)
階段の両サイドにはライオンの足のレリーフがあり、ローマの権力を表している。
「北北東」MAPLay. 2 j
アゴーラ (広場) [Agora] (11:42)
オデオンからバシリカ越しに見るアゴーラ [Agora] 。
「南南西」MAPLay. 2 j
オデオン [Odeon] の上段へ通ずる階段 (11:42)
「北北東」MAPLay. 2 l
プリタニオン[Prytaneion] (11:43)
かつてはここには聖火が灯され、火は消えることがなかったと言われている。 当時の人にとって火は非常に重要で、当然ながらマッチやライターなどは無く、住民達は松明をここに持って来て種火を貰い、家に持って帰って炊事や暖房などに使用していた。
「北北西」MAPLay. 2 m
プリタニオン[Prytaneion] (11:45)
かつてはここには聖火が灯され、火は消えることがなかったと言われている。 その火を守るため、16~30歳くらいの女性6人が選ばれ神聖な職務に就いていた。 この女性達は町の人々から大変尊敬され、罪人の罪を許す権利まで与えられていた。
「北」MAPLay. 2 m
プリタニオン[Prytaneion] (11:46)
この真ん中には、"火の女神" への生贄を捧げるための祭壇が設けられていた。 ここでは様々な儀式が行われ、松明に火を灯し、下のアゴーラまで列をなして歩くという儀式もあった。
「北北東」MAPLay. 2 m
プリタニオン前の坂道 (11:46)
プリタニオン前の坂道を下り、下のアゴーラ (広場) [Agora] 方向へ向かう。
「西北西」MAPLay. 2 o
プリタニオン前の坂道 (11:46)
左手に見えるのがプリタニオン[Prytaneion] 。
「東南東」MAPLay. 2 o
ドミティアヌス神殿 [Domitianus Tapınağı] (11:48)
この広場は、商業を中心としたアゴーラ (広場)で、この都市で一番賑やかな場所だった。 広場の奥には台地の上にローマ帝国第11代皇帝ドミティアヌスに捧げられた神殿があったが、現在は礎石以外は数本の二階建て構造の柱が残っているのみ。 生前、ドミティアヌス皇帝は独裁者で残酷であったため、彼を恐れるあまり至る所に彼の名前付けた神殿や像が造られたが、彼の死後、彼の名前が付いた建物や像などは全て破壊された。 (発掘後修復された物もある)
「南」MAPLay. 2 p
メミウスの記念碑 [Memmius Anıtı] (11:48)
メミウスはポントゥスからエフェスを奪還したローマの独裁者スッラの孫。 スッラがローマからここに来ることになったときエフェスの人々はスッラの孫メミウスの名前でこの記念碑を贈ったと言われている。 ここに建つ碑にはスッラを称賛する言葉が記されており、スッラに好感をもたれたと言われている。
「北北西」MAPLay. 2 p
プリタニオン前の坂道 (11:48)
左前方に、プリタニオンの石柱が見えている。
「東南東」MAPLay. 2 p
ヘルメスのレリーフ (11:49)
ヘルメスは商売、盗み、賭博、競技、旅人の守護神で、アポロンの羊の群れから1匹無断で拝借したことから、彼は常に雄の羊を連れた姿で作られている。 ちなみに、かの有名な "エルメス" のブランド名は "ヘルメス" から拝借したものと言われている。
「南東」MAPLay. 2 p
ポリオの泉 [Pollio Çeşmesi] (11:50)
ドミティアヌス神殿の左側にはアーチをもつポリオの泉がある。 97年にセクティリウス・ポリオという人物によって建てられた。
「南東」MAPLay. 2 p
ドミティアヌス神殿前の広場 (11:50)
かつてこの広場には沢山の商店があり、買い物客で賑わっていた。
「南」MAPLay. 2 q
ドミティアヌス神殿 [Domitianus Tapınağı] (11:50)
2本の柱の上にはレリーフがあり、左はドミティアヌス皇帝、右は夫人のレリーフ。
「南」MAPLay. 2 q
ドミティアヌス神殿前のアゴーラ (11:51)
かつてこの広場には沢山の商店があり、買い物客で賑わっていた。
「南」MAPLay. 2 p
ポリオの泉 [Pollio Çeşmesi] (11:51)
ドミティアヌス神殿の左側にはアーチをもつポリオの泉がある。 97年にセクティリウス・ポリオという人物によって建てられ、商店として使われていた。
「南南東」MAPLay. 2 p
ポリオの泉 [Pollio Çeşmesi] (11:51)
ドミティアヌス神殿の左側にはアーチをもつポリオの泉がある。 97年にセクティリウス・ポリオという人物によって建てられ、商店として使われていた。
「東南東」MAPLay. 2 p
ドミティアヌス神殿前のアゴーラ (11:53)
左手のアーチをもつ建物はポリオの泉と呼ばれ、商店として使われていた。 右手の2本の石柱のある場所は、ドミティアヌス神殿があった場所。
「南」MAPLay. 2 p
ニケ (勝利の女神) (11:53)
ニケまたはニーケー (古典ギリシア語: Νίκη, Nīkē) と呼ばれ、ギリシア神話に登場する勝利の女神。 英語ではナイキ (Nike) と発音し、世界的スポーツ用品メーカー「ナイキ」社の社名はこの女神に由来する。 ニケの左手には勝利者の頭に載せるための冠を持ち、ニケの羽はナイキのトレードマークになっている。 ちなみにトレードマークの羽は、アメリカの中学生の発想によるものと言われている。 このレリーフは、本来ヘラクレスの門のアーチとして飾られていた。
「北」MAPLay. 2 r
クレテス通り [Curetes Street] (11:55)
かつては一番賑やかな通りで、多くの店が軒を連ねていた。
「北西」MAPLay. 2 r
クレテス通り [Curetes Street] (11:56)
通りは全て大理石で出来ており、通りの右端には上流階級の人々の像が立ち並んでいた。 エフェスの人々は夏には山から雪を運んできてジュースを入れて飲んだり、冬にはホットワインを飲むといった豊かな生活をいとなんでいた。 若者は赤い服を、裕福な人々は紫色の服を、老人は白い服を着てこの通りを賑わせていた。 
「北西」MAPLay. 2 s
クレテス通り [Curetes Street] (11:56)
通りの突き当たりには、ひときわ高いケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] が見えている。
「北西」MAPLay. 2 s
クレテス通り [Curetes Street] (11:57)
ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı] から眺める、クレテス通り。
「北西」MAPLay. 2 s
クレテス通り [Curetes Street] (11:58)
ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı] から眺める、クレテス通り。
「北西」MAPLay. 2 s
クレテス通り [Curetes Street] (11:58)
ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı] から眺める、クレテス通り。
「北西」MAPLay. 2 s
ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı] (11:59)
ヘラクレスが彼の象徴であるライオンの皮を背中に被った姿で、浮き彫りにされている。 これはギリシヤで民衆を困らせていたライオンを退治したという伝説に基づいている。 ちなみに、この門は元来ここにあった物ではなく、馬車の通行を妨げる目的で4世紀頃どこかから運ばれて来て、上の神聖なアゴーラを守っていた。
「南東」MAPLay. 2 s
ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı] (12:00)
ヘラクレスの彫像を施した左右対の門、勝利の女神ニケのレリーフは、本来はこの門のアーチとして飾られていた。
「南東」MAPLay. 2 s
クレテス通り [Curetes Street] (12:00)
「北西」MAPLay. 2 t
クレテス通り [Curetes Street] (12:00)
前方は下り坂になっており、下のアゴーラに通じている。
「北西」MAPLay. 2 t
クレテス通り [Curetes Street] (12:00)
前方に見えるのは、ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı]で、馬車の通行を阻止していた。
「南東」MAPLay. 2 u
クレテス通り [Curetes Street] (12:01)
前方に見えるのは、ヘラクレスの門 [Herkül Kapısı]で、馬車の通行を阻止していた。
「南東」MAPLay. 2 u
トラヤヌスの泉 [Trajan Çeşmesi] (12:01)
トラヤヌス皇帝に捧げられた泉で、当時は近くの川から水を導き、正面の池には水が湛えられいた。 かつて、ここにはトラヤヌス皇帝の像があり足元から水が流れていたと言われている。 そして、その像の右足の下に球形の像が残っており、地球を模った物だと言われている。 これが事実であれば、ガリレオより1500年も前に地球が丸いということを知っていたことになる。 ここは港町であるため、航海や自然との関わりにおいて直感的に知っていた人がいても不思議ではない。 (写真を拡大すれば、三角形の屋根の下に、右足の一部と球体があるのが分かる。)
「北」MAPLay. 2 v
クレテス通り [Curetes Street] (12:02)
トラヤヌスの泉の前からヘラクレスの門方向を望む。
「南東」MAPLay. 2 v
トラヤヌスの泉 [Trajan Çeşmesi] (12:02)
トラヤヌス皇帝に捧げられた泉で、当時は近くの川から水を導き、正面の池には水が湛えられいた。 かつて、ここにはトラヤヌス皇帝の像があり足元から水が流れていたと言われている。 そして、その像の右足の下に球形の像が残っており、地球を模った物だと言われている。 これが事実であれば、ガリレオより1500年も前に地球が丸いということを知っていたことになる。 ここは港町であるため、航海や自然との関わりにおいて直感的に知っていた人がいても不思議ではない。 (写真を拡大すれば、三角形の屋根の下に、右足の一部と球体があるのが分かる。)
「北」MAPLay. 2 v
トラヤヌスの泉 [Trajan Çeşmesi] (12:03)
トラヤヌス皇帝に捧げられた泉で、当時は近くの川から水を導き、正面の池には水が湛えられいた。 かつて、ここにはトラヤヌス皇帝の像があり足元から水が流れていたと言われている。 そして、その像の右足の下に球形の像が残っており、地球を模った物だと言われている。 これが事実であれば、ガリレオより1500年も前に地球が丸いということを知っていたことになる。 ここは港町であるため、航海や自然との関わりにおいて直感的に知っていた人がいても不思議ではない。 (写真を拡大すれば、三角形の屋根の下に、右足の一部と球体があるのが分かる。)
「北東」MAPLay. 2 v
丘の上の住宅地 (12:05)
ここに住めるのは有力者や富裕階級だけだった。 テント張りのバラックの中には、復元された豪華な中庭式の邸宅があり、色鮮やかなモザイクやフレスコ画が見られる。
「西」MAPLay. 2 w
高級住宅地跡 (12:05)
住宅地跡からは、インドから渡来した象牙製の棚飾りや、エジプトから渡来したテーブルや椅子など高級な品物が発掘されている。
「南西」MAPLay. 2 w
クレテス通り [Curetes Street] (12:06)
右手の丘の上には、高級住宅が建ち並んでいた。
「南東」MAPLay. 2 w
クレテス通りと住宅地 (12:06)
右手の丘の上には、高級住宅が建ち並んでいた。
「南」MAPLay. 2 w
高級住宅地跡 (12:06)
ここに住めるのは有力者や富裕階級だけだった。 テント張りのバラックの中には、復元された豪華な中庭式の邸宅があり、色鮮やかなモザイクやフレスコ画が見られる。
「南西」MAPLay. 2 w
クレテス通り [Curetes Street] (12:06)
通りの突き当たりにある高い建物はケルスス図書館、左手のバラックは住宅地跡の復元と保存作業場。
「西北西」MAPLay. 2 w
モザイクの歩道 (12:07)
高級住宅地の前では、2000年も前に造られたモザイクの歩道が発掘されている。
「西北西」MAPLay. 2 w
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:09)
小さいながらエフェスで一番豪華な神殿。 2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられた建物で、奥の門の上には両手を広げたメドゥーサが彫られている。 メドゥーサは多神教時代のお守りだったが、キリスト教時代になってからは全て破壊された。 手前のアーチの中央にはエフェスに幸運をもたらす、幸運の女神ティケ [Αγαλμα της Τύχης] が彫られている。
「北」MAPLay. 3 A
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:10)
奥の門の、左右の小壁にはエフェスの起源伝説が描かれ、右の壁には象に乗って来たギリシアの王子アンドロクロス [Androclus] が彫られており、その右の側壁にはアマゾネスの女性達が彫られている。 左の壁には沢山の女神や神の像が彫られている。 エフェスの起源伝説には二説あり、一説目は前述したアマゾネスに関する説、二説目はギリシアの王子アンドロクロスに関する説で、『紀元前11世紀に、故郷を追われたアテネ王コドロス [Codrus] の王子アンドロクロス [Androclus] がギリシアのパルナッソス山(2547m)麓のデルフォイ/デルフィ [Delphoi/Delphi] のアポロンを祀る神殿で 「デルフォイの神託」 を仰ぐと、「魚と猪とが新しい町になる所を教えてくれる」 と告げられた。 そして、ある土地で料理をすると鍋から魚が跳ね上がり、散らされた火の粉が周囲の薮に燃え広がり、驚いた猪が薮から飛び出した。そこがピオン山(パナユル山)*の麓であった。 王子アンドロクロスは、そこに町を造り、猪を仕留めた所にアルテミス神殿を築いた。』
「北」MAPLay. 3 A

パナユル山 [Panayır dağ] は、古代ギリシアでピオン [Peion] 山と呼ばれていた。
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:10)
左の壁には沢山の女神や神の像が彫られている。
「北」MAPLay. 3 A
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:10)
右の壁には象に乗って来たギリシアの王子アンドロクロス [Androclus] が彫られている。
「北東」MAPLay. 3 A
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:10)
奥の門の、左右の小壁にはエフェスの起源伝説が描かれ、右の壁には象に乗って来たギリシアの王子アンドロクロス [Androclus] が彫られており、左の壁には沢山の女神や神の像が彫られている。
「北」MAPLay. 3 A
ハドリアヌス神殿 [Hadrian Tapınağı] (12:11)
右の側壁にはアマゾネスの女性達が彫られている。
「東北東」MAPLay. 3 A
遺跡の上でまどろむ猫 (12:11)
遺跡に住みつく猫のことを、遺跡猫と呼ぶ人もいる。 面倒見のいい人達が多いのでしょう、みんな人なつっこい。
猫に関して次のような話がある。 『ムハンマドは大変な猫好きであったといわれ、ムエザ [معزة] という猫を飼っていた。 ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていた。 ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したという。 ムハンマドが猫好きであったことから、イスラム教徒には猫好きが多いといわれ、とくに額にM字の模様が入った猫は「ムハンマドの猫」と呼ばれ珍重されている。 これは、あるときムハンマドが可愛がっていた猫の額に触れるとムハンマドの名前の頭文字である「M」の模様が浮かび上がったという逸話に基づいている』
「東北東」MAPLay. 3 A
2000年前の公衆トイレ (12:13)
所謂、古代の水洗トイで、下の溝には常に水が流れ、また前方からも水が流れていて陰部を洗浄することが出来きた。 用を足した後は消臭のためバジルで陰部を拭いていたと言われている。
「東北東」MAPLay. 3 B
2000年前の公衆トイレ (12:14)
かつては天井があり、床はモザイクで壁には大理石のタイルが貼られていた。 中央台座では、外部への消音効果とリラクゼーションを兼ねた、ハープと笛による音楽演奏が行われていた。
「東」MAPLay. 3 B
2000年前の公衆トイレ (12:14)
冬は大理石で出来た便座が冷たいため、奴隷が先に暖めておいたと言われている。
「北」MAPLay. 3 B
クレテス通り [Curetes Street] (12:15)
写真の中央部の、一部木に隠れた建物が、ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] 。
「東西」MAPLay. 3 C
クレテス通り [Curetes Street] (12:15)
上のアゴーラ方向を望む。 右手のバラックは住宅地跡の復元と保存作業場。
「南東」MAPLay. 3 C
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:16)
ケルスス図書館は古代の図書館で、三番目に大きな図書館と言われている。 一番目はエジプトのアレクサンドリア図書館 [Βιβλιοθήκη της Αλεξάνδρειας ] 、二番目はトルコのベルガマ図書館 [Bergama Kütüphanesi] 、そして三番目がケルスス図書館だと言われている。 ここには羊皮紙に書かれた、10万冊以上の本が所蔵されていたと言われている。 かつては、大学はなく図書館が大学の役目を果たしていた。
「北西」MAPLay. 3 D
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:16)
ケルスス図書館の名前の由来は、アジア州総督ケルススという共同議会のメンバーがいて、その息子が父親の名前を残すため、ケルススの墓の上に図書館を建てたことからケルスス図書館と呼ばれている。
「北西」MAPLay. 3 D
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:18)
図書館の右手に見えてるアーチ形の門はバザールに続く門で、マゼウスとミトリダテスの門と言われる。 この門をくぐると古代の大市場があったため商業アゴーラと呼ばれている。 小アジアで一番大きな港と市場がここにあったため、エーゲ海地方の人々はもちろん、世界中から品物を持ち寄り、取引が行われていた。
「北西」MAPLay. 3 D
大理石通り [ Mermer Cadde] (12:21)
「北北東」MAPLay. 3 D
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:22)
「北西」MAPLay. 3 D
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:22)
「北西」MAPLay. 3 D
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:22)
「北西」MAPLay. 3 D
大理石通り [ Mermer Cadde] (12:23)
「北」MAPLay. 3 E
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:23)
「西」MAPLay. 3 E
大理石通り [ Mermer Cadde] (12:23)
「南西」MAPLay. 3 E
大理石通り [ Mermer Cadde] (12:23)
「南南西」MAPLay. 3 E
大理石通り [ Mermer Cadde] (12:24)
「南南西」MAPLay. 3 E
売春宿の遺跡 [genelev kalıntısına] (12:24)
クレテス通りとマーブル通りに面する絶好地にあった古代最古の娼館で、アルテミス神殿が火事で焼失した後、神殿の再建のために売春宿の収入が使われたと言われている。 この町は大きな港町であったため、神聖な役目として始まった、この売春宿は世界最古の職業となった。 ちなみに、娼館の前には図書館があり、この図書館から娼館まで地下道でつながっていたと言われている。
「東」MAPLay. 3 E
マゼウスとミトリダテスの門 (12:26)
「北」MAPLay. 3 F
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:26)
図書館の壁龕/ニッチ[Nichi] には4体の女性像がありケルススの人物像を表していると言われている。 向かって左から一つ目は知恵、二つ目は美徳、三つ目は疑問、四つ目は理解を表している。 この図書館は全て土の中に埋まっていたが、修復によって現在の姿になった。
「西南西」MAPLay. 3 F
古代のバザール (下のアゴーラ) (12:27)
手前の方ではテントを張り、野菜や果物などの売買を、少し離れた木下では奴隷 (捕虜) の売買も行われていた。
「北北東」MAPLay. 3 F
古代のバザール (下のアゴーラ) (12:27)
手前の方ではテントを張り、野菜や果物などの売買を、少し離れた木下では奴隷 (捕虜) の売買も行われていた。
「北」MAPLay. 3 F
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:29)
図書館の壁龕/ニッチ[Nichi] には4体の女性像がありケルススの人物像を表していると言われている。 向かって左から一つ目は知恵、二つ目は美徳、三つ目は疑問、四つ目は理解を表している。 この図書館は全て土の中に埋まっていたが、修復によって現在の姿になった。
「南西」MAPLay. 3 F
商業アゴーラ (下のアゴーラ) (12:29)
「北」MAPLay. 3 F
「南西」MAPLay. 3 F 「南」MAPLay. 3 F
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:30)
ケルスス図書館 [Celsus Kütüphanesi] (12:31)
下のアゴーラ [Agora] から見るケルスス図書館の側面。
「南」MAPLay. 3 G
下のアゴーラ [Agora] (12:31)
「南西」MAPLay. 3 H
下のアゴーラ [Agora] (12:31)
トルコでは5000年も前から金の採掘が行われており、壁際には沢山の金細工店が軒を並べ装飾品を売っていた。
「南東」MAPLay. 3 H
下のアゴーラ [Agora] (12:31)
中央のアーチはマゼウスとミトリダテスの門、その右はケルスス図書館。
「南」MAPLay. 3 H
下のアゴーラ [Agora] (12:31)
「南西」MAPLay. 3 H
下のアゴーラ [Agora] (12:31)
「西南西」MAPLay. 3 H
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:32)
クレーンの向こうに見えているのが、ピオン山 (パナユル山)* の麓にある円形劇場。
パナユル山 [Panayır dağ] は、古代ギリシアでピオン [Peion] 山と呼ばれていた。
「北東」MAPLay. 3 I
下のアゴーラからアルカディアン通り [Arcadiane Caddesi] へ続く道 (12:33)
「北北東」MAPLay. 3 J
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:34)
二万四千人収容できたと言われる大劇場。 昔、ローマの町では人口を計算するのに劇場の収容人数×10倍が、ほぼその町の人口に相当するとして計算されていたため、約25万人の人々がここで暮らしていたものと推定できる。 当初からこの大きさであったのではなく、町の人口の増加に連れて徐々に増改築を繰り返し、今日の姿になるまで約1000年 (紀元前4世紀~紀元後6世紀) の歳月が費やされたと言われている。
「東南東」MAPLay. 3 K
アルカディアン通り [Arcadiane Caddesi] (12:35)
古代の港に向かう大通りで、両側には列柱があり商店が続いていた。 この後方には円形劇場があり、港と劇場はこの大通りによって直線的に結ばれていた。
「西北西」MAPLay. 3 L
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:38)
劇場へ続く、入口の階段。
「東南東」MAPLay. 3 L
アルカディアン通り [Arcadiane Caddesi] (12:40)
円形劇場の入口階段から眺めたアルカディアン通り。 かつて、通りの突き当たりは港になっていたが、現在は土砂で埋まり沼地になっている。
「北西」MAPLay. 3 M
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:41)
「東南東」MAPLay. 3 N
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:42)
「東南」MAPLay. 3 N
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:42)
「南南西」MAPLay. 3 N
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:42)
石段に座って写真を撮っている女性の両腕に、漢字で “ 飛行機 ” と書いてあったので、『 あっ飛行機と書いてある 』 と言うと彼女は振り向いて 『 I want to be an engineer because I love airplanes. So,I'm writing "飛行機" to the arms. 』 と応えてくれた。 どこの国の人で、なぜ日本語で書いてあるのかは不明。
「東北東」MAPLay. 3 N
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:42)
「東」MAPLay. 3 N
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:43)
ピオン山の麓に造られた大劇場で、演劇の上演や市民参加の民会の会場としても使われた。 ローマ時代には各部分が拡張され、収容人員は2万4000人で、観客席は直径154m、高さ38mの半円形になっている。 音響効果もよく考慮されており、客席の最上段まで音声が届いたと言われている。 ここでは聖ヨハネとサン・ピエトロ [San Pietro] がキリスト教活動をしたことがあり、ここでサン・ピエトロが捕まってローマに連れて行かれ、裁判の末に処刑されたという歴史上重要な場所でもある。 現在、その亡骸は、初めての聖人としてバチカンの地下に葬られている。
「南」MAPLay. 3 N
アルカディアン通り [Arcadiane Caddesi] (12:44)
円形劇場の入口階段から眺めたアルカディアン通り。 かつて、通りの突き当たりは港になっていたが、現在は土砂で埋まり沼地になっている。 最盛期、夜は列柱に明かりが灯され、女王クレオパトラがアントニウスと連れだって歩いたとも言われている。 ちなみに当時、街灯があったのはアレクサンドリアとローマだけだった。
「西北西」MAPLay. 3 M
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:45)
「南東」MAPLay. 3 O
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:46)
「南東」MAPLay. 3 P
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:46)
「南東」MAPLay. 3 P
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:47)
「南東」MAPLay. 3 P
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:47)
「南東」MAPLay. 3 P
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:47)
「南東」MAPLay. 3 P
エフェス円形劇場 [Efes Anfi Tiyatro] (12:49)
「南東」MAPLay. 3 Q
北入口と遺跡をつなぐ松並木道 (12:53)
「南」MAPLay. 3 R
北入口 (12:54)
「北北東」MAPLay. 3 R

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