旅の栞(トルコ)

6月28日

イスタンブール [İstanbul]
『アヤ・ソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi]』

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/turkey/newpage16.html

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アヤ・ソフィア博物館 [Ayasofya Müzesi]
アヤ・ソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国領の各地に数多く残されているが、単にアヤ・ソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアを指す。 元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「聖なる叡智」を意味する。 嘗て、コンスタンティノポリス総主教庁 (ギリシャ正教) が置かれていたが、1453年にモスクに転用され、1935年からは博物館に改められた。 アヤ・ソフィアはビザンチン建築の最高傑作とされている。 ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝の意思に基づき、その子コンスタンティウス2世 (在位337 ~ 361) によって、西暦360年に初めてバシリカ建築として建立されたこの大聖堂は、その後、404年に反乱で焼失し、テオドシウス2世がやはりバシリカ形式で再建するのが415年のことである。 これもまた532年のニカの乱によて焼失し、西暦537年に、ビザンチン帝国のユスティニアヌス大帝によって、本格的に 「ドーム・バシリカ」 形式によって再建され、今日の姿になった。 建築家はトラレスのアンテミオスミレトスのイシドロスで、最も苦労したのは、巨大なドームをいかに支えるかということであった。 この様なドームを備えた大聖堂は今まで存在しなかったため、ドームの崩落は度々生じ、キリスト教徒達はドームに気を配りながら礼拝したと言われている。 再建された当時は世界で1番大きな建築物であった。

 飛んでイスタンブール/庄野真代
アヤ・ソフィアは、入場前にX線による荷物検査がある (15:00)
「北北東」MAPLay. 1 d

Movie 『007 ロシアより愛をこめて
アヤ・ソフィアのミナレット [Minaret] (15:01)
アヤ・ソフィアは、ローマ帝国の皇帝によりキリスト教の聖堂として建立され、6世紀 ~ 15世紀までは、ビザンチン帝国の大聖堂として使用されてきた。 しかし、1453年、コンスタンチノープルはメフメット2世によって征服され、その後、モスクとして転用されることになる。 征服後初めてアヤ・ソフィア大聖堂に赴いたメフメット2世は、ここをイスタンブールで最初のモスクにすることを決め、征服後の最初の金曜日礼拝は、ここで行われた。 その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し、現在の特徴的な姿となった。 その後、世俗化され、1935年2月1日から博物館 [ Ayasofya Müzesi] として使用されている。
 「東」MAPLay. 1 e
アヤ・ソフィアの正面入口 (15:03)
教会であった時代は、建物の崩壊が度々生じたが、トルコ人が建物を手に入れてから (15世紀以降) は、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。 その結果、崩壊は免れてきたが、ミナレットの土台部を始め、モスク周辺部には多くの出っ張りができ、美観を損ねている。 (ユスティニアヌス大帝時代のアヤ・ソフィアとその後追加補強された建築個所)
「東」MAPLay. 1 f
アヤ・ソフィアの正面入口 (15:04)
教会であった時代は、建物の崩壊が度々生じたが、トルコ人が建物を手に入れてから (15世紀以降) は、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。 その結果、崩壊は免れてきたが、ミナレットの土台部を始め、モスク周辺部には多くの出っ張りができ、美観を損ねている。 (ユスティニアヌス大帝時代のアヤ・ソフィアとその後追加補強された建築個所)
「東」MAPLay. 1 f
アヤ・ソフィアの正面入口 (15:04)
教会であった時代は、建物の崩壊が度々生じたが、トルコ人が建物を手に入れてから (15世紀以降) は、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。 その結果、崩壊は免れてきたが、ミナレットの土台部を始め、モスク周辺部には多くの出っ張りができ、美観を損ねている。 (ユスティニアヌス大帝時代のアヤ・ソフィアとその後追加補強された建築個所)
「東」MAPLay. 1 f
アヤ・ソフィアの正面入口 (15:05)
教会であった時代は、建物の崩壊が度々生じたが、トルコ人が建物を手に入れてから (15世紀以降) は、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。 その結果、崩壊は免れてきたが、ミナレットの土台部を始め、モスク周辺部には多くの出っ張りができ、美観を損ねている。 (ユスティニアヌス大帝時代のアヤ・ソフィアとその後追加補強された建築個所)
「東」MAPLay. 1 f
 「南」MAPLay. 1 f 「東北東」MAPLay. 1 f
アヤ・ソフィアの正面入口側のミナレット (15:06)
教会であった時代は、建物の崩壊が度々生じたが、トルコ人が建物を手に入れてから (15世紀以降) は、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。 その結果、崩壊は免れてきたが、ミナレットの土台部を始め、モスク周辺部には多くの出っ張りができ、美観を損ねている。 (ユスティニアヌス大帝時代のアヤ・ソフィアとその後追加補強された建築個所)
「キリストと皇帝」 のモザイク画  (9世紀頃の作品) (15:08)?
ナルテックスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。 この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画があった。  モザイク画の中央に座っているのは、イエスキリスト。 右上の丸の中に描かれているのは、大天使ガブリエル。 左上の丸の中に描かれているのは、聖母マリア。 イエスキリストの前で跪いているのは、レオーン6世。  (アギア・ソフィア大聖堂平面図) (下図参照)
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「キリストと皇帝」のモザイク画 (9世紀頃の作品)
大聖堂であった時代から、モスクであった時代を経ても、尚これらのモザイク画は残されている。 東ローマ帝国では、730年 ~ 843年の東方教会において、聖像(イコン)の崇敬が皇帝により禁止され、聖像を破壊するイコノクラスム運動が起こった。 そのためか、この大聖堂には8世紀以前の聖像は残されていない。 尚、843年にイコノクラスムが解除されてからも、丸彫り彫刻は禁止され、モザイク画などでは、顔以外は平面的に表現されるようになった。 (人間の姿に近い像は、偶像崇拝の危険性があるから)
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
 
アヤソフィア博物館内の撮影位置と、撮影方向。 
中央身廊全景 (15:09)?
大聖堂からモスクに転用するにあたり、十字架等は取り外され、礼拝の方向である聖都メッカの方角を示すミフラーブと呼ばれる壁龕がすえられ、その右には、大理石で造られたミンバルと呼ばれる説教壇が据えられている。 上方の濃緑色の円い額は、1847 ~ 49年の改修の際に加えられたもので、全八面あり、その内、四つが見えている。 書家ムスタファ・イゼット [Kazasker Mustafa İzzet Efendi] の手になり、金字で、左からカリフ "オマール" [Ömer bin Hattab] 、予言者 "ムハンマド"[Muhammad] 、イスラムの唯一神 "アッラー" [Allah] 、初代カリフ "アブー・バクル" [Ebu Bekir] の名が書かれた花押 (トゥグラ) [Tughra] 。
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中央身廊の天井全景 (15:10)
主ドームと前後に2つの半ドーム。 主ドームは、直径31m、高さ56m。 よく見ると、ドーム周辺に歪みが見られる。 過去の度重なる崩壊で、修復が及ばなかった部分かも?。 因みに、ドーム建築の歴史は古く、真のドーム建築技術を使い泥煉瓦でドームを建築した例は、ハラフ文化(紀元前6100年から5400年ごろ)とウバイド文化(紀元前5300年から4000年ごろ)のメソポタミアのテル・アルパチヤに見られた。 ローマ時代にドームを記念碑的に建築するようになるまで、中東では貧しい人々の住居として小型の持ち送り積みのドームを普通に使っていたと見られている。
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ミフラーブに向かって左側廊部 (15:10)?
2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] の内、左はカリフ "アリ" [Ali bin Abi Thalib] 、右はカリフ "オマール" [Ömer bin Hattab] の花押。 ペンデンティブに描かれているのは、セラフィム(熾天使)。
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ミフラーブに向かって右側廊部 (15:10)?
2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] の内、左はカリフ "アブー・バクル" [Ebu Bekir] 、右はカリフ "オスマン" [Osman bin Affan] の花押。
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ミフラーブに向かって左後方角部 (15:11)?
2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] の内、左はカリフ "フセイン" [Husayn ibn Ali] (アリの息子) 、右はカリフ "アリ" [Ali bin Abi Thalib] の花押。
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
ミフラーブに向かって右側廊部 (15:11)?
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 ミフラーブ方向 (15:12)?
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中央身廊 (15:12)?
大聖堂からモスクに転用するにあたり、十字架等は取り外され、礼拝の方向である聖都メッカの方角を示すミフラーブと呼ばれる壁龕がすえられ、その右には、大理石で造られたミンバルと呼ばれる説教壇が据えられている。 上方の濃緑色の円い額は、1847 ~ 49年の改修の際に加えられたもので、全八面あり、その内、四つが見えている。 書家ムスタファ・イゼット [Kazasker Mustafa İzzet Efendi] の手になり、金字で、左からカリフ "オマール" [Ömer bin Hattab] 、 予言者 "ムハンマド"[Muhammad] 、イスラムの唯一神 "アッラー" [Allah] 、初代カリフ "アブー・バクル" [Ebu Bekir] の名が書かれた花押。
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ミフラーブに向かって右後方角部 (15:12)?
2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] の内、左はカリフ "オスマン" [Osman bin Affan] 、中央はカリフ "ハサン" [Hasan ibn Ali] (アリの息子) 、右はカリフ者 "フセイン" [Husayn ibn Ali] (アリの息子) の花押。
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ミフラーブに向かって右後方角部 (15:12)?
2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] の内、左はカリフ "オスマン" [Osman bin Affan] 、中央はカリフ "ハサン" [Hasan ibn Ali] (アリの息子) 、右はカリフ "フセイン" [Husayn ibn Ali] (アリの息子) の花押。
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中央身廊の天井全景 (15:14)
主ドームと前後に2つの半ドーム。 主ドームは、直径31m、高さ56m。 よく見ると、ドーム周辺に歪みが見られる。 過去の度重なる崩壊で、修復が及ばなかった部分かも?。 主ドームを取り囲むペンデンティブには、4体のセラフィム(熾天使)が描かれている。 セラフィムは、三対六枚の翼を持ち、2つで頭を、2つで体を隠し、残り2つの翼ではばたく、唯一、神を見ることが出来る天使とされている。 2体だけ顔が見えているが、モスクに転用される以前は、全ての顔が見えていた。 モスクでは、偶像崇拝が禁止されていたため、漆喰で顔が隠されていたが、徐々に漆喰は剥がされ、復元されている。 ペンデンティブによるドーム建築は、初めて、ここで試され、度重なる崩壊を経験しながら現在に到っている。
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中央身廊全景 (15:16)?
大聖堂からモスクに転用するにあたり、十字架等は取り外され、礼拝の方向である聖都メッカの方角を示すミフラーブと呼ばれる壁龕がすえられ、その右には、大理石で造られたミンバルと呼ばれる説教壇が据えられている。 上方の濃緑色の円い額は、1847 ~ 49年の改修の際に加えられたもので、全八面あり、その内、四つが見えている。 書家ムスタファ・イゼット [Kazasker Mustafa İzzet Efendi] の手になり、金字で、左からカリフ "オマール" [Ömer bin Hattab] 、 予言者 "ムハンマド"[Muhammad] 、イスラムの唯一神 "アッラー" [Allah] 、初代カリフ "アブー・バクル" [Ebu Bekir] の名が書かれた花押。
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アヤ・ソフィアの階上廊へのスロープ (15:21)?
狭いスロープを折り返して登る階上廊は、嘗て女性が典礼に参加する場であった。 皇妃テオドラもまた、ここから落成式に臨んだという。
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アヤ・ソフィアの階上廊へのスロープ (15:21)?
狭いスロープを折り返して登る階上廊は、嘗て女性が典礼に参加する場であった。 皇妃テオドラもまた、ここから落成式に臨んだという。
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階上廊から見る中央身廊全景 (15:23)?
中央の下には、ミフラーブ、その右にはミンバルがある。 ミフラーブの天井部には、半ドームがあり、身廊の左右にそれぞれ側廊がある。 ミフラーブが右に少しずれているのは、メッカの方向に向け、後付けされたためである。  (嘗て、教会であったアヤ・ソフィアは、エルサレムの方向に向け建てられている。)
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階上廊から見る中央身廊全景 (15:23)?
天井部は、前方から半ドーム、主ドーム、半ドームと並んでいる。 2階に掛かっている花押 (トゥグラ) [Tughra] は、左端から "アリ" [Ali bin Abi Thalib] 、"オマール" [Ömer bin Hattab] 、"ムハンマド" [Muhammad] 、"アッラー" [Allah] 、"アブー・バクル" [Ebu Bekir] 、"オスマン" [Osman bin Affan] の順に並んでいる。 写真には、写っていないが、入口側のハサン [Hasan ibn Ali] と フセイン [Husayn ibn Ali] を加えて、計8人のイスラム聖人の名前が掲げられている。
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階上廊から見る中央身廊全景 (15:24)?
アヤソフィアは537年に完成したとき世界最大の教会で、1520年にセビリア大聖堂が完成するまで、世界一の座を守り続けた。 最大の中央のドームは幅が31.24m、床面からの頂上の高さが55.6mで、幅はパンテオンより4分の1狭いが、高さは4分の1高い。パンテオンとは異なり、頂上に眼窓はなく、ドームの基部に環状に窓が並んでいる。 さらに中央ドームの両側に同じような半円ドームがある。
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
右階上廊 (15:24)?
床に貼られている大理石はマルマラ海のマルマラ島 (プロコネソス) で産出されたものを使用し、ひび割れによって出来た模様は、隣り合う石材ブロックの模様とつながるように配置して、美観を大切にしている。 また、壁に使用されている大理石には、石を見開き状態に切断し、左右対称の模様を作って使用しているものもある。
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左側廊 (15:25)?
身廊壁には数人の主教を表すパネルが残っている。 (黄色の壁面下端) (階上廊のモザイク配置 ?)
右階上廊から左側廊を見る。 左の花押 (トゥグラ) [Tughra] は、"アリ" [Ali bin Abi Thalib] 、右は "オマール" [Osman bin Affan] 。 ここで使われている柱は、アルテミス神殿にあった127本の柱の内、105本がここに運ばれ使用されている。
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ミンバル上方の右階上廊 (皇族専用の空間) (15:26)?
撮影位置の直ぐ下にミンバルがある。 入口方向 (拝廊方向) に向かって撮影。
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右階上廊 (皇族専用の空間) (15:27)
「キリストに寄進をする皇帝コンスタンティノス9世モノマコスと皇妃ゾイ」 のモザイク画。 (9世紀頃の作品)
この大聖堂は、ビザンチン特有のモザイクによって壁面の多くが飾られていた。 オスマンの支配下で、漆喰の下に塗り込められた、これらのモザイクは、トルコ共和国時代 (初代大統領アタチュルク) に入ってから、1933 ~ 34年にかけての大修復で昔の姿をほぼとりもどした。 トルコ人の寛容さ、寛大さは、メヴラーナの教えを受け継いでいるのかも知れない。 (階上廊のモザイク配置 ?)
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右階上廊 (皇族専用の空間) (15:28)
「聖母子に寄進をする皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇妃イリニと皇子アレクシオス」 のモザイク画。 (12世紀の作品)
この大聖堂は、ビザンチン特有のモザイクによって壁面の多くが飾られていた。 オスマンの支配下で、漆喰の下に塗り込められた、これらのモザイクは、トルコ共和国時代 (初代大統領アタチュルク) に入ってから、1933 ~ 34年にかけての大修復で昔の姿をほぼとりもどした。 トルコ人の寛容さ、寛大さは、メヴラーナの教えを受け継いでいるのかも知れない。 (階上廊のモザイク配置 ?)
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右階上廊 (皇族専用の空間) (15:28)?
東ローマ帝国では、730年 ~ 843年の東方教会において、聖像(イコン)の崇敬が皇帝により禁止され、聖像を破壊するイコノクラスム運動が起こった。 そのためか、この大聖堂には8世紀以前の聖像は残されていない。 尚、843年にイコノクラスムが解除されてからも、丸彫り彫刻は禁止され、モザイク画などでは、顔以外は平面的に表現されるようになった。 (人間の姿に近い像は、偶像崇拝の危険性があるから)
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右階上廊 (皇族専用の空間) (15:29)
デイシス*のモザイク・イコン (13世紀頃の作品)
ハリストス(キリスト)は玉座に座り、聖書を持ち、傍らに生神女マリヤと前駆授洗イオアン (洗礼者ヨハネ) が立った姿で描かれている。  「デイシス」 は、直接にはラテン帝国からの首都奪回をキリストに感謝し、今後の庇護を願うものであったが、ビザンチン人が願った幸福とは、現世のものではなく、彼岸に属するものであった。(階上廊のモザイク配置 ?)
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 デイシスはギリシア語で、日本語では 「嘆願」 「懇願」 を意味する。
階上廊から見る中央身廊全景 (15:30)?
ここで使われている柱は、アルテミス神殿にあった127本の柱の内、105本がここに運ばれ使用されている。
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
階上廊から見る中央身廊全景 (15:31)?
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階上廊から見る中央身廊全景 (15:32)?
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階上廊から見る中央身廊全景 (15:32)?
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右側廊 (15:33)?
左階上廊から右側廊を見る。
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
左階上廊 (15:34)?
床に貼られている大理石はマルマラ海のマルマラ島 (プロコネソス) で産出されたものを使用し、美観を大切にするため、ひび割れによって出来た模様は、隣り合う石材ブロックと模様がつながるように配置している。  また、壁に使用されている大理石には、石を見開き状態に切断し、左右対称の模様で壁面を飾っているものもある。
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右側廊 (15:34)?
左階上廊から右側廊を見る。
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右側廊後方部 (15:34)?
左階上廊から右側廊後方部を見る。 左の花押 (トゥグラ) [Tughra] は、"オスマン" [Osman bin Affan] 、真ん中は "ハサン" [Hasan ibn Ali] 、右は "フセイン" [Husayn ibn Ali] 。
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左階上廊 (15:35)?
床に貼られている大理石はマルマラ海のマルマラ島 (プロコネソス) で産出されたものを使用し、美観を大切にするため、ひび割れによって出来た模様は、隣り合う石材ブロックと模様がつながるように配置している。  また、壁に使用されている大理石には、石を見開き状態に切断し、左右対称の模様で壁面を飾っているものもある。
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右側廊後方部 (15:36)?
左階上廊から右側廊後方部を見る。 左の花押 (トゥグラ) [Tughra] は、"アブー・バクル" [Ebu Bekir] 、真ん中は "オスマン" [Osman bin Affan] 、右は "ハサン" [Hasan ibn Ali] 。
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左階上廊 (15:36)?
床に貼られている大理石はマルマラ海のマルマラ島 (プロコネソス) で産出されたものを使用し、美観を大切にするため、ひび割れによって出来た模様は、隣り合う石材ブロックと模様がつながるように配置している。  また、壁に使用されている大理石には、石を見開き状態に切断し、左右対称の模様で壁面を飾っているものもある。
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左階上廊 (15:36)?
床に貼られている大理石はマルマラ海のマルマラ島 (プロコネソス) で産出されたものを使用し、美観を大切にするため、ひび割れによって出来た模様は、隣り合う石材ブロックと模様がつながるように配置している。  また、壁に使用されている大理石には、石を見開き状態に切断し、左右対称の模様で壁面を飾っているものもある。
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ミフラーブ [Mihrap] (15:39)?
聖龕 (ミフラーブ) は、モスクのキブラ壁カアバの方向を示す礼拝堂内部正面の壁)に設置された窪み状の設備。
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ミフラーブ [Mihrap] とアプシス天井のモザイク画 (15:39)?
聖母子のモザイク画と、その右手に、大天使ガブリエルのモザイク画がある。 (階上廊のモザイク配置 ??)
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ミフラーブ [Mihrap] (15:39)?
大聖堂の後陣 (アプシス) にあたる位置に、ミフラーブ [Mihrap] が据えられている。
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アプシス天井のモザイク画 (867年落成) (15:40)?
アプシスを飾る 「聖母子」 はイコノクラスム終結直後の作で、繊細華麗な美しさは比類がない。
この大聖堂は、ビザンチン特有のモザイクによって壁面の多くが飾られていた。 オスマンの支配下で、漆喰の下に塗り込められた、これらのモザイクは、トルコ共和国時代 (初代大統領アタチュルク) に入ってから、1933 ~ 34年にかけての大修復で昔の姿をほぼとりもどした。 トルコ人の寛容さ、寛大さは、メヴラーナの教えを受け継いでいるのかも知れない。
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アプシス天井のモザイク画 (867年落成) (15:40)?
聖母子のモザイク画と、その右手前のアッラーの花押と一部重なる所に、大天使ガブリエルのモザイク画がある。 (階上廊のモザイク配置 ??)
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ミンバル [Minbar] (15:41)?
階段状の設備は、モスクになってから付けられた ミンバル 「説教壇」 。
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
スルタン専用の礼拝室 [Hünkar mahfili] (15:42)?
六角形の部屋は、スルタンの礼拝のために造られたスルタン専用の特別席。
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スルタン専用の礼拝室 [Hünkar mahfili] (15:42)?
六角形の部屋は、スルタンの礼拝のために造られたスルタン専用の特別席。
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マフフィル [Mahfil] / マクスーラ [Maqsurah] (15:43)?
正面に見える小部屋は、一般の礼拝席とは分離された特別席で、"マフフィル" 又は "マクスーラ" と呼ばれ、来賓などの特別席として使用されていた。
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中央身廊全景 (15:43)?
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Movie 『007 ロシアより愛をこめて
中央身廊全景 (15:44)?
アヤソフィアは537年に完成したとき世界最大の教会で、1520年にセビリア大聖堂が完成するまで、世界一の座を守り続けた。 最大の中央のドームは幅が31.24m、床面からの頂上の高さが55.6mで、幅はパンテオンより4分の1狭いが、高さは4分の1高い。パンテオンとは異なり、頂上に眼窓はなく、ドームの基部に環状に窓が並んでいる。 さらに中央ドームの両側に同じような半円ドームがある。
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出口通路にあるモザイク画 (9世紀頃の作品) (15:45)?
このモザイクはアヤソフィア再建に関わるもので、向かって右側に描かれているのは、コンスタンティノポリスの創建者コンスタンティヌス大帝。 コンスタンティノポリスの町を聖母子に献上している。 左側に描かれているのは、ハギア・ソフィア (アヤ・ソフィア) を再建 (532 ~ 537年年) したユスティニアヌス帝で、聖堂を献上している。 (アギア・ソフィア大聖堂平面図)
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出口通路にあるモザイク画 (9世紀頃の作品) (15:45)?
このモザイクはアヤソフィア再建に関わるもので、向かって右側に描かれているのは、コンスタンティノポリスの創建者コンスタンティヌス大帝。 コンスタンティノポリスの町を聖母子に献上している。 左側に描かれているのは、ハギア・ソフィア (アヤ・ソフィア) を再建 (532 ~ 537年) したユスティニアヌス帝で、大聖堂を献上している。 (アギア・ソフィア大聖堂平面図)
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西側のミナレット [Minaret] (15:46)
モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。 塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。 初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた。
「東北東」MAPLay. 1 h
北側のミナレット [Minaret] (15:49)
「南東」MAPLay. 1 i

 アザーン

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