旅の栞 (フランス)

5月28日

モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] ~ パリ [Paris]

2024年5月31日(金)10:00をもちましてURLは下記の通り変更になります。
http://arisada.f5.si/france/newpage7.html

back home next

モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel]
現在モン・サン・ミッシェルのある島は、8世紀初め,深い湾のなかに突き出た,高さ78メートルの花崗岩でできたモン・トンブ(墓の山)と呼ばれる島であったが、現在ではセー川,セリュヌ川,クェノン川の3つの河川 (MAP) に囲まれた地帯で生じた沖積土層で覆われており、大潮のときを除けば,砂州を歩いてモン・サン・ミッシェルまで行くことができる。 これらは、古生代後期のヘルシニア造山活動の古い痕跡と考えられている。 トンブ山の名称は、ラテン語で墳丘を意味する "tumba" 、ケルト語で高地を意味する "tun" に由来する。
 モン・サン・ミッシェルのルーツを探れば, イタリアでは,5世紀から聖ミカエルに捧げられた教会が出来はじめ、イタリアのほかにガリア、コンスタンチノープル、東方でも崇敬はさかんだった。 ヨーロッパではやがて,聖ミカエル崇敬は、2箇所の山に集中していく。 まず最初、5世紀末、イタリア半島南東部の標高1000メートルに近いガルガノ山で、人間の言葉を話す牡牛の奇跡と聖ミカエルの出現があり、それをきっかけに聖堂が建てられた。 ついで708年に,アヴランシュのオベール司教 [Évêque de aubert] も夢の中で聖ミカエルが出現し、トンブ山の頂上で牡牛が地面から引き抜いた杭を引きずって出来た円を見て、モン・サン・ミシェルに円形の礼拝堂を建てた。 信仰篤い人々が大天使の加護を願ってこの地を訪れ、モン・サン・ミシェルは間もなく巡礼地の要所となった。 オベール司教が建てた礼拝堂はなにも残ってはいないが、岩地の西側の、現在サント・オベール礼拝堂が建つ場所 (MAP) にあったと考えられている。
オベールは、大天使ミカエル(仏語でミッシェル)から、お告げを受けた時、初めはこれを悪魔のいたずらだと思い、お告げを無視してしまったため、罰として大天使ミカエルによって頭蓋骨に穴を開けられてしまったといわれている。  オベール司教が建てた小礼拝堂は岩盤を取り囲むように建てられた円形の建物であったが、933年頃に煉瓦を天上に向かって垂直に積み上げた、長方形の立派な礼拝堂に改築されている。 966年にはノルマンディー公リシャール1世ベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在の姿になった。 中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。

蒼いノクターン
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (07:43)
朝食のレストランから観る、モン・サン・ミッシェル。 今日は天気は雨。
「北」MAPLay. A 
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (08:00)
朝食のレストランから観る、モン・サン・ミッシェル。 今日は天気は雨。
「北」MAPLay. A 
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (08:01)
ホテルで朝食。
「東」MAPLay. A 
大通り門 [Porte du Boulevard] (09:27)
モン・サン・ミッシェルの干満差は最大 (満月時) で14.5mあり、潮位によって出入り口は替わる。 今は、満ち潮でないので、通常の入り口から入って行く。 入り口を入って、直ぐに見えてくるのが大通り門。
「北東」MAPLay. A 
プラールおばさんのレストラン "La Mère Poulard" (09:27)
写真の中央に見える、おばさんの看板が掛かった建物が、オムレツで有名なプラールおばさんのレストラン。 プラール婦人は、短時間で平らげる軽食に過ぎなかったオムレツを、一つの象徴として、ブランドに仕上げた女性。 因みに、この店は、名前が通っているだけに、結構値が張る。
「東」MAPLay. A 
プラールおばさんのレストラン "La Mère Poulard" (09:28)
オムレツで有名なプラールおばさんのレストラン。 プラール婦人は、短時間で平らげる軽食に過ぎなかったオムレツを、一つの象徴として、ブランドに仕上げた女性。 因みに、この店は、名前が通っているだけに、結構値が張る。
「北北西」MAPLay. A 
王の門 [Porte du Roi] (09:28)
15世紀に造られた門で、門の前には堀と跳ね橋があり、門の上には落とし格子門が備わっている。 門の両脇には塔が有り、警備兵が巡回していた通路がある。
「東」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:29)
修道院への参道で、 巡礼者たちに宿や食事、巡礼の証を提供した店が軒を連ねたのが始まり。 現在も両側にぎっしりと店が並ぶ。 古い木組みの家に、趣のある看板は風情を醸し出している。
「東北東」MAPLay. A 
郵便局 [La Poste] (09:29)
写真の中央に "La Poste" と書かれた建物が郵便局。
「北東」MAPLay. A 
壁龕に設けられた公衆電話 (09:29)
「南東」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:29)
グランド・リュと呼ばれる参道大通り。
「北東」MAPLay. A 
アーティチョーク [Artichoke] の家 (09:29)
壁面が栗の木板で鱗のように覆われ、通りを跨ぐように建てられている建物は、17世紀の建物で、窓の上にある、尖り帽子のような屋根が、アーティチョークに似ている事からアーティチョークの家と呼ばれている。
「北東」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:30)
修道院への参道で、 巡礼者たちに宿や食事、巡礼の証を提供した店が軒を連ねたのが始まり。 現在も両側にぎっしりと店が並ぶ。 古い木組みの家に、趣のある看板は風情を醸し出している。
「北北東」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:31)
グランド・リュと呼ばれる参道大通り。 古い木組みの家に、趣のある看板は風情を醸し出している。
「南西」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:31)
この辺りのレストランは、日本語メニューをもっている店が多い。 1979年に、ユネスコの世界文化遺産に指定されたモン・サン・ミッシェルは、日本の代表的な聖地、厳島 (宮島) を有する広島県廿日市市と観光友好都市提携を結んでいる。 因みに、 厳島神社は、1996年に世界遺産に登録されている。
「北北東」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:31)
この辺りのレストランは、日本語メニューをもっている店が多い。
「北北東」MAPLay. A 
この島で一番細い道 (09:32)
「西北西」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:33)
修道院への参道で、 巡礼者たちに宿や食事、巡礼の証を提供した店が軒を連ねたのが始まり。 現在も両側にぎっしりと店が並ぶ。 古い木組みの家に、趣のある看板が風情を醸し出している。
「北」MAPLay. A 
サン・ピエール教会 [Eglise Paroissiale St-Pierre] (09:34)
岩山を掘り下げ、洞窟内に建設した教会。 巡礼の最盛期には、修道院の小教区教会として重要な役割を果たした。 入口横には、英仏百年戦争の折に大天使ミカエルのお告げを受けフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクの像が立つ。 ひかえめに佇む教会の中には大天使ミカエルがまつられ、祭壇の両サイドのステンドグラスから薄暗い教会の中に色の光が差し込む。 11世紀に岩山を削る形で作られた教会で、完成したのは17世紀と長い歳月をかけて造られた。
「西北西」MAPLay. A 
サン・ピエール教会 [Eglise Paroissiale St-Pierre] (09:35)
百年戦争において、フランス軍を勝利に導いた少女ジャンヌ・ダルク。 神のお告げを聞いたという彼女は、敵軍に捕えられた後に魔女と呼ばれて火あぶりの刑に処され、19歳という若さでこの世を去った。 ここでは、毎日11時からミサが行われている。
「南」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:35)
グランド・リュと呼ばれる参道。
「北北西」MAPLay. A 
グランド・リュ [Grande Rue] (09:35)
右の建物は、モン・サン・ミッシェルの中で最も古い14世紀の民家。 左上の壁面から突き出た像は、ガルグイユ [Gargueil] *と呼ばれる魔除けと雨樋を兼ねた、怪物などをかたどった彫刻。
「北」MAPLay. A 

英語のガーゴイル(英: Gargoyle)はフランス語のガルグイユ(仏: Gargouille)に由来する。
グランド・リュ [Grande Rue] (09:35)
右の建物は、モン・サン・ミッシェルの中で最も古い14世紀の民家。 因みに、現在のモン・サン・ミッシェルの人口は、24名で、その中には、5名の修道士と7名の修道女、計12名の聖職者が含まれている。 トンブ山の頂上に新しい聖堂が奉献されたのは708年10月16日のことだと言われている。 オベール司教はモン・サン・ミッシェルの修道生活を組織しなおし、そこに「公正な戒律を守りつつ、類まれなる大天使に我慢強く仕えつづける」聖職者を配置したのも12人であった。
「北」MAPLay. A 
修道院への階段 (09:37)
前方の建物は、修道院付属教会 [Église Abbatiale] 。 修道院とは言っても、百年戦争があったため、城塞を兼ねた造りになっている。
「南南西」MAPLay. A 
階段からの眺め (09:37)
修道院とは言っても、百年戦争があったため、城塞を兼ねた造りになっている。
「東」MAPLay. A 
守衛詰所 (哨兵の門) [Le châtelet] (09:37)
写真の右上に二本の旗が立った塔は、14世紀に建設された、守衛詰所 (哨兵の門) 。 入口を2つの小さな 塔が見守っており、外壁にはのそき穴がある。 傾斜の急な螺旋階段を上がったところに警備兵の部屋がある。
「南」MAPLay. A 
修道院への階段通路からの眺め (09:39)
修道院とは言っても、百年戦争があったた城塞を兼ねた造りになっている。
「東南東」MAPLay. A 
階段通路からの眺め (09:39)
修道院とは言っても、百年戦争があったた城塞を兼ねた造りになっている。
「北東」MAPLay. A 
守衛詰所 [Le châtelet] 前の階段通路に設けられた見張り窓 (09:40)
「東北東」MAPLay. A 
モン・サン・ミッシェルの水道蛇口<Plan> (09:45)
モン・サン・ミッシェルは岩山であったため、地下水は無く、雨水を水槽に貯めて配水していた。
「北北西」MAPLay. A 
元々あった岩山の一部<Plan> (09:45)
モン・サン・ミッシェルは岩山の上に建てられているため、元々あった岩山の一部が露出している。 この通路の右側が教会で、左側は修道僧の居住棟。 14世紀から16世紀にかけて建設されたこの居住棟は元来、修道院の幹部たちが居住していた。 居住棟と教会を直接つなぐ橋廊*が、写真には写っていないが、この通路の上に架かっている。
「南西」MAPLay. A 

池や通路の上に渡した廊下。
ゴルティエの跳躍 (南のテラス) [La terrasse du Saut Gautier] からの眺め (09:47)
ノルマンディーブルターニュ地方の境の、遠浅の海に浮かぶ小島がユネスコ世界遺産のモン・サン・ミッシェル。 周辺は潮の干満か激しく、時速10kmで18kmも海岸線が後退することもあるという。 満潮になるとモン・サン・ミッシェルは「海に浮かぶ孤島」となる。 しかし近年、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)のせいで周辺に大量の砂が堆積し、かつての孤島の景観が失われつつある。 そのため、近年中に道路を取り壊し、代わりに長い橋を架ける工事が進行中。 観光客は車で島へ入ることはできず、ナベット (Navette) と呼ばれるシャトルバスを利用して島へ向かう。 中央に見える川はクエノン川 [Le Couesnon] で、川から右側 (西側) がブルターニュ地域、川から左側 (東側) がノルマンディー地域。
「南」MAPLay. A 
ゴルティエの跳躍 (南のテラス) [La terrasse du Saut Gautier] からの眺め (09:47)
モン・サン・ミッシェルに投獄されていた、フランソワ1世の囚人で彫刻家のゴルティエ [Gaultier] (教会内陣の聖職者席と階段の透かし彫りは彼の作とされる) が、ボルガールのテラスから身投げしたという話から名付けられたテラス。 (南のテラスの海抜は80m。)
「西南西」MAPLay. A 
修道院付属教会 [Église Abbatiale] (09:47)
教会の尖塔には、金色の大天使ミカエル*の像が立っている。 (海抜160m。)
「北北東」MAPLay. A 

 モン・サン・ミシェルの大天使像は、1895年、パリのモンデュイ社 [Les Ateliers Monduit] で鋳造されたもので、鋼鉄の表面を銅板で蔽い、金めっきを施してある。 大天使の身長は 2.8m、翼と剣の先端までを合わせると 4.5mの高さがあり、重量は 520㎏に及ぶ。 モンデュイ社はフランスからアメリカ合衆国に贈られた "自由の女神" [Statue de la Liberté] 像を鋳造したことでも知られている。
 1935年、1987年、2016年の三度にわたって修復されている。 1935年の修復は尖塔上で行われ、1987年と 2016年の修復はヘリコプターで吊り下ろして行われた。 2016年にはペリグー近郊マルサック・シュル・リル [Marsac-sur-l'Isle] のソクラ社 [SOCRA] まで運ばれ、調査と修復が行われた。 (下参照)

フランス語では、ミシェル [Michel] と呼ばれる。
ソクラ社 [SOCRA] における修復作業 (出典:レサンシエル紙)
"ゴーチエの跳躍" と呼ばれるテラスと大階段 [Grand Degré] (09:47)
モン・サン・ミッシェルに投獄されていた彫刻家ゴーチエ (教会内陣の聖職者席と階段の透かし彫りは彼の作とされる) が、ボルガールのテラスから身投げしたという話から名付けられたテラス。
「西北西」MAPLay. A 
大階段 [Grand Degré] (09:48)
90段の階段がある、聖堂へつながる唯一の通路で、高い壁にはさまれた通路上の橋廊*から、敵を攻撃できた。 橋廊は右側の修道士居住棟と左側の教会を直接結ぶ形で架けられている。
「東北東」MAPLay. A 

池や通路の上に渡した廊下。
模型の展示室<Plan> (09:49)
モン・サン・ミッシェルの成り立ちを、時系列で示した模型が展示されている。 (下参照)
「西」MAPLay. A 
17-18世紀
13世紀には、ラ・メルヴェイユ [La Merveille] (驚異) が築かれている。

19-21世紀
19世紀になると、大々的な修復作業が行われ、ノルマン式採光塔のてっぺんに尖塔が建てられた。
モン・サン・ミッシェルの断面図 (1875)
岩山の傾斜部に建物を建てることによって、上部の教会を安定した状態で支えている。 言い換えれば、地下の建物は基礎の役目を兼ねて造られており、東の地下には太柱の礼拝堂、南の地下には聖マルタン礼拝堂、北の地下には30本キャンドルの礼拝堂、西の地下にはノートルダム地下礼拝堂が設けられている。 その他、西には1100年頃につくられたアキロンの地下祭室もある。 (モン・サン・ミッシェルの平面図)
1987年に行われた修復工事の様子を示した模型<Plan> (09:49)
1982年の激しい雷雨で、避雷針の役目をする剣が水平に曲がり、危険な状態になった。 そのため1987年、大天使ミカエル像をヘリコプターで吊り下ろし、全面的な修復をしたうえ、金メッキをし直して、同年10月4日に元の位置に戻す作業が行われた。
「南西」MAPLay. A 

(この部屋を出た所に、西のテラスがあるが、風雨が強かったため撮影していない。)
1987年に行われた修復工事の様子
出典:Entre ciel et mer,le Mont Saint-Michel by Jean-Paul Brighelli
修道院付属教会 [Église Abbatiale] <Plan> (09:52)
身廊から後陣 (東側) 方向を見る。 内陣、後陣はゴシック様式で造られている。 (外観写真)
祭壇前の床には、丸い穴が開いており、ガラス板が嵌め込まれている。 (拡大写真)
この穴は、後ほど行く、地下室の天上につながっている。
「東北東」MAPLay. A 

18世紀に西側の身廊部の一部が、落雷によって焼失したため、身廊の長さは、11世紀に造られた時より短くなっている。 焼失した身廊部は西のテラスに併合され、クラシックなファサードは1780年に再建されている。
修道院付属教会 [Église Abbatiale] <Plan> (09:52)
身廊から入り口方向 (西側) を見る。 西側は当初からある、ロマネスク様式で造られている。
当初 (11世紀) 、教会全体はロマネスク様式で造られていた。 ロマネスク建築は堅牢さと安全性を指向し、輪郭線と見る者の視線がすべて一点に収斂するように設計されている。 しかし、15世紀に東の部分 (内陣、後陣) が重みによって壊れ、再建された時は、その当時、流行っていたゴシック様式で建て直されたため、東側と西側では建築様式が異なっている。 フランスにある他のゴシック建築は、すべて細工のしやすい、柔らかい石灰岩で造られているが、この土地では、花崗岩だけが塩分を含む空気と湾特有の強風に耐えうる材料だったため、敢えて、細工の難しい花崗岩で仕上げられている。
 「西南西」MAPLay. A 
修道院付属教会 [Église Abbatiale] <Plan> (09:54)
クロッシング部から右翼廊 (南側) を見る。 この南翼廊の下には、聖マルタン礼拝堂が造られている。
他のカトリック教会は、装飾品や天上にフレスコ画があったり、贅沢な造りになっているが、この教会はその様なものは無く、抜け殻のようになっている。 フランス革命の時に殆ど大事なものは持ち去られ、その後、牢獄として使用されていた事もあり、内装はシンプルになっている。
「南南東」MAPLay. A 
聖ミカエルの小像<Plan> (09:57)
クロッシング部の北東角に飾られている、オリジナルの聖ミカエル*の木像。 (15世紀)
足下に悪の象徴である龍を踏みつけ、手には秤を持っている。 人の最期に、善行、悪行を秤にかけ、天国か地獄かを決めた言われている。 台座には、"Qvis vt Devs" (神のような人は誰ですか) と記されている。
「北東」MAPLay. A 

フランス語では、ミシェル [Michel] と呼ばれる。
修道院付属教会 [Église Abbatiale] <Plan> (09:57)
クロッシング部から左翼廊 (北側) を見る。 この翼廊の下には、30本キャンドルの礼拝堂が造られている。
「北北西」MAPLay. A 
修道院付属教会 [Église Abbatiale] <Plan> (09:58)
入り口方向に向かって撮影。 写真の左側は身廊。 写真の右側は左側廊
「西南西」MAPLay. A 
付属教会併設の土産店<Plan> (09:58)
この部屋は、嘗て、修道士が寝起きしていた部屋。  18世紀の落雷によって身廊と同様に一部焼失したため、現在は短くなっている。
「北北西」MAPLay. A 
付属教会併設の土産店<Plan> (09:58)
この部屋は、嘗て、修道士が寝起きしていた部屋。 18世紀の落雷によって身廊と同様に一部焼失したため、現在は短くなっている。
「南西」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (09:59)
ラ・メルヴェイユ棟の最上階、僧の憩いと瞑想の場。 また、祝祭日にはここで礼拝の行進が行われた。 円柱をわずかにずらすことで変化のある視覚効果が生まれ、周囲を歩くと柱が無限に続くような錯覚を得る。 列柱上の白亜の彫刻はかつて美しく彩色されていた。 石柱を含め下の部分は、強度の強い花崗岩で造られ、列柱上の彫刻は、柔らかい石灰岩で作られている。 彫刻は、オリーブや野菜、花がモチーフになっている。
「東北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (09:59)
1225~1228年に造られたラ・メルヴェイユ棟は、岩盤ではなく、勾配の急な斜面の上に人手でつくられた土台の上に建っている。 そのため、上部構造を軽くつくる必要があった。 花崗岩で出来た細い柱が回廊の屋根を支え、樫の木で造られたヴォールトが天井の役目を果たしている。 強度を上げるため,柱はずらして2列に配し、支点を増やした結果、真下の写字室の天井にかかる荷重は均等に振り分けられている。 回廊の周りは、.教会、食堂、 寝室、図書室など,修道士の暮らす空間すべてが配置されている。
「北北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (09:59)
ここは、ベネディクト派の修道僧か生活していた場所で、、僧の憩いと瞑想の場であった。 樫の木で造られたヴォールトが天井の役目を果たしている。
「南東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (09:59)
「北北西」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (09:59)
1877年に始まった回廊の修復工事で、エドゥーアード・コロイヤー [ÉdouardCorroyer] は、回廊に囲まれた庭に花崗岩の舗石による傾斜と溝を設け外部のガーゴイルから雨水が流れ出るようにした。
「北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:00)
中央に見える高い建物は、修道院の食堂。 その屋根の上に見える二本の円筒は、2階にある "賓客の間" の暖炉から伸びる煙突。
「北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:00)
回廊のヴォールトを支える柱は、全部で137本で、その内の10本だけが元々あった柱。 1877年に始まった回廊の修復工事で、エドゥーアード・コロイヤー [ÉdouardCorroyer] は、ほとんどすベての柱身を作り直し、傷みの目立つティンパヌムの彫刻を復元し、樫の木の板張りで半円筒ヴォールトを備えた骨組みを据えた。
「北北西」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:00)
強度を上げるため,柱はずらして2列に配し、支点を増やした結果、真下の写字室の天井にかかる荷重は均等に振り分けられている。
「東北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:01)
エドゥーアード・コロイヤー [ÉdouardCorroyer] は、回廊に囲まれた庭に花崗岩の舗石による傾斜と溝を設け外部のガーゴイルから雨水が流れ出るようにした。
「東北東」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:01)
回廊の西側にある、3アーチの窓 [Les 3 arches] 。
「西南西」MAPLay. A 
修道院の回廊の庭<Plan> (10:02)
左側の回廊で、海の見えているところが、3アーチの窓 [Les 3 arches] 。 回廊の屋根の上に見える二本の煙突は、2階にある "騎士の間" の暖炉から伸びる煙突。
「北西」MAPLay. A 
修道院の回廊の庭<Plan> (10:02)
エドゥーアード・コロイヤー [ÉdouardCorroyer] は、回廊に囲まれた庭に花崗岩の舗石による傾斜と溝を設け外部のガーゴイルから雨水が流れ出るようにした。
「西北西」MAPLay. A 
修道院の回廊の庭<Plan> (10:02)
強度を上げるため,柱はずらして2列に配し、支点を増やした結果、真下の写字室の天井にかかる荷重は均等に振り分けられている。
「西」MAPLay. A 
修道院の回廊 [Cloître] <Plan> (10:02)
右側 (人の進む方向) には、修道院の食堂がある。
回廊の周りは、.教会、食堂、 寝室、図書室など,修道士の暮らす空間すべてが配置されている。
「北北西」MAPLay. A 
修道院の食堂 [Réfectoire] <Plan> (10:03)
入口を入って直ぐ左右に、2階の "賓客の間の暖炉" から屋上に向かって煙突が伸びているため、少し暗くなっているが、少し進むと両サイドにある57の窓が急に眼に入る。 ここはベネディクト派修道士の食堂で、修道士は1日に2回の食事をしていた。 因みに、食事中の会話は禁止されているため、ワインや調味料の遣り取りは、全てジェスチャーで行っていた。 主に食べていたのは、スープ、野菜、パンで、飲み物はワインだった。 肉は貴重品で、たまに、魚や鳥肉は食べることが出来が、四本足の動物は食べることは出来なかった。
「東北東」MAPLay. A 
修道院の食堂 [Réfectoire] <Plan> (10:03)
中央に見える階段の上部は、説教壇に類するもので、食事中はこの壇上で、聖書やベネディクト派の教えが説かれ、それを聞きながら食事をしていた。 13~14世紀頃は、修道士の数は一番多く、約60人程度いたが、現在では12人になっている。
「南南東」MAPLay. A 
修道院の食堂 [Réfectoire] <Plan> (10:04)
柱が1本も無く、縦の線を基調とする厳かな空間で、丸天井には木が使われている。 写真中央やや右にある入口の左右の壁内には、2階の "賓客の間" にある、暖炉の煙突が屋上まで伸びている。 そのため、入口の壁は分厚くなっている。
「西南西」MAPLay. A 
修道院の食堂 [Réfectoire] <Plan> (10:07)
食堂を後に、賓客の間 [Salle des Hôtes] へ向かう。
「南東」MAPLay. A 
賓客の間 [Salle des Hôtes] <Plan> (10:09)
右端にあるのは二つの大きな暖炉。 中心部にある階段は、3階の食堂につながっている。
ここは有名な巡礼地であったため、多くの王侯貴族達も巡礼に訪れていた。 たとえばフランスの国王や高貴な巡礼者達は、多額の寄付を修道院にもたらしたため、精一杯の持てなしが行われた。 豪華な食事やワインを出して宴会が行われ、時にはここで休む事もあった。 料理はすぐ隣のタピスリーで区切られた厨房でつくられていたため、温かい料理を供することが出来た。 嘗て、床は絨毯が敷かれ、壁はタペストリーで飾られ、天井には豪華な絵が施されていた。 しかし、フランス革命などによって荒廃し、今は簡素な、むき出しの状態になっている。
「南南東」MAP
"賓客の間" の暖炉内部<Plan> (10:10)
今は使われていない二つの巨大な暖炉は、ナラの木をそのままくベることのできる大きさで、身分の高い訪問者に暖をとらせていた。 この快適な場所の熱を逃がさないように、床には絨毯が敷かれ、壁にはタピスリーが掛けられていた。 この煙突は、3階食堂の入口横を通り、屋上まで伸びている。
MAP
"賓客の間" の御手洗い<Plan> (10:11)
床に穴が開いているだけの、簡素なトイレ。 排泄物は直接、外部へ落下させていた。 (写真を参照) (図を参照)
「北東」MAP
聖マドレーヌ礼拝堂 [Ch. Ste-Madeleine] <Plan> (10:12)
"賓客の間" に隣接する、この礼拝堂は、13世紀に建てられ、 "マグダラのマリア" に捧げられている。 賓客達は、ここでお祈りを捧げた後、宴席に着いていた。 中央の窓ガラスには、巡礼の象徴であるホタテ貝と "マグダラのマリア" の象徴である香油壺が描かれている。 (拡大写真)
「東南東」MAP
太柱の礼拝堂 [Crypte des gros-piliers] <Plan> (10:14)
修道院付属教会は床から天井まで花崗岩でで きている。 40m上方で "飛び梁" [Flying buttress] と、小尖塔と、 花崗岩に彫られたレース状の階段を形成するゴ シック様式の内陣を下から支えているのが "太柱の礼拝堂" である。 地下の太い柱は、付属教会の基礎をなす部分で、10本の柱で内陣部分を支えている。 11世紀にロマネスク様式で建てられていた教会の内陣が、15世紀に建物の自重で崩壊し、新たにゴシック式で内陣が再建されたとき、この地下礼拝堂も手が加えられた。
「南東」MAP
太柱の礼拝堂 [Crypte des gros-piliers] <Plan> (10:14)
天井アーチは、フランボワイヤン [Flamboyant] 様式で造られている。
「南西」MAP
太柱の礼拝堂 [Crypte des gros-piliers] <Plan> (10:15)
高さ5mの太柱で、付属教会の内陣を支えている。 床にある四角いモザイクは、19世紀に作られた飾り。 19世紀には囚人が最終判決を待つ場所として使われた。
「南東」MAP
太柱の礼拝堂 [Crypte des gros-piliers] <Plan> (10:15)
天井に開けられた穴は、内陣の床を貫通しており、嘗て、鐘楼に鐘を吊り上げた際に用いられた。 今は、安全のため、ガラス板と格子で塞がれている。
「東南東」MAP
聖マルタン礼拝堂 [Ch. St-Martin] <Plan> (10:16)
修道院付属の教会の、右 (南) 翼廊の土台として1000年に建設されたロマネスク様式の礼拝堂。 高さ9mの円天井は儀式の際の歌声がよく響く造りになっている。
「南南東」MAP
聖マルタン礼拝堂 [Ch. St-Martin] <Plan> (10:16)
左側の通路は、"修道僧の納骨堂" への通路。
「南西」MAP
聖マルタン礼拝堂 [Ch. St-Martin] <Plan> (10:17)
窓の壁厚 (3m) を見ると分かるように、この部屋は付属教会の基礎としての役割を担っている。
「西南西」MAP
聖マルタン礼拝堂 [Ch. St-Martin] <Plan> (10:17)
左斜め前の壁面は、元々の岩山があったところ。 中央やや右側の通路は、"太柱の礼拝堂" からの通路。
「北北東」MAP
納骨堂 [Ossuaire] <Plan> (10:18)
元々は修道僧の納骨堂であったが、19世紀には監獄として使われていた。 1789年7月14日、バスチーユ監獄が襲撃された。 1年後、 革命派は「海上のバスチーユ」であるモン・サン・ミッシェルを占拠し、そこに残っていた、修道士の手になる装飾が施された貴重な写本をアヴランシュに運び、モン・サン・ミッシェルを革命政府のための監獄にした。 聖職者民事基本法に従わない司祭を投獄するのが目的だった。 これら一連の行動は、アヴランシュにおける共和派の「青服」 と王党派の「白服」との果てしない戦いのなかで進められた。  第一帝政期の1811年以降、モン・サン・ミッシェルは常設の監獄となる。 この機能は王政復古時代にも引き継がれ、軽罪、重罪刑務所という公式名称を与えられる。 モン・サン・ミッシェルは47年間このように使われ、 延べ1万4000人がここで獄中生活を送った。
「西」MAP
納骨堂 [Ossuaire] <Plan> (10:19)
この部屋には、木製の大きな車輪がある。 これは、下から荷物 (囚人用の食物) を吊り上げるための1820年に設置された 。 大車輪の中に6人の囚人が入り、ハムスターの回転車の様に中を歩き、荷物を巻き上げていた。 写真の中央に、柱に立て掛けてある "コロ" (台車) は、嘗て、実際に使われていた物で、荷物をこれに乗せ外壁面との摩擦を減らしていた

「北西」MAP
納骨堂 [Ossuaire] <Plan> (10:19)
写真中央の大車輪は、中に6人の囚人が入り、ハムスターの回転車の様に中を歩き、荷物を巻き上げていた様子を再現した物で、実際は中世の工事現場で使用されていたトレッド・ホイール・クレーン [Treadwheel crane] のレプリカ。 右の壁に立て掛けてあるのは "コロ" (台車) で、この "コロ" (台車) は、当時、実際に使われていた。 (下段参照)
「北西」MAP
トレッド・ホイール・クレーン [Treadwheel crane]
出典:Wikimedia Commons
踏み車のクレーン (13世紀の絵)
出典:Wikimedia Commons
納骨堂 [Ossuaire] <Plan> (10:20)
荷揚げ口から、下を見たところ。 木製のレールの上に乗せられた"コロ" (台車) に、約2トンの荷物 (囚人用の食料) を乗せ、鎖で引き上げていた。 因みに、この"コロ" (台車) は、レプリカ。
「南南東」MAP
納骨堂 [Ossuaire] からの景色<Plan> (10:20)
ノルマンディーブルターニュ地方の境の、遠浅の海に浮かぶ小島がユネスコ世界遺産のモン・サン・ミッシェル。 周辺は潮の干満か激しく、時速10kmで18kmも海岸線が後退することもあるという。 満潮になるとモン・サン・ミッシェルは「海に浮かぶ孤島」となる。 しかし近年、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)のせいで周辺に大量の砂が堆積し、かつての孤島の景観が失われつつある。 そのため、近年中に道路を取り壊し、代わりに長い橋を架ける工事が進行中。 観光客は車で島へ入ることはできず、ナベット (Navette) と呼ばれるシャトルバスを利用して島へ向かう。 中央に見える川はクエノン川 [Le Couesnon] で、川から右側 (西側) がブルターニュ地域、川から左側 (東側) がノルマンディー地域。
「南南東」MAP
納骨堂 [Ossuaire] からの景色<Plan> (10:20)
「南西」MAP
納骨堂 [Ossuaire] の荷揚げ口<Plan> (10:20)
荷物 (コロ) に繋がった鎖は、途中、滑車を経て回転車の軸に繋がれている。 この部屋は、嘗て、納骨堂であったため床下やアーチの奥の部屋には修道僧の遺骨が納められていたが、現在は移されている。
「西南西」MAP
聖エティエンヌ大聖堂 [Chapelle Saint-Étienne] <Plan>
"病院"(14世紀初頭に崩壊)と "修道僧の納骨堂" の間にある、亡くなった修道士のための礼拝堂。 正面祭壇の台座には、ギリシャ文字で "Α (アルファ)" と "Ω(オメガ) " の文字が刻まれている。 "Α (アルファ)" は、ギリシャ文字の最初の文字で、"Ω(オメガ) " は、ギリシャ文字の最後の文字であることから、最初から最後までを意味し、「生と死」「永遠」を示唆している。 左の壁龕には、死を嘆くピエタ像が飾られており、19世紀には、ハンセン氏病患者がこの場所に収容されていた。 (写真出典:Wikipedia)
「東北東」MAP
聖エティエンヌ大聖堂 [Chapelle Saint-Étienne] <Plan> (10:21)
ここは、1830年 まで死体を安置する場所として使用された。 壁龕には15世紀に作られた、死を嘆くピエタ像が置かれている。 フランス革命の時に、マリアの膝に抱かれたキリスト像の頭部が無くなった。
「西北西」MAP
聖エティエンヌ大聖堂 [Chapelle Saint-Étienne] <Plan> (10:21)
12世紀に建てられた礼拝堂で、聖ステファヌス礼拝堂 [Chapelle Saint-Stephanus] と同義語。 "Stephanus" をフランス語で表記すれば、"Étienne" となる。 19世紀には、ハンセン氏病患者がこの場所に収容された。
「西」MAP
聖エティエンヌ大聖堂 [Chapelle Saint-Étienne] <Plan> (10:22)
左のドアの向こうに、ロバート・デ・トリニーの病院 [ [Infirmerie de Robert de Torigni] がある。 ロバート・デ・トリニーは第十六モン・サン・ミッシェル修道院長で、"病院" と "エティエンヌ礼拝堂" を造った人物。 正面の壁にある1/4状の円盤は、"3人の死者と3人の聖者" と題したフレスコ画で、13世紀のオリジナル作品。 左側にあった、もう一枚の作品は無くなっている。 このフレスコ画は、生きている間は、修道士、王侯貴族、庶民など、身分の差はあっても、死んでしまえば身分の差など無くなってしまう事を示唆していた。 このフレスコ画は、元はロバート・デ・トリニーの病院内にあったものを、この聖堂で展示している。
「西」MAP
南北階段 [Escalier nord-sud] <Plan> (10:23)
ここは、西のテラスの下部にあたり、元々巡礼者達が教会に上がっていくための巡礼の道だったところ。
「北北西」MAP
南北階段 [Escalier nord-sud] <Plan> (10:23)
この通路に面した部屋は、牢屋として使用されていたと推測されるが、フランス革命の際に資料が散逸し、定かではない。
「北北西」MAP
修道士の散歩道 [Promenoir des moines] <Plan> (10:25)
ここの部屋は、嘗て、"修道士の散歩道" として紹介されていたが、近年、修道士の食事場所、または、作業場所であったとする説が有力になっている。 この部屋は、ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に造られたため、2つの様式が混在している。 分厚い壁は、ロマネスク様式、天井は12世紀初頭に生まれたゴシック様式のヴォールトと呼ばれる様式が使われている。
「東」MAP
修道士の散歩道 [Promenoir des moines] <Plan> (10:27)
壁面には、元々の岩山が露出している箇所がある。
「東」MAP
修道士の散歩道 [Promenoir des moines] <Plan> (10:27)
壁面には、元々の岩山が露出している箇所がある。
「東南東」MAP
騎士の間 [Salle des Chevaliers] <Plan> (10:29)
騎士の間と呼ばれている部屋は、じつは修道士の写字室で、モン・サン・ミッシェルが修道院だった時代には、騎士や在俗の者は一人として修道士専用のこの場所に足を踏み入れたことはなかった。 しかし19世紀に画家たちがモン・サン・ミッシェルに注目したとき、彼らはこの部屋を背景に、写本にかがみこむ修道士ではなく、当然のように騎士と犬を描いたため、"騎士の間" と呼ばれるようになった。 (下図参照)
「東北東」MAP
出典:Entre ciel et mer,le Mont Saint-Michel by Jean-Paul Brighelli
騎士の間 [Salle des Chevaliers] <Plan> (10:29)
上階の回廊と中庭を支えるために建設され、ここで修道僧たちは写本をしたり執務に励んでいた。 手が悴むと写本が出来ないため、この部屋には暖炉が設けられ、断熱を兼ねたタペストリーが壁に掛けられていた。 ここで、所蔵されていた数千の文献は、フランス革命によって殆ど無くなってしまい、残ったのは203冊のみであった。 残った文献はオベール司教がいたアヴランシュの市立図書館に保存されている。 天井にカビがあるのは、この上が回廊の中庭であるため、雨水の浸透によって生じている。 また、床下には貯蔵庫があり、ワインや食料などを貯蔵していた。
「東北東」MAP
騎士の間 [Salle des Chevaliers] <Plan> (10:30)
モン・サン・ミシェルの貴重な写本は、現在、アヴランシュ市立図書館の空調を完備した資料室に保管されている。 それらは、6世紀から15世紀にかけて集められた修道院の豊かな蔵書のうち、盗難や紛失をまぬがれたもので、多くの筆写と写本装飾を生みだした、写字室の活動を今に伝えるものである。
「東北東」MAP
騎士の間 [Salle des Chevaliers] <Plan> (10:30)
この部屋には、二つの暖炉があり、暖炉の煙突は、回廊の屋上まで伸びている。 また、"賓客の間" と同じようにトイレが設けられていた。 写真中央やや右にある螺旋階段を降りると、一階には "救貧、布施分配室"があるが、現在は記念品を販売するショップになっている。
「東北東」MAP
ラ・メルヴェイユ [La Merveille] の外観 (10:53)
ラ・メルヴェイユ [La Merveille] は、「驚異」を意味するフランス語で、 修道院付属の教会北側の建物が、こう呼ばれている。 ゴシック様式の3層構造で、最下層は貧者のための布施分配室、2階は貴賓室と写字室 (騎士の間) 、3階に聖職者専用の回廊と食堂がある。 聖職者を最上階級と見ていた中世の階級社会を如実に示している。
「東南東」MAPLay. B 
ラ・メルヴェイユ [La Merveille] の外観 (10:54)
3階には "聖職者専用の食堂" 、2階には "賓客の間" 、最下層の1階には、貧者のための "救貧、布施分配室" がある。 中央やや左の壁面が、他と違っているのは、"賓客の間" のトイレ設備のため。 (写真を参照) (図を参照)
「南」MAPLay. B 
La Belle Normande 店内 (11:22)
パンとペストリーの店には、パン屑を求めて雀がたくさんやって来る。
「北北西」MAPLay. B 
La Belle Normande 店内 (11:24)
パンとペストリーの店には、パン屑を求めて沢山、雀がやって来る。 店内には、日本語を含め、主要国語で "雀に餌をあげないで下さい" と書かれた貼り紙があるが、効果は見てのとおり。
「北北西」MAPLay. B 
La Belle Normande (11:33)
グランド・リュ [Grande Rue] にあるパンとペストリーの店。 昼食をとったパン屋さん。
「東南東」MAPLay. B 
グランド・リュ [Grande Rue] (11:34)
修道院への参道で、 巡礼者たちに宿や食事、巡礼の証を提供した店が軒を連ねたのが始まり。 現在も両側にぎっしりと店が並ぶ。
「北東」MAPLay. B 
プラールおばさんのレストラン "La Mère Poulard" (11:36)
写真の左手に見える、おばさんの看板が掛かった建物が、オムレツで有名なプラールおばさんのレストラン。
「北西」MAPLay. B 
プラールおばさんのレストラン "La Mère Poulard" (11:37)
プラール婦人は、短時間で平らげる軽食に過ぎなかったオムレツを、一つの象徴として、ブランドに仕上げた女性。 因みに、この店は、名前が通っているだけに、結構値が張る。
「北」MAPLay. B 
グランド・リュ [Grande Rue] (11:38)
修道院への参道で、 巡礼者たちに宿や食事、巡礼の証を提供した店が軒を連ねたのが始まり。 現在も両側にぎっしりと店が並ぶ。
「西南西」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェルの出入口 (11:40)
満潮時には、この通路は使えなくなるため、別の通路が用意されている。
「北東」MAPLay. B 
木製の桟橋 (11:40)
出入口と道路の間は、木製の桟橋で結ばれている。
「東」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (11:45)
南側から見た、モン・サン・ミッシェル。
「北北西」MAPLay. B 

蒼いノクターン
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (11:46)
南側から見た、モン・サン・ミッシェル。
「北北西」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (11:46)
南側から見た、モン・サン・ミッシェル。
「北北西」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (11:47)
南側から見た、モン・サン・ミッシェル。
「北北西」MAPLay. B 
島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防) (11:48)
この道路は、間もなく、橋に取り換えられる。 右に見える川は、クエノン川 [Le Couesnon] 。
(モン・サン・ミッシェルを背に、陸側を撮る。)
「南南東」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (11:51)
南側から見た、モン・サン・ミッシェル。
「北北東」MAPLay. B 
工事中の橋 (11:54)
満潮になるとモン・サン・ミッシェルは「海に浮かぶ孤島」となる。 しかし近年、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)のせいで周辺に大量の砂が堆積し、かつての孤島の景観が失われつつある。 そのため、近年中に道路を取り壊し、代わりに長い橋を架ける工事が進行中。
「南東」MAPLay. B 
工事中の橋 (11:54)
満潮になるとモン・サン・ミッシェルは「海に浮かぶ孤島」となる。 しかし近年、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)のせいで周辺に大量の砂が堆積し、かつての孤島の景観が失われつつある。 そのため、近年中に道路を取り壊し、代わりに長い橋を架ける工事が進行中。
「北西」MAPLay. B 
シャトルバスの停留所 (12:11)
ここから、モン・サン・ミッシェル行きのバスが出ている。 すぐ左手に、宿泊ホテル "Le Relais Saint Michel" がある。
「南」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:12)
右手は、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)。 左手はクエノン川 [Le Couesnon] 。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:14)
クエノン川 [Le Couesnon] 越しに見る、モン・サン・ミッシェル。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:15)
クエノン川 [Le Couesnon] 越しに見る、モン・サン・ミッシェル。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:16)
クエノン川 [Le Couesnon] 越しに見る、モン・サン・ミッシェル。
「北」MAPLay. B 
遊歩道の新プロムナードデッキからの景観 (12:22)
モン・サン・ミッシェル・ダム [Barrage du Mont Saint Michel] の上には、デッキが設けられている。
「北」MAPLay. B 
新プロムナードデッキからの景観 (12:23)
モン・サン・ミッシェル湾はモン・サン・ミッシェルを中心に、西はブルターニュ地方のカンカル [Cancale] (MAP) から東はノルマンディー地方のグランヴィル [Granville] (MAP) まで続いていて、その特徴は何と言ってもヨーロッパで一番と言われる潮の干満の差で、大潮になると干潮時と満潮時の差が約13mに達する。 その際、満潮時はモン・サン・ミッシェルを海で取り囲むばかりでなく、干潮時には河岸から約18㎞の地点まで水が引いていき、これにより、モン・サン・ミッシェル湾のなんと約6割が砂浜に変わる。 干潮により海の底から姿を見せた地面は、日中は満潮に変わるまでの間、約6時間、日差しを浴び温められる。 地面が水面に隠れた後は、その地面が海水を温め、海水温が上昇する。 水温の上昇は珪藻などのプランクトンの繁殖を促し、食物連鎖の土台部分を支えるプランクトンが増える事によって、捕食する動物も恩恵を受ける。 潮の満ち引きのリズムが、モン・サン・ミッシェル湾のあらゆる命を育てる原動力になっていると考えられる。  モン・サン・ミッシェル湾の西方には、カンカル [Cancale] のカキ養殖場*や、年1万トンの生産高を誇る、280km にわたって延々とつづくムール貝の養殖場がある。
「北西」MAPLay. B 

元々、フランスにはブロン [Belon] というヒラガキ [Huîtres plate] があったが、乱獲で天然の牡蠣床が少なくなり、ポルトガルから輸入した牡蠣を養殖していた。 しかし、1960年代の終わりから70年代にかけて、病気が蔓延し、全滅の危機に陥った。 そのため、病気に強い宮城県産のマガキ [Huître creuse] がフランスに輸入され、養殖に使用されるようになった。 結果、現在のフランス産の牡蠣は、日本をルーツとするマガキが殆どである。

蒼いノクターン
新プロムナードデッキからの景観 (12:23)
「北東」MAPLay. B 
新プロムナードデッキ (12:23)
「東」MAPLay. B 
新プロムナードデッキからの景観 (12:24)
「北」MAPLay. B 
新プロムナードデッキからの景観 (12:25)
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:27)
右手は、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)。 左手はクエノン川 [Le Couesnon] 。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:28)
右手は、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)。 左手はクエノン川 [Le Couesnon] 。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:28)
右手は、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)。 左手はクエノン川 [Le Couesnon] 。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル [Mont-Saint-Michel] (12:30)
右手は、島と陸地をつなぐ約2 kmの道路(堤防)。 左手はクエノン川 [Le Couesnon] 。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェルとその湾(Mont-Saint-Michel et sa baie) (12:35)
モン・サン・ミッシェルは、世界遺産としてよく知られているが、実はユネスコが指定した世界遺産は、「モン・サン・ミッシェルとその湾(Mont-Saint-Michel et sa baie)」として指定しており、修道院のある島だけでなく、島のあるモン・サン・ミッシェル湾とそれを取り囲む陸地までも世界遺産として指定している。  このことは、建築物を周囲の環境から切り離さずに扱っている点で重要な意味を持っている。 周囲の環境が変われば、モン・サン・ミッシェルもまた、変わってしまう。
「北」MAPLay. B 
宿泊ホテル: ル・ルレ・サン・ミッシェル [Le Relais Saint Michel] (12:41)
「南」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェル最寄りの町 (13:06)
ラ・ジャコティエール・アルデヴォン [La Jacotiére Ardevon] 通りを経て、パリへ向かう。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェルを遠望 (13:07)
ラ・ジャコティエール・アルデヴォン [La Jacotiére Ardevon] 通りからの眺め。 モン・サン・ミッシェルを後にパリへ向かう。
「北」MAPLay. B 
モン・サン・ミッシェルを遠望 (13:11)
ポン・ランデ [Rue du Pont Landais] 通りからの眺め。 モン・サン・ミッシェルを後にパリへ向かう。
「西北西」MAPLay. B 


パリ [Paris]
二日ぶりにパリへ戻る。 今夕はオペラ座内のレストランで夕食を済ませ、宿泊ホテルへ向かう。

枯(紅)葉
エトワール凱旋門 (17:57)
「東」MAPLay. B 
エトワール凱旋門 (17:57)
「北東」MAPLay. B 
エトワール凱旋門 (17:57)
「北」MAPLay. B 
エトワール凱旋門 (17:58)
「北北西」MAPLay. B 
エトワール凱旋門 (17:58)
前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まり、ルイ・フィリップの王政復古時代、1836年に完成した。 ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年12月15日にセントヘレナ島から戻ったナポレオンの遺体がアンヴァリットに改葬された時であった。 この門は、世界最大級の門で、高さが50m、幅45mある。 古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。 エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。
「北西」MAPLay. B 
Concorde Opéra Paris 前の交差点 (18:08)
右手のホテルは、今夕泊まる "コンコルド・オペラ・パリ" [Concorde Opéra Paris] ホテル。 通り過ぎて先にレストランへ向かう。 正面の建物は、サン・ラザール駅 [ Gare Saint Lazare] 。
「北北東」MAPLay. B 
ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] /オペラ座 [l'Opéra] (18:13)
右手の建物が、ガルニエ宮殿 (オペラ座) 。
「東北東」MAPLay. B 
ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] /オペラ座 [l'Opéra] (18:15)
「北北東」MAPLay. B 
ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] /オペラ座 [l'Opéra] (18:15)
「北」MAPLay. B 
ガルニエ宮殿 [Palais Garnier] /オペラ座 [l'Opéra] (18:15)
「北」MAPLay. B 
ロペラ・レストラン [L'Opéra Restaurant] (18:18)
夕食のレストラン。 外観はオペラ座と同じく石造りの重厚な趣きだが、内部はオペラ座の豪華絢爛なインテリアとは全く異なるモダンなデザイン。 赤と白を基調にした内装が印象的。 レストランは、オペラ座が開かれてから136年後の2011年にオープンした。 上階は、オペラ座内の Salon du Glaciert
「西南西」MAPLay. B 
ロペラ・レストラン [L'Opéra Restaurant] (18:19)
オペラ座 (ガルニエ宮) に向かって右端の出っ張った部分に、あるレストラン。 この場所は、建物が最初に建てられた頃には、オペラ座に来場する劇場の支援者ら[Abonnés]の "車 (馬車) 寄せ" のスペースとして設計されており、四輪馬車から建物内部へ直接入れるようにデザインされていた。 直径13.5mのドームによって覆われている。 上階は、オペラ座内の Salon du Glaciert
「北北西」MAPLay. B 
テラス様の中2階席 (18:21)
オペラ座は、歴史的建造物であるため、レストランの建物は、オリジナルの建造物には触れることは出来ず、右の壁面とレストランの中2階との間には隔たりがある。
MAPLay. B 
ピロティ式の中2階 (18:22)
オペラ座は、歴史的建造物であるため、レストランの中2階は、オリジナルの建造物には触れることは出来ず、下から柱で支えられたピロティ構造になっている。
MAPLay. B 
突き出し「アミューズ」 (18:32)
MAPLay. B 
前菜「オードブル」:トマトとモッツァレラのサラダ (18:44)
MAPLay. B 
魚料理「ポワソン」:スズキとホワイトアスパラ (19:10)
MAPLay. B 
デザート「デセール」:オペラケーキ (19:33)
MAPLay. B 
レストランの一階部分 (19:54)
内装は、赤と白を基調とした、モダンな造りになっている。
MAPLay. B 
レストルームの入り口 (19:54)
歴史的建造物である躯体部分には、手を加えていない。
MAPLay. B 

レストルーム内の照明 (19:55)
 赤色照明で、モダンな雰囲気を演出している。
MAPLay. B 
ロペラ・レストラン [L'Opéra Restaurant] (20:11)
オペラ座は、歴史的建造物であるため、建築家オディール・デック [Odile Decq] は、オリジナルの壁、柱、または他の建造物に触れずに、レストランを設計ることが要求された。 そのため、自立構造の壁面を曲面ガラスでつくり、その内部は、躯体に依存しないよう、ピロティ構造で中2階を設けている。 上階は、オペラ座内の Salon du Glaciert
「南西」MAPLay. B 
グリュック通り [Rue Gluck] (20:11)
左の建物は、オペラ座 [l'Opéra] 。 これから、宿泊ホテル "コンコルド・オペラ・パリ" [Concorde Opéra Paris] * へ向かう。
「北北西」MAPLay. B 

コルド・オペラ・パリは、2015年1月に "ヒルトン・パリ・オペラ" [Hilton Paris Opéra] に改称されている。
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] のロビー (20:25)
パリとノルマンディーの間の鉄道網とその大西洋横断港を管理する "西鉄道会社" [Compagnie des Railroads de l'Ouest] によって1889年に "Grand Hotel Terminus" という名前で開館された。 経営陣は、 "グラン・マガザン・デュ・ルーヴル" [Grands Magasins du Louvre] (ルーヴル百貨店) に委託された。 建築家 "Juste Lisch" は、1889年の万国博覧会への来場者を歓迎するため、ルーヴル社 [Sociétédu Louvre] より依頼を受け、豪華なデザインで仕上げた。 ユニバーサル・エキシビション (パリ万博) を訪れるため、サン・ラザール駅 [ Gare Saint Lazare] (Juste Lischの設計) に到着した英国人旅行者の多くは、このホテルに宿泊した。 1972年には "コンコルド・サン・ラザール" と改名され、その後 "コンコルド・オペラ・パリ" となった。 ヒルトン・グループが2013年末に買収し、2015年1月に "ヒルトン・パリ・オペラ" [Hilton Paris Opéra] として、新たに営業を開始した。 因みに、エッフェル塔は、1889年の万国博覧会に合わせて建てられた。
「北西」MAPLay. B 
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] のロビー (20:25)
4つの路線が乗り入れ、観光に便利な "サン・ラザール駅" の真横に位置し、古きよき時代の面影を残す老舗ホテル。 1889年のパリ万博に合わせて開業され、重厚に金を配した吹き抜けロビーは文化遺産に指定されている。
「北北西」MAPLay. B 
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] (20:28)
玄関からロビーへのアプローチ。
「北」MAPLay. B 
コンコルド・オペラ・パリの玄関 (20:29)
前の通りは、サン・ラザール通 [Rue Saint-Lazare] 。 このホテルからオペラ座まで、徒歩圏内にある。
「西」MAPLay. B 
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] のロビー (20:30)
1889年のパリ万博に合わせて開業され、重厚に金を配した吹き抜けロビーは文化遺産に指定されている。
「北東」MAPLay. B 
コンコルド・オペラ・パリ [Concorde Opéra Paris] (20:55)
2015年1月に "ヒルトン・パリ・オペラ" [Hilton Paris Opéra] に改称されている。
「北西」MAPLay. B 


back home next